視界に映る天井を、ただ、ぼんやりと見上げていた。

 

住み慣れた自室ではなく、時折恐ろしさすら感じる岩肌ではなく。

 

クリーム色の壁紙が間接照明の光を受けてゆらゆら揺れて見えるその様を。

 

ただ、ぼんやりと見上げている。

 

横になったベッドには、今時こんな色のシーツが売られているのかと疑いたくなるようなピンクが敷き詰められ、だけど足下の方はぐちゃぐちゃと丸まり少し動けば外れて落ちてしまいそうだ。

 

シャワーの音。

 

自分じゃない誰かの気配。見知らぬもの。

 

朧な記憶。

 

息遣い。

 

 

抱かれて喘いだ、その甘く媚びる嬌声。

 

 

 

 

                  自分の、声。

 

 

 

 

 

水音がやんで、人の気配が直に伝わる。咄嗟に閉じた瞼に当たる視線は無遠慮で容赦がない。早く、早く消えてくれと心の中で何度も繰り返すのにそれが聞き入れられたことは一度もない。

いつだって。

自分の望むようにはならないのだと。

 

ぬめった舌が瞼を舐める。その感触に身震いすると、低めた笑い声が耳元に響く。

存外に優しく抱き締められ、戸惑いつつも目を開くと。

知らない誰かが、下卑た笑いを浮かべそれでも振り払うこともなく囁かれる言葉に頷く。

 

また、会いたい。

 

いつ、とも、どこで、とも言わないし聞かない。聞いても意味がない。

頭の中に反響するのは、けたたましい警告音と誰かの悲鳴。

早く、はやく一人になりたい。そればかり思いただ機械仕掛けの人形のように頷く。繰り返す。

 

衣擦れの音と、遠ざかる足音。

 

掌の中の乾いた感触。

幾度目なのかも分からない、もう、覚えていないほど身に付いたそれ。

 

カサリ、と。

 

 

握りつぶされたそれを、目を閉じたまま壁に向かって投げ付ける。

静寂のその空間に、長く尾を引くのは嗚咽。

 

泣いて。

それでどうなるわけではない。なにかが変わるわけではない。

 

自らの犯したことが、消え去るわけではない。

 

 

 

醜くおぞましい体を起こし、投げ捨てたそれを拾い上げる。

くしゃくしゃの、人間の欲望の固まりはその罪深さを知らぬげに軽い。

 

指先で折る紙飛行機を、音のない世界に飛ばしてみる。

 

ひらり、それはありもしない風に乗り彼の心の中へと舞った。

 

 

 

 

ひらり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブルーから渡された紙幣を睨むように見据える。

一度は握りつぶされでもしたのか、皺の寄ったそれは神経質なほど丁寧に折り畳んである。

紙飛行機。

かつて、彼が大空を駆ったそれとはほど遠い、頼りないそれが飛ぶ空を思う。

意味するところは分からない。

分からないけれど、既に予兆めいたものはイエローの心の中に芽生えていた。

なにかが狂っている。

順調に動いているように思っていたなにかが、いま、はっきりと狂い始めている。そのキーワードとなるのはなにか。或いは、誰か。

考えるまでもない、騒動の火種はいつだって彼が持ち込んできた。そして最近の不穏な空気も、彼を中心に渦巻いている。

なにがあったのか、または“なにが起こるのか”。

苛々とした気持ちで唇を噛むと、それと同時に遠慮がちな声がかかる。

本来誰より神経質であろう、多感と表現するに相応しい少女が顔を覗かせ微笑んだ。

緩む頬で頷くと、軽やかな足取りで近付いてきたホワイトは彼の向かいにしゃがみ込んだ。

「顔、恐くなってるよ」

「元からだ」

「そう?イエローはもっと優しい顔する人だけどな」

「そういうのを買いかぶりって言うんだよ」

わざと眉を潜めて言い返したら、きょろりと動く丸い目が笑顔を作り、そしてすぐ不安げに逸らされた。

なにを言いたいのか分かっている。けれど自分から話し出す勇気もまた彼にはなかった。

「レッドのこと、なんだか…私はね、みんなの気持ちも分かるんだよ。分かるけど、でも…やっぱりいけないと思うんだ」

「ブラックも似たようなことを言ってたぞ」


「ブラックも?」

「ああ。ここで共同生活をしているし、同じ目的を持って闘っている。だから信頼関係が崩れるようなことはいけないんだってな」

「うん。そうだよね」

レッドの様子がおかしいことは分かってる。

気味が悪いほど虚ろだったり、冗談が過ぎるほどふざけていたり。その落差が激しくて

ついていけないと愚痴を零すブルーを一笑に付したが、確かに以前はよくじゃれ合っていた二人がここ数日で全くと言っていいほど接点をなくしてしまっていた。

ふれあいも。

会話すらも。

いまのガオズロックでレッドと言葉を交わすのは気まぐれだったはずの巫女くらいのもので、それまで丸一日でも姿を現さないことも頻繁だった彼女が日中かなりの時間を彼の部屋などで過ごしているのはどう考えても腑に落ちない。

話している内容をさりげなく窺ってみたこともあったけれど、天気や見かける動物のことなどどれもどうでもいいようなものばかりで今更二人が語り合うべきことでもないのは確かだった。

その要因となるのが自分たちの態度だということは分かっている。

「私…レッドのこと、嫌いなんかじゃないよ」

「ああ」

「レッドが少し、ほんの少し変だなって思うのは確かだけど…でも仲間だもん」

「ああ」

「ちゃんと話さなきゃダメだと思う。このままじゃ闘うことにだって影響が出てくるかもしれない。イエローもそう思うよね?」

「ああ」

「じゃあなにか、なんでもいいから、レッドと話してみてよ。イエローから、どうして私たちと距離を置くのか聞いてみてよ」

距離を、おく。

「…ああ」

「イエロー…さっきから“ああ”しか言わない…」

それ以外、なんと答えれば満足するというのか。

明確な答えなどなにもない。レッドのことはイエローとてどうにもならない問題となっている。彼のことには極力触れたくなかったのだ。

忘れているなにか。

大切なことを無理矢理奪われている気がする。

 

    “近付くな”

 

その言葉だけが頭の中に鳴り響く。

そしてもう一つ。

 

だから

 

だから言ったじゃない

 

 

ヒステリックに叫ぶ、女の声。

 

 

「イエロー!」

「え、あ…」

腕を掴んで見上げてくるホワイトの目が濡れた輝きを放つ。

「どうしたの?」

「ああ、いや…なんでもない」

「イエロー…私、みんなとここで暮らすの、楽しいよ」

楽しい?

「闘うのは辛いし、本当いうと苦しいけど。それでも仲間がいるんだって思ってるから、みんな一緒なんだって、信じられるって…思ってるから…」

思っているなら、口に出す必要はない。

イエローの持論の中にあるそれが健気な彼女の気遣いさえも打ち砕こうとする。

強い思いなら口に出して確認する必要はない。人に縋るような言い方をするはずがない。

少女が、心の中の重荷を打ち明け助けを求めているというのに、イエローの胸の内は暗く、重く、湿ったもので覆われどこを探しても優しさというものは存在しなかった。

「イエロー…レッドのこと、嫌い?」

「…ホワイトは聞くばかりだな」

「私は…私、レッドに話して欲しい。一人で抱えてること、ちゃんと教えて欲しいと思ってる。仲間だもん、力になれること、きっとあるから」

「そうか。…そうかもな」

曖昧に頷いて、それからもう、彼女の顔は見なかった。

 

 

出ていく背中を睨むように見据え、胸の内に渦巻く悪態を誰にともなくぶつける。

距離を置き始めたのは、本当はレッドからではない。その事実にすら気付かぬほど、いや、気付いていても認めたくはないほど彼の変化が激しくて、不安のなにもかもを彼の責任だと押しつけている。

団体行動をしているのだから、その輪の習性に自らを合わせるのは当然だと思う。個人を消し去れとは言わないが現状からそれは不必要だと判断した。だから名を名乗ることも許さなかったし、深入りすることも禁じてきた。なにもかもが闘う上で必要なことで、そうして守られるものも確かにあったというのに。

 

虐めだ。

こんなの、ただの虐めに過ぎない。

足並み揃え歩いてきた仲間が、ほんの少しの段差に躓き、それを待ってやる余裕が誰にもなかった。そのこと自体を責められればそれはそれで辛いけれど。

レッドがなにをした?

彼が、責められるほどのなにをしたというのか。

そう思う心はイエローとて十分に持っている。けれど相容れない魂に共感することが出来ないように、今となってはただ鬱陶しく、嫌悪の対象としてしか見ることが出来ないのだ。

初めから、彼から感じるそれはイエローの心をかき乱した。

落ち着きなく騒ぐ胸に、彼は受け入れかねる存在として刻みつけられた。

けれど。

 

虐めだ。

子供のような、低俗な対応。話し合う口も通わせる心も彼に向けては全て閉ざす。こうしてともにある環境の中で続けるそれは、虐め以外の何ものでもない。

 

憂鬱な気持ちで見詰める壁に、いつかの赤が蘇る。

彼の心遣いであった、赤いバンダナはもう、どこにもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シルバー?」

「どうしたんだよ、やっぱり一人は寂しかった?」

「いや来てくれて嬉しいよ」

「ほらあなた達、シルバーが困ってるじゃない」

苦笑しながらテトムが言うと、そのまま泉の側へと導いた。

闇狼の面を破壊し、千年の邪気から解放されたその人は紛れもなく先代ガオレンジャーの一員にして白銀の戦士、シルバーであった。

戸惑いつつも、彼の加入には誰もが賛成だったしこうしてともに過ごすことは今の状況からするとありがたいことこの上ない。

泉の縁に腰掛けたレッドが、あどけないような表情でシルバーを見上げる。見詰められたシルバーは居心地悪そうに視線を巡らせテトムを見たが、巫女は静かに笑ってその隣に座るよう促した。

途端、怯えたように身を引くレッドに誰もが眉を寄せる。

シルバーとて様子のおかしさには気付くだろうし、なによりこの状況をテトムに聞かされているだろう。だからこそ彼が呼ばれたのは考えるまでもないことで、そうなればまるで自分たちに非があるように思われてしまう。

視線を彷徨わせ、そして腰を浮かすレッドにシルバーが声をかける。

「どこに行くんだ」

「え、あ…ちょっと忘れてたことがあって、部屋に…」

「テトムに無理矢理、みんなでゲームをしようと言って呼び出されたんだ。自分ばかり抜けようとするのは卑怯だぞ」

「でも、」

「具合でも悪いのか?」

整った顔の造作の彼が眉を寄せると随分信憑性のあるものになる。シルバーは立ち上がりレッドと向き合うと、彼より上にある、強く輝く目が探るような色で煌めいた。

「ここにいるのは苦痛か?」

「なに、言って…」

「どうして避ける?仲間とともにあることはいいことだと言ったのは他でもない、レッドだろう」

「うん…うん、そうだよ。シルバーも一人じゃなくて、ここにいた方がいい。心強いよ」

「レッドは?」

「俺?」

「レッドは心強くはないのか」

辛辣な物言いに誰もが俯いた。言葉を選ぶほど現代というものに馴染んでいないのかも知れないが、それでも真っ直ぐ切り込むような台詞を彼から突き付けられその場は凍り付いたような静けさに包まれた。

 

誰が悪いとも言えない、それは微かな歪みだった。

レッドと距離を置いているのはイエローだけのはずだった。

 

“俺は、自分が嫌いだから”

 

 

「みんながいるから…だから俺も、頑張れる」

 

 

 

 

 

 

 

誰が悪いとも言えない。

 

                        ―――――はずだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レッド?」

テトムに肩を押され歩き出すレッドの後を追い、部屋までついてきたシルバーは彼の背中が小刻みに揺れているのを見た。

どうすればいいだろう。

巫女から相談を持ちかけられ、彼と彼等の関係修復に一役買って欲しいと言われたときは正直無理だと断りもしたが。

自分自身のことすら手一杯で、まだまだうち解けられるような間柄ではないのに。

それでもただ無心に愛した先の姫巫女に生き写しの彼女から頼まれれば首を振ることは難しかったし、こうして今、傷付いた彼を目の当たりにすれば知らぬ顔も出来ない。

「レッド」

肩に、触れる。

俯いた横顔が垣間見える。

 

 

「レッド…」

 

 

 

 

笑っているのは、それは傷付き疲れたからだろう。

 

言葉もなく眉を寄せるシルバーの前で、レッドは、声のない笑いを零していた。

取り込んでいた邪気を思えばその陰湿な笑いは身近にあったものなのに。

 

シルバーは、ただ彼の身を案じ唇を噛みしめた。