目が覚めた時の違和感はイエローの神経を既に尖らせていた。 室内に満ちる空気が彼の好まない色に染まっている、そんな感覚を痛いほど感じながら身を起こすと、果たしてその原因として疑いようのない男が岩壁を背に立ち尽くしていた。 レッドは、その大きな瞳をいっぱいに見開きイエローのことを見詰めていた。いつからそうしていたのか、きっともう随分な時間が経つのだろう、寒そうに丸めた背中が痛々しい。 痛々しい、と。 そう感じる自分に苛立ちながらベッドから降りると、不機嫌さを隠さず無言のまま着替え始めた。最近の彼ならまるでそれを虐めのように感じたことを訴える怯えた目で盗み見たから、イエローが今の彼をまるで無視したことも仕方ないことかもしれない。 ベッドの端に掛けていたジャケットを羽織り一息つく。 背後の気配に注意を払いたくなくて、そのまま部屋を出ようとする。 出ようとして―――― 「おはよう」 掛けられた声は震えてはいなかった。 「おはようくらい…言ってくれよ」 苦笑を含んだその声音に、イエローは正直に眉を顰めた。いっそ明るいそれを発するのが彼だなどとは信じられず、けれど聞こえるそれは間違いなくレッドのものであったしあの苛つく気配も確かに彼のそれだった。 突然のことに反応が遅れ、そしてなぜだか振り向くことも出来ず呆けたように立ち尽くしてしまう。そんなイエローの態度に背後のレッドが焦れたのか、次の瞬間壁際の気配はなにやら甘い空気をまとって動いた。 イエローの隣へ。 「おはよう。あのさ、俺、みんなに謝らないといけないと思って」 「なにを…だ」 「うん。えっと…」 彼は言葉を選んでいるのだろう。けれどイエローに取りその間は筆舌尽くしがたい奇妙なものとなっていた。レッドが謝りたいという、それは彼らが求めていたものでは確かにあった。ここ暫くの彼の態度に苛立ち、誰もが嫌な気分を味合わされた。何も言わず、まるで自分だけが被害者面をしたそれに罪悪感を煽られ、尚且つ巫女にも、自らを守護する精霊にまでも窘められた。笑って躱せる範囲は疾うに超えていたと誰の目にも明らかであったというのに。 「あのさ、俺…なんか最近おかしくなかった?」 「おかしい?」 「うん。ボーっとしてっていうか、反応が変っていうか…」 「お前がまともだったことなんてないだろう」 「それはお互い様ってことで。じゃなくてさ、本当になんか、俺の中ではあんまり覚えてないんだけど、多分みんなに嫌な感じを与えていたんじゃないかなーって…違う?」 「違わない。違わないけど…」 呟いた声が小さすぎて聞き取れなかったのか、レッドは子供のように耳元へ手を当てると舌足らずな言葉で“なになに?”と尋ねてくる。瞬間、頭に血が上る。 「ふざけてるのか」 「そんなことないよ、俺はちゃんと反省して、」 言葉を切る。 睨みつけてくる彼の視線があまりに熱くて口を閉ざさずにはいられなくなったからだ。 激しく責め立てるその瞳の色に、漸くレッドは彼の苛立ちに気付いたようだ。肩を落とし、俯き加減に頭を下げる。 「ごめん」 まただ。 「ごめん、なんか俺、自分で自分のことコントロールできなくなることがあるんだよ。原因とか心当たりとかそういうものはないんだけど、なんでか時々ぼんやりして自分が何してるのか分からなくなる。前はこんなことなかったんだけど、いつ頃からかな…よく覚えてないんだけどね」 また、足元からせり上がる違和感に背筋が凍る。 レッドの、尖らせた唇。 「…イエロー?」 「…………れ、だ」 「え?」 「お前、誰だ」 「誰って…俺だよ」 「だから、"俺"ってのは誰なんだ。お前はなにがしたいんだよ」 苛々と言葉をぶつけ、惚けた−イエローには惚けているようにしか見えない−レッドの体を突き飛ばすとそのまま怒りに任せて部屋を出た。 なにが。 今更何が言いたい。お前の行動言動の所為でここにいる誰もが嫌な思いを味わった。あんな目で周囲を見て、あんな顔で怯えて、それで"自分でも分からないけど"なんて、そんな虫のいいことが通ってたまるか。俺が納得できると思うのか。 ほとんど八つ当たりのような状態で泉の前まで足を踏み鳴らし歩いてくると、朝食の支度をしていたテトムと鉢合わせイエローの機嫌は更に悪い方へと落ち込んでいった。 「おはよう。どうしたの?なんか顔が怖いよ?」 「ヘラヘラ笑ってるよりマシだろ」 「意味もなく笑ってたらそりゃ怖いけど、私は怒ってるより笑っててくれる方がいいかな」 「じゃあ俺じゃなくあいつと面と向かってりゃいいだろ。飽きるまで永遠にでもなんでも好きなだけ見詰め合っとけ」 「イエロー?なにかあった?」 なにか、は自分が作ったことじゃない。口を開きかけたその時、背後の気配が甘ったるく霞んだ。 最近の張り詰めたものではない分、以前に居心地悪さが蘇りそれはそれで腹立たしくなるイエローは、今度は足を踏み鳴らす余裕もないほど素早くそこを離れていた。行く当てはないがとにかく彼の顔を見たくない、走り出した先にあるのがブラックの部屋だったことで、仕方なく、と口に出せば失礼だと叱られそうだが本当に仕方なくまだ目覚めてもいないらしいブラックの部屋へと駆け込んでいた。 「…暢気に寝やがって」 呟きながらベッドの脇へ歩み寄ると、思い切り眠るブラックの頭を叩いた。 「おはようテトム」 「おはよう。…レッド?」 「ん?」 物悲しげな顔でイエローの去っていった方を見ていたレッドは、気持ちを切り替えるように彼女を振り返ると明るさを装った口調で答えた。 「レッドだよね?」 「うん。…え、誰か違うやつに見える?」 「ううんそうじゃないよ。そうじゃなくて…」 口篭もる彼女に首を傾げ、それ以上の返事がないことに気付くとまたイエローが去った方を振り向く。 「イエローに…みんなにも謝らなきゃ」 「…なにが?」 「なんか俺…おかしかっただろ?あいつに…」 横顔しか見えない彼の大きな目が哀しみや苛立ちに細められているのが分かる。 “今”は確実に“彼”なのだと、分かる。 「俺、また…“歩”になってたんだろ」 長いこと、テトムはそれに対する応えを返せなかった。 何を言えばいいのか分からず、それどころか自分がどうすることも出来ない脆弱さを痛感するばかりで固く噛み締めた唇が痛みを訴えだしても尚、そのままそこに立ち尽くしていた。足元ばかりを、睨んで。 「今回はなんか…随分ひどかったんだろ?ぼんやりとしか覚えてないけど、すごく寂しかった気がする。みんなとどんどん離れていってた気がするんだ」 「…そうだね。そうだったかも…」 曖昧に、けれどその言葉を発するだけでもテトムはかなりの忍耐と努力を要した。次の言葉を考える余裕もなかった。 「元からイエローとはどうにも埋められない溝があったから、だから余計にそう感じるのかも知れないけどさ。なんだか…あの歩でさえ悲しそうだったみたいで…」 「レッドはレッドだよ」 「ん?」 「レッドは、ここにいるのはレッドだよ。私とガオライオンが見つけた、ガオの戦士だよ。私たちのリーダーはあなたしかいないよ」 「ありがとう。でも…どうしたの?」 伸ばされる指は触れてこそ来ないけど、テトムの頬を伝う涙を拭うような仕草をした。 人の心を感じてしまう“心”を持つ、繊細とは全く異質の力を持つ彼だから、こういうとき相手の考えをまともに受けてしまい自らも深く落ち込んでしまう。だからテトムは彼の前では泣けないと思っていたのに、決めていたのに、それでもこうして涙が溢れてしまう。 止め処なく、ただ溢れて。 「レッドはレッドだよ」 「うん」 「獅子走は、ここにいるあなただけなんだからね」 「うん。分かってる」 「走として、ここにいてね」 「…うん」 うん、と。 頷いた彼が微かに吐いた呼気には、言い知れぬ憂いと諦めが多分に込められていたけれど。 気付かない彼女を責めることはしなかった。 責められる自分ではなかった。 それほどまでに彼の中で、“自分”という存在はあやふやで、不確実で、そして何より不実だった。人として生きること全てになにも見出すことの出来ない不愚者であるということを、誰より知っている自分に他人を慰める行為が許されるはずもないのだから。 目を閉じて、そしてレッドはその大きな瞳に映す巫女の姿を一枚のフィルターの外に置いた。そうでなければ気遣ってしまう。自らの不始末を嘆く彼女に同情するという愚を冒してしまう。 風の音がした。 冷たい、乾いた空気が流れた。 強くなりたいと願った。 心から。 「なにそれ」 「知るかよ」 「だってさ、いきなり“ようっ”とか言われても自分だって困るよ」 「困る困らないの問題じゃないだろ」 呆れたように言ったのはイエローで、いきなり叩き起こされ目覚めたばかりのところに矢継ぎ早な苦情を申し立てられ困惑しているのはブラックだ。 まだ正常に働かない頭でそれでも意見を返したのに、他人の言葉など大して期待してはいなかったらしきイエローに横目で睨まれ肩を竦める。 もういいかげんにして欲しいと思っていた。口にこそ出さないけれど彼には彼なりの思いがあり、協調性に欠く今のレッドのことにはさすがのブラックも疲れ始めていたのだ。 元より温厚とは言い難い性質を持つ男だ。勝負の世界に身を置くからには、それなりの度胸も闘争心もある。戦いに明け暮れる毎日の中でそれは研ぎ澄まされこそされ、薄れるはずもないものだった。 泣いている暇も、嘆いている暇もない。敵は途切れず現れ戦闘は日々激化していく。 そんな殺伐とした日常の中で安らげる場であるはずのここで、心乱されては笑っていられるはずもないと。一人の夜に出した結論は誰にも告げずけれど確かに抱えた思いだった。 「とにかく元に戻ったのはいいことだけど、原因とかそういうの、やっぱ聞かないとマズイでしょ」 「誰が」 「元リーダーのイエローさんが」 「イヤだね、なんで俺があいつと口を利かなきゃならないんだ」 「そんな子供染みたこと言わないで」 「ガキの面倒はお前の得意技だろ」 「レッドより俺の方が年下だって知ってる?」 「だったら俺も年下だ」 「ここでレッドより上なのはテトムだけだろ」 「シルバーがいる」 「あー…」 「…ああ、そうか」 「…ん?………あっ」 「その手があったな」 「そうだよシルバーがいるじゃん!」 手を打ったブラックは勢いよく立ち上がる。彼は牛柄模様のパジャマを着たまま、ベッドに半身起こしたままでイエローと話していたのだ。 「なんだよ始めからあいつに言えばよかったんじゃん!」 「だな。余計な時間を食っちまった」 「それが泣きついてきた奴の言うことかよ」 「まともな解答もしてないくせに文句言うな。よし、じゃあ俺はシルバーを探して連れてくる。お前はここであいつらの様子を見張っておけよ」 「なんで、イヤだよそんなの。居たたまれないもん」 「もん、じゃねえ」 彼が密かに恐れる“怒ってるんだよ”という顔を向けると案の定首を竦めて押し黙る。 大体、この場に子供たちとあのレッドを残していけば確実に揉め事が起こるだろう。メンバーの中で誰より一番レッドを毛嫌いしていたのはブルーだから、いきなりのあの変化には絶対に対応できないに違いない。 無理もないと思う。 本当にちいさっきまで、というほど記憶が鮮明なその時間を、彼は実に楽しげに過ごしていたのだ。イエローがどれほど冷たい態度でいようとブルーがレッドに示すのはあからさまな好意でじゃれあいはこの空間の暖かな空気を作る役割を充分に果たしてさえいたのだから。 そのレッドの目が濁り始め、ブルーを拒みだしてから、彼の中の信頼や友情は急速に褪めていった。それが子供の残酷さであるけど正直さでもあるとイエローは知っている。 結局はレッドが自らまいた種だ。刈り取るのは彼自身の役目だろう。けれど。 泉の辺りの気配を探り、誰もいないことを確かめるとイエローはそっとガオズロックを後にした。シルバーの居所は繁華街のプールバーだと聞いている、そこで何を話せばいいのか分からないけれどレッドのことをテトムに託された彼ならなんとかするだろう。 無責任だ。 こんなの自分の性にあわない。 合わないけれど、もう形振りかまっていられない。彼の顔を見たくない。 ガオイーグルが言った言葉は深くイエローの心に染み付いた。決して白くはなかったけれど、今まで大切に丁寧に着続けたそのシャツの真中に、大きく、汚らしく、目を背けたくなるような痛々しさと苛立ち。 近付くなと言われるまでもないこと幾度も繰り返され、そう忠告されるたび深く濃くなる染みは彼の抵抗も虚しく範囲を広げまるで不治の病のように心の奥を侵食しつづけた。 “おはよう” 声が、聞こえる。 “おはようくらい…言ってくれよ” 傷付いたと。 甘えた声で。 ここに至るまでの全て忘れたような顔で。 誰が一番“悪い”のか、全て忘れたその態度。 イエローにはそう見えている。 レッドは“そう思われている”ことを知っている。 歩みよりは、だからないも同然の関係。 一対四の。 初めて訪ねるその店は、乾いた空気の漂う古めかしいプールバーだった。 カウンターにいるマスターが胡散臭そうな顔を隠しもせず、それでも“いらっしゃい”と口にするのを聞きながら視線はシルバーを探している。人目を惹く華やかさを持つ長身の男は、一台の卓の前に立ちイエローのことを見詰めていた。 まるで、訪ねてくることを知っていたかのような。 「一緒にきてくれ」 「…どこへ」 「ガオズロックだ」 「なぜ」 「行けば分かる」 「行きたくないと言ったら?」 「お前は来るさ」 来ないはずがない。彼にはレッドを忌むべき理由がないから、"仲間"の頼みを断れるはずがない。感じなくてもいいはずの罪悪感を、今も深く持ち続ける彼なら。 「レッドのことか」 低く呟かれた声は、なぜだか掠れているようだった。 「レッドがまた…なにかしたのか」 「…来れば分かる」 説明をするより当人に会って直接聞けばいい、突然始まった彼の問題行動と勝手に終わりにされたらしいばかげた騒動の"理由"を。 後ろも見ずに歩き出し、店を出る。背後に追ってくる足音はなかったけれど、暫くすると彼の気配が追ってきた。付かず離れずのそれはガオズロックに到着するまで続き、入り口になっている岩穴の前でイエローが足を止めるまで躊躇うような空気が漂っていた。 「イエロー」 「なんだ」 「レッドは…なにかの病にかかっているのか」 「さあ。でもそうなら諦めもつくかもな、病人相手に本気になるわけにいかねぇし」 「気の病とか、そういうものか」 「さあな。それを聞くのがシルバーの勤めだろ?テトムにご指名受けてるんだからさ」 投げやりにそう言うと振り返りシルバーの顔を斜めに見る。 憂鬱そうに唇を噛んだ彼がそこにいた。 いつも難しそうな表情をしている彼だけれど、そのときの顔色は蒼褪め、まるで何かに怯えているようにさえ見えた。 「なんだよ、レッドのことは苦手か?」 「そんなことは、…いや、そうだな。そうだと思う。言ってはいけないことだとは思うが、正直どうも苦手のようだ」 「苦手の"ようだ"って言われてもな」 本当に正直だなと思いながら、イエローは彼を初めて理解できた気になった。 千年の邪気を連れ、この現代に蘇った鬼として戦う運命を背負った彼が、その呪縛を離れ漸く真の仲間となれたのではないか。そこまで感じた。 「じゃあこっちも正直に言うけど、レッドのことはもう俺たちにはお手上げなんだよ。理由も分からないうちテトムには俺たちに問題があるような言い方をされるしガオイーグルにまで説教されるし」 「テトムはそんなことは言わないだろう」 「あいつの気の強さはお前だって知ってるだろ。とにかく俺はガオイーグルにもテトムにも、"レッドとは関わるな"って言われてるからな。なにかあっても動けないし、動くつもりもないんだよ。ただ迷惑なだけだ」 「迷惑?」 目の奥の不安がその瞬間に消え去った。怯えた風な態度も改まり、シルバーの体を囲む空気ががらりと変わる。 「丁度いい、聞こうと思っていたことがあるんだが、この機会に答えて欲しい」 「なんだよ」 「イエローは、レッドのことを疎んでいるのか」 「はあ?」 「レッドは嫌いか?イエローのレッドを見る目はあまりに冷たい。まるで憎んでいるかのようにすら見えるのだが…なにか訳あってのことなのか」 真摯な瞳に答えが詰まる。 いや、始めから答えなどない。嫌いという言葉は当てはまらない感情だから、イエローが返事に窮したのはなにも図星を指されたからばかりではないのだ。 では憎むというのはどうだろう。 真っ直ぐなシルバーの瞳を見詰めながら考える。 レッドのこと。 関わらなくてもいいはずの、自分たちのリーダーのことを考える。 大きな瞳の、子供のような笑顔の。 癇に障るあの存在そのものへ向ける感情の正体。 "嫌い"ではなく、もっと適切な言葉があるような… 「俺は…俺はレッドのことが……」 ベルが響く。 ポケットのGフォンを掴み取り名乗ろうとしたその時。 オルグの出現を知らせる報に、ほとんど無意識に反応する。 走り出すその背後に感じるシルバーの空気は、今度は戦闘時の鋭いものに変わっている。イエローもまた、激しい緊張感に襲われながら飛ぶように駆けた。 胸の中に、得体の知れないものが生まれる。 名付け様もない感情は何に向けたものなのか、それは考える間もなく分かっていることだけど。 それを認めるには、イエローの心は冷え切り固まりすぎていた。 向かうのはどこなのか。 これからの自分は。 彼は。 彼、は。 目前の適は薄気味悪い形に変化した自らを自慢げに披露し、そしてその力さえも惜しげもなく揮っていった。 答えは、どこにあるだろう。 薄れる意識の中、最期に感じたそれはイエロー自身にも理解しがたいものだった。 そうとしか、思えなかった。
|