崖を落ちるその瞬間、浮かんできたのは誰の顔? 底の見えない奈落の谷。 その中空に浮かんでいた石版には何かの文字が書いてあった。それを読む間もなくイエローは決断していた。なにか、自分でも理解できない強迫観念に刈られていたような気さえする。 石版には、絵も描いてあった。それも今となっては覚えていない。 ただそれを合わせること。元の形に戻すこと。それだけを意識し崖を蹴って跳んだ。 死にたくはない。 まだ、遣り残したことがある。 そしてそれ以上に。 自分が死ぬことは赦されないような気がしていた。釈然とした答えがある訳ではないのに、イエローの心の奥がそう叫んで止まない。 帰れ、と。戻れと。 急かされるように帰還を望んだ。 誰かに呼び戻されているようでもあった。 その声は低く高く、どこかで耳にしたことのある不思議な響きを持っていた。 "お前には成すべき事があるだろう" 声は、そう言いながらイエローの心の中に入り込んでくるようだった。 眩い光が降り注ぐ。 目を開けると、自分の手がなにか暖かなものを掴んでいる。それが宝珠だということはすぐに分かったけれど、状況を理解するには少し時間がかかった。 紅いマスク。 擦り切れたスーツ。荒い呼吸。 レッドが、すぐ目の前に立っている。ああ、死んでなかったのかとぼんやり思った次の瞬間、その体が大きく傾ぎ崩折れた。 駆け寄ったシルバーと、同じようにレッドを囲んでいた仲間が彼の体を支える。傷付いたリーダーの名を口々に呼びながら彼の意識を戻そうとする。 イエローは。 その間イエローは何も言えずただその光景を見下ろしていた。取り残されたような気分になった。 その役目は自分のものではないのか。 なぜだかその思いにとり付かれ、けれどなぜそんな風に感じるのか理解できず苛立つ。 レッドのことなど考えたくもない。それが彼の偽らざる心だ。それに変わりはないはずだから。 だから、そんなことを思うのは嘘なのだ。 レッドを気遣う心など幻だ。 シルバーの声で我に返る。 無理やり立たせようとする彼に静止の手を投げかけ、自らが彼の体を支えた。 戸惑ったように強張る背中に腕を回し、引き起こした躰の細さに思わず眉を寄せる。それは知っていたことではあったけれど、触れた温もりさえ不確かな彼を少しの怒りを持ってその場に立たせる。 一人で。地に足をつけて。立たせる。 「それ、なに?」 ホワイトの示すのはレッドが抱えている赤い鳥のような形をしたものだった。自分が抱えているにもかかわらず驚いたように差し出してくるのを、イエローの手が受け止めレッドの胸へと押し付けた。 「お前がリーダーだろう」 乾いた声だった。しわがれた、老人のようにかさついた声にイエロー自身も驚く。 けれどそれ以上に驚いたのはレッドであり、彼の周りに立ち尽くす仲間たちであった。 どうしてその言葉が出たのか分からない。それでもイエローは確かにそう思ったのだ。彼は自分たちを束ねるリーダーであり、この戦いにおいてなくてはならない存在なのだと。 命をかけて、という言葉があるが、あの靄の中に見たレッドはそれだけでは語れないなにかを秘め敵に向かっていたような気がする。誰にも見せないその心を、深く自らに閉じ込めたままそれでも。 倒さねばならないその"敵"に向かい、幾度でも。 「お前が、リーダーだろう」 今度は彼の声が出た。 蔑みも、罵倒もなく。温かみは元から大して含まないそれにしては、穏やかに響く声音に囲む仲間の頬も緩んだ。 気配が、解ける。 「…帰って…来ちゃったんだ」 なに、と発せられるはずの言葉は敵の攻撃に遮られた。 生身の彼らを庇いシルバーとレッドが敵に向かい走り出す。どこにそんな力が残っていたのか、躊躇いもなく駆け出す姿に激しい痛みを覚える。沈んだ澱がかき乱される。 レッドが手にしていたのは新たなパワーアニマルを召喚するものだった。 天駆けるその赤い鳥とともに、最強と思われる敵を倒すことが出来た。 願えば叶う。 子供の頃から自らに課した言葉。 願えば叶う。叶えるために進む。どこまでも。 それが生きることだと思うから。 それが"ひと"だと思うから。 生きて、この世にある限り、不可能なことはないと思う。馬鹿げた夢ではなく、生きるために必要なことなら必ず叶えることが出来る。それが人であり、命であると思うから。 生きていく、それが答えだと思うから。 幸せがあれば、同じだけの不幸もある。 一人の人の中に混在することもあれば、二人で分け合うこともある。 独り占めの幸せと、一人で抱える不幸せ。 痛みは、けれどそれも分けることができるから。 出来るはずだと、信じるから。 レッドの怪我は思う以上に酷いものだった。 手当を終えたテトムが出てくるのを待っていたイエローだが、いざその扉を前にすると動くことが出来ない。 彼は訪ねてきた。 謝りたいと言っていた。 自分自身分からないけれど迷惑をかけたに違いないから、そう言って頭を下げに来てくれたのに、自分は冷たく突き放したのだ。放り出して、無視して。 「そのことについて謝るのは…当然だよな」 うん、と頷く。 自分を叱咤するように頬を叩き、理論武装を確認する。 あの朝、レッドはイエローを訪ね謝りたいと言ってきた。自分の行動が仲間を不快にさせたことをきちんと理解し、謝罪を申し出てきたのだ。理由は分からないと言いながら自らの責任だと認めた彼は潔いし男らしい。それを無碍に突っぱねたのなら今度は自分の方が愚かだ。歩み寄りは、人間が持つなにより尊い行為だと思う。 うん。もう一度頷く。 具合を聞いて、話が出来るようでなければ一言だけと前置きしよう。 "仲間"だと。 その一言でレッドには伝わるはずだ。あの戦いを潜り抜けたレッドには、それで充分伝わるはずだ。 知らず力の篭る腕をどうにか動かし、イエローはレッドの部屋のドアを開けた。 室内は、照明が落とされ暗く沈んでいた。 寝ているのか?そう思いながらそっと入り込んだその部屋の中。 ベッドに、上体を起こしたままぼんやりとしているレッドの姿が朧に認められた。 「…なに?」 眠そうな声だ。 イエローはどう答えればいいか少しだけ考え、結局明確な答えを何も用意してこなかったことに気付く。仕方がないので"ああ"という最も非生産的な言葉を発してしまい、会話の糸口を自ら潰してしまったことに内心で臍を噛む。 頭と腕、そして彼がパジャマ代わりに着ている作務衣から覗く胸元には包帯が幾重にも巻いてある。頬にはガーゼが止めてあり、テトムの作った薬草をすり潰したものの匂いが漂っていた。 起きているのは苦痛なはずなのに、首を巡らせイエローのことをひたと見詰める。 大きな瞳。 光の差さない室内でも、それが異様なほど輝いているのが分かる。太陽ではなく月の光。夜の光でそれはイエローを映している。照らしている。 「よかったね」 「…なにが」 「帰ってこられて」 「ああ」 ああ、と呟きながらイエローは思い返す。 敵に向かって走り出したレッドが漏らした一言。"…帰って…来ちゃったんだ"と、その音に含まれた不可解な響き。 あれは、どういう意味で… 「なんともないの?」 「ああ」 「みんなも?」 「ああ」 「イエロー」 不思議な光が細められる。子供のような無邪気さ。 「さっきから、"ああ"しか言わない」 「ああ…ああ、そうだな」 何を言えばいいのか、あれこれ考えていたはずなのにまるで役に立たない。目の前にいる彼にこれまでぶつけてきた言葉や感情を思えば気安く話し掛けていいとも思えず、半ば途方に暮れた気持ちで室内を見回した。 タイトルを見ても通じてこない専門書が並んでいるかと思うと、どこから拾ってきたのか趣味を疑うような置物がある。唐突にバラの花が活けてあったり元は菓子でも入っていたような缶があったり、雑然とした雰囲気のそこはやはりイエローを落ち着かない気持ちにさせた。 「俺のこと…心配してくれたの?」 「見えてたからな」 「見えてた?」 「闘ってる姿が見えたんだ。あれがあの世とこの世の境だったのかもしれない」 「イエローにしては非現実的なこと言うね」 「こう見えても夜中の墓地は苦手なんだ」 「そう?俺は結構好きだよ、静かで誰もいないから」 楽しそうな口調に眉が寄る。違和感と、同時に起こる既視感。 危ないと何かが叫ぶ。見てはいけないと、触れてはいけないと、叫ぶ。 誰が? 「謝りに来てくれたの?」 「…まあ…そんなところだ」 「"俺たちが悪かった"って?」 「悪い、って言うと、それはそれで俺たちだけが悪いみたいじゃないか」 「そう?じゃあ"お互い様"ってことにする?」 薄暗い室内で、レッドの唇が異様に赤く見える。 声が、囁きを含み甘く響く。 「イエロー…ここ」 ベッドの、自分のすぐ脇を叩く。その動きに痛みが走ったのか、鋭く飲み込んだ息がイエローの耳朶を掠め無意識のうち彼の隣へ駆け寄っていた。 「横になるか?」 「うん…悪い、手、貸して」 いたるところに傷のある彼の体に注意深く腕を回し、そっと横たわらせると上掛けを引き上げる。微かなことでも、手当された上からでも圧力や摩擦で痛みを感じるのだろう。レッドは乱れた呼吸を整えるように大きく息を吸い込み、今度はその動きで傷付いた内臓を刺激してしまったのだろう、激しく咳き込み始めた。 迷う暇はなかった。丸める体を出来る限り柔らかく抱きとめ、上下する背を撫で擦る。 自分にこれほどの仕草が取れることをイエローは知らなかった。甘い言葉や気遣いは最も苦手とするものだったし、相手がつい先日まで憎んでいると言っても過言ではなかった男だという事実に自身で驚く。 驚くけれど、それは決して不快なことではなかった。 なにか、新しいものが生まれるような予兆すら込められていた。 「大丈夫か?」 「うん…ありがとう」 暫くして、漸くレッドの呼吸が整ってきた頃を見計らい、イエローは水を飲ませようかとベッド脇のテーブルに目をやった。水差しに用意されたそれを確かめると、気配を察したのかレッドが嫌がるようにイエローのジャケットの裾を掴む。 「…なんだよ」 「ごめんっ」 「レッド?」 「ごめん…ごめん…」 いいから。そう返そうとして声が出てこない。 何度も繰り返し謝罪する、それしか知らないように綴られる言葉の意味が擦り切れるまで。震える体でしがみつく彼を振り払うことはもう出来なかった。 「レッド」 「よかった…みんなが…イエローが戻ってきて…よかった…」 小さな、舌足らずな声で。 必死に伝えようとしているのは、決して優しくはなかった仲間の無事を喜ぶ言葉。 "死ねばいい"とさえ思った。 彼などいなくなればいいと思った。 そんな惨い感情を抱いていたことを知られれば、決して得られないような一途さで繰り返す、彼の帰還を喜ぶ声。 どうして嫌ったんだろう。なぜそこまで思い詰めたのだろう。 レッドはレッドのままここにあった。無理やり連れて来られた当初から彼の様子は明るかった。不安を微塵も見せず常に前向きな言葉で仲間を励ました。それは、確かに子供の無分別や無鉄砲さを含んでいたし、迷惑としかとれないこともあった。 けれどいつでも自らを曝け出し、何も隠すことなく歩いてきた彼の心を拒んだから。受け入れられないと、何もしないうちに放棄したからこうなったのではないか。 もっと、もっときちんと見ていれば。 もっとしっかり向かい合っていれば。 不快な思いも、辛い思いも、互いに感じることなどなかったのかもしれない。 きっと。 「落ち着いたか」 「…うん」 抱き締めた体は細いままに震えている。 感情の波が穏やかになるにつれ、逆に心はざわめき始める。 熱を持ったそれは傷付きすぎて抱き締めることも出来ないけれど、そのことにイエローは安堵の溜息を零していた。 頼りなく寄り添うレッドは時折その頭をイエローの胸に擦り付け甘えた仕草を見せている。それはまるで恋人同士のようなふれあいだった。有り得ない状況だった。ただ、レッドは獣医という職業柄かスキンシップを得意としており、仲違いをするまで特にブルーとは犬か何かのじゃれあいのように転げまわって遊んでいたから、あながちないことだとも言い切れない。でも。 『これは…ないよな』 胸の中でひとりごちる。 『これじゃまるで、その…なんだ…』 誰に聞かせる訳でもない呟きを、それでもはっきりと表せないもどかしさは多分の恥ずかしさをも含んでいる。 病気をすると誰でも弱気になるものだ。だからこれは彼なりの甘えなのだと言い聞かせ、騒ぐ胸中を落ち着かせるべく深呼吸をする。 レッドが。 胸の動きにむずがるように身動く。 見上げる。 大きな瞳は濡れて光る宝石のように見えた。 少し開き気味の唇が発熱のためか赤くひび割れている。 かわいそうに。 そう思った。 かわいそうに、きっと痛むのだろう。痛んで、辛いのだろう。 言葉もなく、レッドの唇が動かされる。 "がく" と、それは綴ったように思えた。 黒曜石のような輝きの中に閉じ込められた自分が見える。 絡め獲られるように、或いは限りない愛情の狂気のように。 震える指が、伸ばされる。 頬に触れたそれをイエローは握り返した。 それは自然なことだと思えた。 当然だと思った。 二人は。 二人は、こうなることが定めだったのだと。 思った。 「やつらを蘇らせたことには感謝をせねばなるまい」 ガオライオンは退屈そうな欠伸を零した後、ポツリとそう漏らしガオイーグルに目をやった。視線の先の精霊は厳しく引き締めた横顔で泉の中を見詰めている。 「我の望む通りだ。思い通り過ぎてつまらん」 「ガオライオン…レオンを動かしたのはあなたか」 「さて。あれが我の言など聞くものか。疾うに霧散せし魂のみの醜い姿であっても、迷える愚者どもの叫びは聞き逃せぬのであろう。ご苦労なことだ」 「貌が…」 「なにか」 「貌が笑っている」 くつくつと響く笑いに耐えられず、ガオイーグルが身を翻しその場を去る。どこに向かうあてもないが、とにかくガオライオンも、レッドも、イエローさえも今は感知したくはなかった。全てが虚しく思われた。 "ねえ…ねえ、聞こえてる" あ、…はっ "聞こえてるんだろ?ガオイーグル" ゃめ…あ、あ、あ "いま…なにしてるでしょう" いた、い…やだ、も、や… "あんたのカワイイ岳くんと、根性腐った歩くんは" だめ、いたい…やぁっ、やっ "いったい、なにをしてるんでしょーか" ああっ が、く――――― 一体、何をしているのでしょうか。
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