目には見えないもの 〜Hideo*Hiro yuzu-pon きつく抱き締めてくる腕は、多分、振り払えば解けるだろう。 背伸びをさせられていた踵が地面に戻ると、抱えられていた腰を締め付けていた腕の強さも少しだけ弱まる。それでも完全に解放されないのは、そうすれば途端に自分が逃げていくということを知っているからだし、いま、口付けたばかりの余韻に浸っているからかも知れない。 雰囲気を作られても困る。 こんな風に、甘い風が吹き込んでくる彼の部屋の中、二人きり。 長いこと言葉もなく、持て余す時間に堪えられなくなるそのギリギリのところで捕まえられ、哀しげな声で名前を呼ばれるなんてシチュエーション、自分たちの間にはあるはずのないものだ。 あってはいけない、ものだった。 橘英雄は幼馴染みの恋人で、かけがえのないライバルだ。 恋人の部分を先に持ってくるのは自分なりの配慮だし、なくせないプライドのためでもある。彼は大切な親友であると同時に、徹底的に勝利したい相手でもあった。いつでも陽の光りの中にあって、誰の目にも明らかで、そしてなにより自分自身に正直に。真っ直ぐに。その存在があることを、願って止まない、好敵手。 拘束が弛まないその腕の中、国見比呂はぼんやりと考えていた。 そばにいるのは当たり前だ。 一番近くにいるかと言えばそれも違うけれど、隣にいるのが英雄だということに違和感はないし消えてしまえばその方が納得出来ない。けれどだからといってこれはないだろう。俯いて、抱き締められたままの体勢で思う。 英雄のことは好きだ。それも事実。 けれど"好き"という感情を分類すれば、それは決して恋ではない。恋じゃない、これは。繰り返し。 彼には他に恋する相手がいる。彼女のことは、比呂自身も好きだったのでそこに至るまではとても複雑な道のりだったけれど、いまではもう、諦められたつもりにはなっている。 とにかくこうして口付けるなら、彼には相応しい存在が他にある。それは同時に切ない気持ちにもさせられたが、だからといって彼女を蔑ろにするようなこと――つまり、世間で言うところの浮気と評されるような行為をされれば本人以上に憤るだろうことは容易に知れる。既に恋には出来ない相手であっても、だからこその思いがある。泣かせるようなことは自分も、他の誰にも許せない。遠く離れたそのあとさえも、その思いは、願いは消えないと思う。 それなのに。 「…なに、やってんだかな」 「なにが」 頭の上で声がする。振動が彼の胸を伝い頬を震わせる。押しつけたそれが少し、強ばる。 泣かせてはいけないのに。 悲しませては。 いつか彼等の恋が終わったとして、それでも自分は、自分だけは彼女を思い大切に慈しんでいくはずなのに。守るのに。 「べつに」 その思いを一番に裏切っているのが自分だなんて、笑えないにも程がある。 興味なさ気に"ふーん"と鼻を鳴らしながら、腕の中に囲った体は離さず背後のベッドまで引きずっていく。この執着はなんだろうと思いながら、逆らわない自分にも嫌気が差す。 並んで座って、それからまた、唇が寄せられる。当たり前のように口付けられながら思うのは彼女のこと、両親のこと、野球のこと。 ごめんなさい、と心の中で沢山のものに謝りながら、それでもなお口内に入り込んだ舌を絡めることがやめられない。気持ちは逃げ出したいのに体は動かない、そんなことを続けるうちには、何れ気持ちさえも凝り固まってしまうのかも知れない。誰を傷付けても構わないと、そんな自分になってしまうのではないかと。 そんな比呂の葛藤を知らない彼は、逃すまいと抱き締めた体をまたきつく抱え直す。その決意を聞くのが怖くて、比呂はなにも言えずにいたけれど本当は知りたくて仕方ない。聞きたくて仕方ない。 誰が好きなのか。 誰が一番なのか。 誰を思うのか、誰をなくせないのか、誰を心に留めるのか。 本当は、だれを。 のし掛かる重みで倒される背中が、布団に触れて沈み込む。馴染んだそれと口の中に広がる互いの匂いにこれからの行為を思い知らされ自然と全身が震えた。不快ではなく嫌悪でもなく。 甘いあまい、蜜のような時間。 濃密で重く湿った、きっと罪でしかないその時間。 涙が。 「…泣かないでくれ」 困ったような英雄の、顔。 「嫌なら…やめるから」 カーテンを閉めて、薄暗い室内でそれははっきり見えた訳ではないけれど。それでも低く抑えた声が気遣いを滲ませているのは痛いほどに分かるし、背中に回された指がまるであやすように優しく触れてくるのも感じられる。 英雄は優しい。 とても優しい。 優しいからこその残酷さを隠しもせず、どこまでも優しく接してくるから比呂はどうしていいか分からなくなる。逃げ出したくなる。 いっそ彼女に知られれば、こんな苦しみからは逃れられるのだろう。悪し様に罵られ、自分たちのしていることを汚らしいと決め付けられればきっと。 けれど比呂は被虐心を持ち合わせてはいなかったし、本当にそうなってしまえば冷静に対処することなど出来はしないだろう。こうなったいまでも彼女を守りたいのは事実だし、好きなのも、本当だから。 「なあ、…」 「なに」 被さるように抱き締められているから、英雄の顔はすぐそこにある。同い年なのに落ち着いて大人びた表情をする親友は、きっと、この葛藤も全部分かっていて助けを求めればいつでも守ってくれるだろう。たとえ自分が傷付いても、比呂のことを優先させてくれるだろう。勿論、比呂が願う尤も優先されるべき相手は自分ではないけれどそれでも英雄がそうすることは分かっている。 分かっているから嬉しい。分かってしまうから、辛い。 ここにいるのが。 「崖から…」 「崖?また唐突な話だな」 比呂の意識がそこから逸れてしまったことに気付き、腕を緩めると隣に寝ころぶ。そうやっていつも優しいから却って萎縮させられる。心の中に降り積もる、澱が益々、凝り固まる。 「崖から、崖の、上で…」 「………」 なにを言いかけたのか彼には分かっている。 普段はポーカーフェイスに徹し、なにを考えているのか分かりにくい比呂だけれど、その大きな目は嘘が吐けない。見抜ける者は多くはないが、英雄には既に馴染みとなった怯えを含む瞳を見れば、彼がいまなにを聞きたかったのか痛いほどに分かってしまう。 答えなければならないそれを、けれど、本当は聞きたくはないだろうことも。 すべて。 切り立った崖に、あなたの大切な人が二人。 ひとりは守るべきひと。 もう一人は、かけがえのない、ひと。 大切な彼等はいま、片腕だけで体を支え、 いまにも落ちそうになりながら助けを求めています。 ひとりを引き上げれば、そのひとりは助かります。 けれどその間にもう一人は力尽き、谷底へと。 落ちて、しまいます。 さて。 あなたは、どちらに手を。 差し伸べますか? 使い古しの心理ゲーム。けれど誰もが答えに詰まる厄介な恋愛ゲーム。 そんなことを言うキャラクターではないし、その解答がどちらであっても傷付くことに変わりはない。選ばれたい訳ではなく、また選ばれれば彼を恨む気持ちも湧くだろう。 どうしてこんなことを言いかけてしまったのか、比呂自身にも分からない。彼にばれていなければいいが、静まりかえったその場の空気はそれが果たされなかったことを物語っている。 ただ黙って、違いに口を閉ざして、遠くて近い天井を見ている。 近くて遠い、二人の距離を思う。 どこまで行っても虚無でしかない、その長すぎる道のりをただ思う。 風が窓を揺らす。 カタカタと鳴るそれを耳にしながら、ふたりは随分長いあいだ無言のままでいた。 話しをした方がよかったのかも知れない。なんでもいいからこのどうしようもない隙間を埋められるような言葉を、並べ立ててしまえばよかったのかも知れない。けれど比呂には勿論、英雄にも、いまなにかを言えばすべてが嘘になるような気がして言葉を綴ることは出来なかった。 好きだから。 好きだから彼に、互いに言葉をなくしていく。本当は伝えなければならない、確認しなければならないことをひとつひとつ失っていく。戻れない迷い道に踏み込むだけの。 「…お前が悪いんだ」 「悪い?なにが」 「英雄が悪いんだよ」 「俺が悪いのか」 「そうだよ」 「そうか」 「そうだ」 英雄が悪いんだ。 口の中で、もう一度呟く。見上げる天井が少しぼやけて、このまま目を閉じれば滲むそれが零れてしまうかも知れない。 腕が伸ばされ、そしてまた、彼の腕に囲われる。柔らかく扱われると余計に切なくなるけれど、それでも振り解けないのが自分だからこれは自分の所為でしかない。悪いのは誰だか一番知っているのも、本当は。 始まりは怪我をし、少し自棄になっていた比呂を英雄が慰めたことだった。 その時の彼にそんなつもりはなかっただろうし、比呂にしても彼に求めるものの中にそのような関係を望んだことなどなかった。 なにをやっても勝てない、英雄に対する劣等感が必要以上に作用していた。それは確かだった。だから比呂は大袈裟に拗ねて見せたし、どこまでも自分を甘やかすような英雄に意地悪をしてやりたいとも思った。困らせたかった。 気付いたときには終わっていた初恋を、気付く前に奪った相手。 彼女を英雄から取り上げたい。英雄から彼女に対する誠実さを取り上げたい。ふたりの中が壊れればいい。自分ばかり寂しいのは遣りきれない。寂しい。悲しい。 なにもかもなくなってしまえばいいと、そう思ったとき英雄が優しく微笑んだ。 比呂の考えていることなどすべてを見通しているような目に腹が立った。 気付けば握りしめた拳で、英雄のことを殴りつけていた。 子供が駄々を捏ねているような、情けのない仕草だったと思う。自分でも馬鹿げていると思いながら、それでも英雄に向かい、昇華出来ない思いをぶつけていた。 呆れたように溜息を吐くだろう。持て余す顔で行ってしまうだろう。裏表のない英雄のことだから、言葉を選ばず叱責されることだろう。自分でも収拾のつかなくなった状態でそう思っていた。 けれど英雄はなにも言わず、なにも聞かず比呂の頭に手を乗せた。宥めるように幾度か軽く叩くと、きっと彼女にもそうするのだろう優しさで抱き締めてきた。ふんわりと、とても大切なもののように柔らかく。温かく。 まるで"思うもの"を抱き締める仕草で。 悔しかった。 どうして勝てないのか。どうして自分ではないのか、彼なのか。ひどい劣等感に苛まれなければならない、そんな理由はどこにもないのに、それでも英雄の自信に満ちた顔を見ているとどうしようもなくなる。なにもかもが嫌になる。 悪態を吐いて、拘束から逃れようとした。けれどそれと同じほどここにいたくて、助けて欲しくてしがみついた。誰かに、英雄に。 彼に。 触れていた唇が離れたあと、困ったように笑う英雄が再び比呂の体を抱き締めてきた。子供扱いのような、甘やかされているような、その仕草に腹は立つもののひどく安心していたのも事実だ。 それがキスだと言うことは分かっていたし、ふたりの間にあるべきものでないことも承知している。けれどその時の比呂にとって必要なことであったはずだし、それだけは間違いではないような気もした。曖昧ではあったけれど、不快や嫌悪や疑念と言った感情は、どこを探しても見つからなかったのだから。 またなと言って帰っていく背中を見送りながら、比呂は、これからのことを考えた。頭の中に浮かぶものはなにもなく、ただ英雄の去り際の表情だけが思い返され、しかもそれは数日が過ぎても止まることなく続いていた。 密かに。 心の奥で。 「力の弱い方を、先に助ける」 「…あ?」 「自分が言い出したんだろう。崖から、って。崖から落ちそうな二人のうち、どっちを助けるのかって、あれだろう」 「…ああ」 暫く続いた沈黙を破り英雄が言った言葉は予想していた通りのそれで、少なからず落胆したがそれも彼らしさと言えばそうだった。選ばれても、選ばれなくても、それこそが彼であり自分たちの関係だと言うことを再認識させられるだけの質問だったのだから。 「でも、一人を助けたらすぐにもう一人を助けるぞ」 「ばーか。こういう問題はもう一人は絶対に助けられないって決まってるんだよ」 「生憎、運動神経には自信があるんだ」 「…勝手な理屈こねるな」 「つまらない質問をする比呂にも問題ありだろ」 幽かに笑う気配がする。英雄の、そういう静かな雰囲気が好きだった。騒がしいばかりの日常の中、きっと、唯一自分の心の奥深くを理解してくれるであろう相手として。 好きだった。 それはもう、こうなるより随分前からあった感情。 比呂にとって大切で、決して認めてはいけない"心"として。 「助けるよ。なにがあっても」 言い聞かせるように繰り返した英雄に背を向ける。顔を、見られたくはないから。 「へぇ。でもまあ、もしそれが…もし、もう一人が俺だとしたら、崖くらい自力で登れるからなぁ」 「絶対に助けられないんじゃなかったのか」 「助からないとは言ってない」 「勝手な理屈をこねるな」 言いながら伸ばした腕が、比呂の体を抱き締める。慈しむようにも、もどかしさを伝えようとするようにも感じられ、そのどちらもが比呂を傷付けたし、安らがせもした。こんな風に両端を行ったり来たりする感情に疲れ、解かせようと動かした腕もすぐに止まる。 離れられるなら、終わりに出来るならこんな息苦しいばかりの関係を続けたりはしない。迷って、悩んで、それでも"このままでもいい"なんて。 思わない。 後ろから抱き締められ、首筋に唇が触れるのを感じる。 腰の辺りに回された腕にそっと爪を立てれば、背に触れた彼の胸が笑いとともに上下する。自分相手に優しくて、こんなに甘い雰囲気を作ってどうすると咎めれば、好きなんだから構わないと至極真面目に答えられた。 比呂には、その台詞に対する言葉はない。頷けないから。認められないから。だから仕方なく溜息を吐くのだ。いい加減なことばかりと、呆れたように呟くのだ。 すべてがまがい物であるように。 いつか、忘れてしまえるように。 彼が、"本当"の場所へと帰っていけるように。 「比呂はバカだな」 「…いきなりなんだよ、失礼なヤツ」 「バカだよ」 「あっそ」 「バカだ」 耳朶に噛み付かれ全身が粟立つ。吐息が意識の中に注ぎ込まれる感じがして、淡い反応だったそれがゆっくり形をなしていく。 力の抜けた体を返され正面から抱き締められると、あとはもう彼の言いなりになるばかりだ。快楽に弱い自分を作ったその責任を、彼は徹底して取ろうとするから余計に流される。 両膝で彼の体を挟むことすら意識の外で、飲み込んだはずの喘ぎがベッドの足下に転がるのも気付けない。 泣いて縋れば抱き締めてくれる。感じすぎて辛いのだと、見つめる眼差しだけで訴えれば甘い口付けを返してくれる。まるで恋人同士のような、濃密で幸せな時間を過ごす。嘘なのに。いつかは消えて、なくなるのに。 好きだと言われたことはない。 好きだと言った覚えもない。 これから先、なにがあってもその言葉を二人が交わすことはないけれど、それでも覗き込む瞳の奥に見付けられる澄んだ紅色のそれに名を付けるなら"恋"だった。 知っていて、知らない振りをし続ける、いっそ哀れな互いの思い。 リアルに揺れる英雄の背中に、必死に伸ばした指を這わす。 密着を求めれば自分が辛くなるけれど、せめてこの時だけは一番近くにいることを感じたくて比呂はいつでも子供のようにしがみついた。体の中が英雄で一杯になり、やがて、互いの境界線が分からなくなるほど重なり合う。 英雄の腕が腰に回り力任せに引き寄せられると、彼の終わりが近いと分かる。体力はあっても負担の大きな行為だから、乱暴にされればあとが辛い。それでも比呂は止めなかった。促すように自らも彼の動きにあわせて身動くと、英雄が、小さくなにかを呟く。 聞き取れなくて、問い返しても彼は笑うだけだった。 笑って、そしてもうなにも問われたくないと言うように比呂の体を深く抱き込んでしまった。唇が彼の首筋に当たるから、比呂は、抗議のつもりで噛み付いてやる。 もどかしさを伝える術は、元からひとつも持ってはいない。だからその肌に痕を残し、この時が嘘ではないと、せめて自分に言い聞かせることでやり過ごしたい。痕など、本当は残すことは出来ず、噛み付く力も幽かなものであることは自分自身気付かぬ振りで。 「ひ、ろっ――――き、だ」 耳の中に直接吹き込まれたそれが、自分の名前だと気付くのはいつも荒い息が漸く収まる頃だった。だからその時、彼が名前の他に発した言葉など問い質すことも出来なかった。 でも。 でも。 本当は、比呂には分かっていたのだ。英雄の言ったそれが最も聞きたい言葉であることは、耳にした瞬間震えた心が物語ってしまっている。 溢れて止まらぬ涙が知らせてしまっている。 決して求めてはいけない、与えられてはいけないその言葉。 瞳の奥を覗いてみれば、いつでもそこにある"恋"なのに。 これは本物の 恋 なのに。 誰にも言えない。 どこにも。 行けない。 目に見えるものだけが"ある"などと、一体誰が決めたのだろう? 確かにある思いを抱えながら、今日もふたり、この場所に立ち尽くす。 足下に転がるのは、目には見えない、"真実"。 永遠に続く、重なり合うことを許されない、ふたつ。 |
|||