「イエローは、"人"を殺したこと、ある?」

 

 

 

 

問い掛けが突然で。

あまりに意外すぎる質問で。

 

 

イエローは、答えられずただレッドを見ていた。

ガオライオンの腕の中で、ただのガラス球になっていく瞳を見詰めながら。

問われたことの意味を反芻するより早く、レッドは語り始めていた。

淡々と。

ドキュメンタリー番組のナレーションのように、感情の篭らない声で。

それだけに胸に響く、低く、乾いたその声で。

 

 

過去を。

 

 

 

 

 

 

両親の思い出は殆どない。

 

強いて上げるなら父親の横顔だ。

走が七つの誕生日を迎え、そのパーティーを開いてもらった翌日にそれは起きた。

休日に、家族三人で行楽に出かけた。その頃の一家は"団欒"などという言葉からは一番遠いところにあったはずなのに、なぜかその二日は賑やかに過ごした覚えがある。

 

春には小学校に上がり、走はクラスの生き物係を務めていた。動物が好きで、暇さえあれば教室の後ろで飼育されているメダカや校庭の隅に設置されたウサギ小屋へと足を運んでいた。

顔は朧な記憶の母が口癖のように言っていた。

 "走は、動物と一緒にいるのが一番幸せなのよ"

繰り返され、それが確かなことなのだと思った。母に、そして父に思い込まされていることだなどとは疑いもしなかった。子供の彼に、それが"作り事"であるなどとは分かるはずもなかったのだ。

 

物心が付いてから、走に友人と呼べる存在は皆無だった。

常に自宅に閉じ込められるように暮らし、口を利くのは両親だけという生活を不思議に思うことすらなかった。

父親の職業は獣医で、入院している患畜が彼の唯一の遊び相手となった。大抵の動物は動かすことが出来ず、ケージの中にいる犬や猫に話し掛けるだけの遊びを、彼は飽きることなく続ける。飽きるはずもない、両親を除けば彼が言葉を発する相手はその動物たちだけに限定されていたのだから。

ひっそりと、彼はまるで死んだかのように育てられた。大切にされてはいたが人間としての尊厳は殺がれたような暮らしだった。

 

病院で預かる動物は、時として手遅れで連れ込まれることがある。飼い主に説明し、安楽死を勧めることもあったが簡単に頷けないのが人間だ。虫の息のまま放置されているような動物たちを、走は寝食も忘れ見詰め続けていた。

ある日。

父親が入院室に入ると走がケージの前で蹲っている。腕には、彼には余る大きさの犬が抱かれていた。一目で事切れているとが分かる。犬は既に死後硬直を起こしていた。

自然死であれば問題はない。けれど走の小さな手に握られているのはメスであり、犬の喉は正確に裂かれている。

 

 『この子がね、苦しいって。もう嫌だって。走、助けてって、言ったんだよ』

 

両親には、我が子が特殊な能力を持つ異端児だと言うことが分かっていた。物心付いた時分から彼の周囲では常識で測れない事象が多く起こっていた。だから、この時も冷静さを失わないよう、彼に気付かれることなく処理せねばならなかった。彼を刺激することは絶対に避けねばならなかった。

 

走は、激しく動揺するとその特異な能力を発揮した。物が動くこともあれば、突然爆発することさえあった。それは成長するにつれ激しくなり、叱ればその恐慌状態の中で両親が傷付くことさえ起こる。

彼が自宅に幽閉されていた理由は、そのことを置いて他になかった。

 

地域の小学校から届いた入学通知を、だから恨めしい目で両親が見詰めたことを走は知らない。

 

大人も子供も、とにかく"人間"に触れたことのない走にとり、小学校での生活は未知の喜びと恐怖が混在する刺激だらけの毎日だった。

大きな目と少女のような印象で、彼の周りにはたちまち人だかりが出来たが離れていくのもまた早かった。話し掛けられても彼に返す言葉はなかったから、いつもおろおろしているうちテンポの速い子供たちは残酷なまでにあっさり引いてしまうのだ。

走は、クラスでも浮いた存在となった。

幾度となく担任との話し合いが持たれたが、そのたび母親は"自然に任せてください"と繰り返し保護者の不熱心と捉えられた彼は教師からも距離を取られる事になる。

 

常に一人でいることには慣れていた。

慣れてはいたが疑問に感じるようになった。

どうして自分だけが一人なのか。誰からも見捨てられたように、教室の隅で息を潜めているのか。

語り合いたい、触れ合いたい。当然の欲求として持ち始めたそれを、母は厳しく叱りつけ父には完全に黙殺された。

"自我"を持たない子供が感じ始めた不満は、許容量を越えるまで大した時間を要さなかった。

 

目を離すと外に出て行き交う人を眺める走を、追いかけてきた母親は激しく罵倒し引き摺るように連れ帰る。その仕打ちに対する納得できる解答は一つもなく、ただ"お前は他の子供と違うから"と繰り返されるうち走の内側は歪んでいった。

自分は人とは違う。

人間とは、違う。普通じゃない。

普通じゃない。

 

 

診察室の片隅で、試験管を持った父を見ているうち目が合った。

その日は母親に特にきつく叱られ、頬を叩かれた所為か彼の柔らかなそこは赤く腫れていた。登校途中の道端で、走を突き飛ばした子供がその直後まるで吸い寄せられるように赤信号の横断歩道に飛び出したことが原因だった。

彼女は走の中に目覚め始めたものを止めなければならなかった。押さえつけた結果が招いたその事態を認めることが出来なかった。

殺されつづけた彼がついに逆襲を始めたなどと、認めるわけにはいかなかったのだ。

 

父は確かに合っていた視線を逸らした。何も言わず、そこにいることさえ無視された。走には一番耐えがたいこと、"存在を黙殺されること"を父である存在にまで与えられた。

また一つ、彼の中の箍が外れる。

 

試験管は爆発した。中には猫から採取した血液と試薬が幾つか入っていたが爆発するはずのないものだったのに、まるで火薬でも仕掛けられていたような勢いで砕け散った。

父は右手に怪我を負い、それから走の視界を避けるように彼との接触を絶ってしまった。

それ以来、彼は学校を休みがちになる。本人も行く気はなかったがなにより母に自室へと閉じ込められたのが原因だ。食事を運び込む以外、誰も室内に足を踏み入れない。言葉と言うものを発することもなくなり、彼はただ蹲るように座り込んでいた。

そんなことが一月以上も続いた。

 

走は、夜の間に部屋を抜け出るとそのまま学校へ向かった。

校庭のウサギ小屋へ行くとそこには彼が世話をしていたまま五羽のウサギが眠っている。鍵を開けるのは簡単だった。中に入ると目を覚ましたウサギたちは暫く走り回っていたがやがて走の足元に集まってくる。抱き上げて撫でると、気持ちよさそうに目を細める。暖かな温もりは久々に味わう他者との触れ合いであり、走を大いに満足させた。

教室のメダカも気になったものの、真夜中の校舎に侵入する勇気はなく走はそのまま朝方近くまでウサギたちと過ごした。久しぶりに楽しい時間を味わえた。

 

何事も起きないまま一週間ほど経ち、その夜も走は自宅を出て学校へと向かった。

異変にはすぐに気付いた。

彼の可愛がっていたウサギたちが、無残に荒らされた小屋の中でみな息絶えていた。白い毛が血にまみれ、走は呆然とそれを見下ろしていた。

錠前が土の上に落ちて、それには鍵がついたままだった。犬のものらしい足跡がいくつも残り、走をより暗い気持ちにさせる。動物の気持ちはわかっても、"食べたい、襲いたい"という気持ちを理解することは出来なかった。これを、認めてやることは出来なかった。

汚れるのも構わずウサギを抱き締めていると、小屋の前で誰かが悲鳴を上げた。虚ろな目で見詰める先にいたのは母で、彼女は震える手で走を招き寄せようとしたが彼はそこから動かなかった。

押し問答のように帰る、帰らないを繰り返しているうち気配に気づいたのか宿直していた用務員がやってきた。彼はここ数日、夜中に誰かがウサギ小屋にいるらしき情報を得て見回りをしていたところだった。

その日の当番がきちんと施錠しなかったことと、足跡や噛み傷からウサギを殺したのは犬の仕業だと判明したが、不登校児である走が夜中に忍び込んでいた事実を学校側は厳しく追及してくる。責任は両親にあるのではないかと、語気も荒く迫られ両親は黙るしかなかった。走は、ただぼんやりその様子を見ていた。

 

噂はあっという間に広がる。しかも、大抵の"噂"がそうであるように、走の奇行が大袈裟に伝えられついに病院へ通う患畜の数も目に見えて減り始めた。

母は悪し様に走を罵り、父は変わらず無言のままだった。ヒステリックに叫ぶ母の顔を見ながら、彼は自分というものがどんどん薄くなっていくのを感じていた。

 

そして誕生日。

 

ベッドに転がっていた走を抱き上げたのは父だった。

目が合った瞬間、父の頬は刃物で切り付けたような傷が出来た。赤く、細い血が頬を伝う。

何も言わずテーブルにつかされた走は、ケーキに立てられたロウソクを吹き消すよう母に言われ、その炎を天井に届くほど燃え上がらせることで応えた。それでも、二人は何も言わなかった。

奇妙な誕生会は両親によってのみ進められ、走はただそこに座していただけだった。話し掛けられるたびにテーブル上の食器が床に落とされたり、グラスが破裂したりと、目に見える抵抗を無言のまま繰り返しているようだった。

 

翌日は早くから車に乗せられた。

ドライブだと言われたが嬉しいはずもなく、後部席のシートで走は流れる景色をその瞳に映しているに過ぎなかった。

紅葉にはまだ早い山道を行く。カーブを曲がるたびタイヤが軋み、その音を聞くたび分かっていくことがある。"なにが"ということはなく、ただ、走の中にある靄が晴れていくような感覚だった。

不思議な爽快感だった。

 

目前にトンネルが見える。その先はすぐ急カーブになっていた。

走は、子供らしく微笑むと身を乗り出す。

 

 『ねえ、僕のこと、殺すの?』

 

父も、母も。振り返りはしなかった。

 

 『殺すの?』

 

母を見る。無言で前を見ている。

 

 『ねえ。…ねえ、パパ』

 

父を、見る。

横顔は、凍り付いたような、無表情。

 

 『ふうん』

 

ふうん

 

 

気の抜けたような走の声に、二人の肩は目に見えて緊張した。カーブは、もうすぐそこだ。

 

 

 

白い車体がガードレールを突き抜け、まだ緑の残る崖を流線型に落ちていく。

走の伸ばした指が父親の顔を無理に振り向かせようとする。自分を見詰めさせようとする。

 

 

岩場に叩きつけられた車体は、数秒の後に爆発した。

火柱が、空に届くような勢いであがった。

 

 

 

 

経営不振のため一家三人の無理心中。

新聞の地方欄にはそう掲載された。事件は"事故"として片付けられたのだ。ただ彼らを知らない者が見れば、爆発前奇跡的に脱出できた七歳の男の子が掠り傷程度で保護されたという事実を喜んだり、今後を哀れに思ったりしただろう。

走の周囲はめまぐるしく変わった。

家や病院施設、保険金などは全て彼が相続したが、あまりに幼いこともあり後継人を立て成人までの養育を親族が引き受けることとなった。母親側に親しい付き合いのある縁者がなかったことで、走の身を預かると名乗り出たのは父親の兄と従姉妹の二人だった。

養育期間中に与ることになる財産は少なくない。それを長期に渡り自由にできるとなれば彼らは一歩も引かず走を懐柔しようとした。病院から、一時的に施設へ身柄を保護されていた走はそれらに一切興味を示さず、最終的に養育権を勝ち取った従姉妹夫妻の自宅に引き取られた日も、無表情に窓の外を見ていた。

父親の兄はギャンブルで作った借金があったことで権利を退けられたが、行政がもっと突き詰めた調査をしていればそのまま施設で暮らすことになっただろうし、走にとってはその方が幸せだったと言えるだろう。

 

その家には、父の従姉妹である女性とその夫、中学生になる娘が一人いた。

何を話し掛けても反応の薄い走に、元から気の短い夫はすぐに業を煮やし走を毛嫌いするようになった。娘は娘で、大きな目に少女めいた外見の走を暇さえあれば呼び立て思い通りにならないと手を上げたりもした。大人しく従う様が嗜虐心を刺激したのだろう。

近くの小学校に転入したものの、登校途中で姿を消してしまう。大抵、公園や動物のいる家などで発見され、そのたび警官や近隣の人に手を引かれ連れ戻された。

どうして他の子供のように出来ないのかと叱られると、走は澄ました声で答える。

 『おばさんには関係ないよ』

可愛くない子供というレッテルを貼られ、そこでも彼は浮いた存在になっていた。

 

構われなければそれはそれでよかっただろう。だがこの家の中での扱いはすぐに変じていく。走は、酒癖の悪い男の心を既に読んでいたのだ。

両親を亡くしてから、走の能力はより強いものへと変わっていった。それまで動物の言葉は理解できたが、複雑な人間の心は感じることは出来ても完璧に読むことなど出来なかったのに今ではそれができる。分かる。

 

おじさん、と呼ぶその男が自分に向ける卑しい感情を、だから走はすぐに読み取ることが出来た。

 

 

何もかもが、動き出した瞬間だった。

 

 

 

 

 

「自分の親を…殺したんだよ。俺が、人とは違う恐ろしい力で…殺したんだ…」

 

ガオライオンの腕の中に蹲ったままレッドが呟く。

俄かには理解の範囲を越えた話を聞かされイエローは当然の如く立ち尽くしていた。話が進めば進むほど嫌な感じが胸に広がり、それはまだ続きそうな彼の口ぶりに増していく。

自衛官という仕事を選んだ以上、それは自分の身に充分起こり得ることだ。けれど彼は、彼の生活とは、獣医として"生かす"ものだと思っていた。なにより迷惑なほどの前向きさはそれを裏切らせることなどなかった。

一度だけ見た彼の暮らしはとても暖かで、羨ましいと感じることはあってもその空気に影など微塵も感じなかった。いま聞いた内容こそが全て嘘にしか思えなかった。

「正義なんて、俺が言える言葉じゃない。だから何度もだめだって言ったんだ、ガオライオンにも、テトムにも」

「我が見つけた。我が選んだ。それでいいと言うたのだ。お前はもう、以前のお前ではない。子供のお前ではないのだ。傷付いて感情を抑える術を知った、無闇に力を使うことももう疾うになくなっておるではないか」

「力は…大人になったら段々薄れてきて、今では動物の考えが分かる程度だよ。でもだからって自分のしたことが消えるわけじゃない」

「お前がなにをしたという。人に傷つけられるばかりの走が、なにほどのことをしたと」

「自分の両親を殺したよ。引き取ってくれた人たちも俺が…殺した」

「もうよい、言うな」

「イエローには聞いてもらわなくちゃ。黙ってるなんて出来ない」

「走、お前はガオの戦士だ。我の半身だ。それでよい」

「ガオライオン」

静かに首を振って、それからレッドは体を起こすとガオライオンの横に座る。穏やかな仕草でイエローにも座るよう示すと、数瞬目を閉じ、なにかを決意したように開くと微笑んだまま彼を見た。

「俺はね、引き取ってくれた家のおじさんに、ずっと暴行されてたんだよ」

「…暴行?」

「酒癖が悪くてさ、酔うとおばさんもお姉ちゃんも殴られたりしてた。俺なんか血の繋がりのない子供な上にその頃はとにかく人間が信じられなくなってて、愛想なんか欠片もなかったからね」

「お前も、殴られたりしてたのか」

「殴られるだけなら我慢できたよ」


静かな表情の中に束の間浮かんだ刺を、イエローは見逃してしまった。彼の打ちひしがれた様子と自分のしでかしたことで、冷静に対処する心は消え去ってしまっていた。

「おじさんはね、おばさんの目を盗んでは俺のことを犯したよ。嫌がれば追い出すって、酒臭い息で脅されながら、何度も何度もレイプされた。体は小さいし、女の子みたいな顔だって自分でも思ってたから…それに、もうどうでもいいから、抵抗もしなかった」

 

妻の外出を知ると酒を飲むのをセーブする。いやらしい目で走の体を眺め回す。逃げ場などないから、それと気付いていて彼はどうすることも出来ずただ伸ばされる腕の中で震えるだけだ。一秒でも早く過ぎろと、身の上に起こる薄汚い行為をただ祈るだけの日々だった。耐えるだけの生活だった。

 

「食べることも飲むことも、とにかく生きてること全部がどうでもよくなってた。心を読めばその家の中で俺は不要なんだ、嫌われてるんだってことは充分分かったからさ。引き取るんじゃなかったって、読まなくても顔を見れば分かるくらいには、俺は疎まれてたんだよ」

 

口を利かない薄気味悪い子供。取り巻く空気が気持ち悪い。じっと見詰めるその目が嫌だ。

数々の、声のない悪口雑言を浴び威圧的な暴力を受けつづけた。それでも行くところもなく頼るものもなく、親を殺した自分には当然の報いだと自らを見限り死んだように暮らした。それは"暮らし"などという言葉を適用できる時間では決してなかったけれど。

 

「子供でもさ、感じるんだよね。好き勝手に弄られて、気が付いたら慣れてた。我慢すれば終わるんだって思えば、どんな嫌なことでも流せるものなんだね。まあ…心は騙せなかったみたいだけど。俺ね、イエロー、俺、多重人格なんだよ」

「…なに?」

「多重人格。俺の中に、もう一人の俺がいるの。我慢できない苦痛をそいつに押し付けて、自分は無事なんだって思い込もうとする。辛いのはそいつで俺は違う、惨めなのは自分じゃないんだって…そうやってるうちに、もう一人の俺は生まれたんだ。分かるよね?最近の俺が変だって、みんなも分かってるから避けてたんだろ?」

「それじゃあ、あの…あれは…」

「あいつの名前は"歩"って言うんだよ。いつもグズグズ悩んだり物事を悪い風にしか考えられない。誰のことも信じてなくて、被害者意識が強い…反動で俺の方は、イエローが嫌う図々しいほどの能天気さが強調されたりして、どのみち俺という人間は正義を名乗る資格なんかない、どうにもならない奴なんだよ」

笑った顔が空恐ろしい。

それでもイエローは目を離すことなど出来なかった。レッドに、非があるなどとは冗談にでも言えなかった。言えるはずがなかった。

「歩は残酷なこともしたよ。暴行された後は必ずあいつが数時間俺の意識を完全に乗っ取って外に出た。同い年くらいの子供を見ると、持っている力で階段の上から突き落としたり、ポケットの中にガムを入れて万引きだって通報したり。始めはそういう、いたずらにしては悪質なことを随分していた。みんな苦しめばいいんだって、俺が悪いんじゃないって思って、繰り返してた」

薄く、笑っている。その表情の中にあるものの正体をイエローは理解することが出来なかった。出来ないけれど、彼の心の声は聞こえた気がした。

"痛い"と。そう叫んでいる声が聞こえた。

「そのまま中学生になって、その辺の"悪い奴ら"ってのとも付き合うようになった。歩が引っ込んでる時も声を掛けられてついて行かないと疑われるだろ、だから大抵の悪さならしてきたよ。嫌だと思っても、そういう時はいつの間にか歩が出てるからさ。気付くと自分の手が血まみれになってることもあった。…勿論、俺のじゃない、他人のものでね」

ガオライオンの手がレッドの髪を撫でる。優雅な動きがその話には不釣合いだった。

「レイプされて、心の奥にいる俺が震えてる間もあいつは泣いたりしなかった。黙々と服を着て出て行く。出て行けば傷付いた自分の傷を誰かに移すように暴れて、その繰り返し。俺には何も出来ないまま、ただ歩の中で震えてた。それで、高校にあがってすぐ…街で声を掛けられた奴に…」

言いよどむ唇が何かを綴る。声にならないそれがなんなのか、イエローに分かるはずもない。

「体を売るのって、結構簡単なことなんだよ」

 

その笑顔は狂気だ。

泣いている瞳はけれど乾いて、ただイエローだけを見据えている。彼の心の奥を見透かそうとしているのか、醜い己を知られたくないのか。

跳ね返すように何も浮かばぬその表情に、ただ笑顔だけを乗せ視線を合わせる。

 

「イエロー、だからイエローは何も悪くないよ。縋りたかったけど、いけないって思った。半分歩の意識だったのは分かってたから、だから絶対にいけなかったのに。でも…でもイエローが優しくするから…俺なんかに優しくしてくれるから…抱き締めてくれたから、離せなくなって…側に、いてほしいくて…」

 

突き放せない。

彼を、見限ることは出来ない。

 

「ごめん…ごめんねイエロー…嫌な思いさせてごめん。汚しちゃってごめん。俺が悪いんだ…全部俺が悪いんだよ。俺一人が…なにもかも…」

「レッ、ド、」

「ここに来て、闘い始めた頃は落ち着いてた。高校に上がって俺は本格的に獣医を目指し始めて、その目標が出来てから前向きに頑張ろうって思ってた。でも俺の中の歩は消えたわけじゃない。あいつは静かに機会を狙ってたんだ。いつでも顔を出せる瞬間を待ってた。俺がいろんなものに負けて弱るのを、爪でも磨いで待ってたんだ。結局、弱い自分があいつに負けておじさんたちまで…だから、あの時俺が死んでいれば…そうすれば何も問題なかったのに…」

「そんな…そんなこと言うなっ!」

言うな。

叫んで、儚く微笑む彼に手を伸ばす。ガオライオンから奪い取るように強く引き寄せる。

抱き締める。

「言うな…お前の所為じゃないだろう。お前の意思でこうなったわけじゃないだろう。理由も分からないでお前に辛く当たってた、俺にも充分すぎるほど責任はある。お前一人が悪いんじゃない!」

「イエローは悪くないよ。俺が誘ったんだろ?俺が迷惑かけて勝手にみんなを巻き込んで、挙句イエローとあんな…イエローにあんなこと…求めて…」

声を。

震える声を、抱き締めて。

 

視界に入るガオライオンが、その赤い目を細めて笑っている。

ガオイーグルが自分を見るそれとは明らかに違うが、守るべき魂を庇う自分の姿を歓迎してくれているのだろう。とても好意的とは言いがたい眼差しではあったが、それまでの自分がしてきたことを思えば仕方ないものだと納得した。これから近付いていけばいいと、そう思った。

 

震えるレッドはイエローのことを押しのけようと強張らせた体のまま、小さく何かを呟いた。だめだよ、と。それは繰り返している。

 

「もういいよ。全部話せよ。話して、辛かったことも悔しかったことも、みんな俺に見せてくれ。一緒に持ってやるからさ、お前一人で我慢してることないんだよ。何も知らないでレッドばかりを責めてきた、せめてもの罪滅ぼしにそうさせてくれ。な?」

「…俺を…」

震えが止まる。

「俺を、赦すの?」

「悪くないのに赦すも赦さないもねえ」

「じゃあ、俺を受け入れてくれる?」

 

 

 

見上げた瞳の幼さに撃たれたような衝撃を覚える。

覚束ない口調は甘えているようであり、それまでの悲痛さを拭うような艶があった。

薄く笑んでいる。

甘すぎて、舌を痺れさせるほどのそれがイエローの瞳を焼き吐き出すそれが唇にも触れ体の芯をも震わせる。 

 

 

「お前が…」

「なに?」

「お前が、歩、…か」

「…………」

「歩、なんだな」

「…ああ」

 

獣の目。

細められるそれは彼と魂を共にする精霊のそれではなく、サバンナを駆け巡る獰猛な自然の覇者としてのそれ。恐ろしいほど研ぎ澄まされた視線。

 

 

胸に添えられた指がイエローの首筋を辿る。

ふわりと起こった風がガオライオンの退出を知らせていた。イエローは動けない。

 

 

甘い唇が、そこにある。