二人きりになれなくて  /water boys

 

 

 

 

 

 

 

 「では、夕飯が済んだら速やかに進藤の自宅に集合ということで」

田中が、不必要なほど固い声で宣言する。

石井ちゃんも、高原さんも、疲れた顔はしていたけれど、"またあとで"と言いながら機嫌よさげに歩いていく。

で、進藤ちゃんはと言えばプールサイドに置いたままにしてあったシンクロノートを取り上げると、なにやらブツブツ呟きつつ俺のことなんか見もしないで歩き出した。

そういう人だってのは、もう十分分かってるんですけどね。

でもね。

 「しーんどーちゃん」

 「…んー」

 「ねー、進藤ちゃーん」

 「……んー」

 「進藤ちゃんってば!」

 「………んー」

 「進藤!」

 「わっ」

耳を摘んで引っ張ると、初めて気付いたみたいに慌てて振り返る。

こういう人だって、分かってるけど。

 「人の話はちゃんと聞きましょう」

 「ごめん、ちょっと考え事してた」

丸い目を更にクリクリさせて俺を見る。びっくりした、って、顔に書いてある。

 「なに?」

 「なにが」

 「え、呼んでたんだろ」

 「呼んだ、…かな」

 「なにそれ」

 「呼んだかも」

 「…立松」

 「あー腹減った。今日うちの夕飯なにかなぁ。なんだと思う?」

 「……知るか」

バカ。

バカって、聞こえた。

小さな声で、バカって。

バカにバカって言われた。…って、こんなこと言い返したら傷付いちゃうから言わないけど。

プンッ、て音が聞こえそうな感じでむくれて。進藤ちゃんはまたシンクロノートに視線を戻してブツブツ言い始める。そうなるともう、俺なんか見なくなる。意識の中からも閉め出される。

頭に来る。

 「進藤ちゃんのバカ!」

 「…なんなんだよ、お前は」

怒鳴って走って、さっさと更衣室に駆け込んで。みんなもまだ着替えてたから、何事かって顔でこっちを見ていたけど構わず制服を着込んで外に飛び出す。ドアのところで進藤ちゃんとぶつかったけど、それにもなにも言わずに走って、走って。

 『立松!』

という進藤ちゃんの声が背中にぶつかって、それは本当にぶつかるのより痛かったけど、無視した。

だって傷付いていたから。

憲男のガラスのハートには、ぴきぴきヒビが入っていたから。

…なんて、ひとり涙ぐみつつ全力疾走している俺ってもしかしなくてもバカですか?

 

バカ、なんだろうな…

 

 

 

悲しくてもいじけていても、生きていれば腹が減る。

おじさんの、『今夜はカレーだよ』という言葉にちょっとだけ浮上して、着替えもそこそこに降りていくと、ちょっと甘めのカレーを口いっぱいに頬張る。美味しい、と言うとおじさんは嬉しそうに笑って、そうだよこういうコミュニケーションが人間同士を結びつけるんだよなんて分かったようなことを考えた。

洗い物は任せて、と買って出て台所に立つと、『ご機嫌だね』という見当違いな言葉がかけられる。

違うんです逆なんです、俺いまとてつもなく落ち込んでるんです色々なことに。負けそうなんです正直なところ。

なにに負けそうって、それは時間だったり距離だったりままならない環境だったり気持ちの。

…気持ちの、違い、だったり。

階段を上がって、間借りしている自室に入るとそのままそこに転がった。

十日前、どうしてもこの人だなーと思って、思ったら止まらなくなって、そしたらつい口を吐いて出た言葉。"進藤ちゃんが好きです"と、味も素っ気もない簡単な言葉だけど、言った途端に楽になった。聞かされる方はたまったもんじゃないなと思ったけど、それで気が済んだ。返事なんて、期待の欠片も持ってなかった。

だって俺たち男だし、クラスメイトだし、仲間だし。進藤ちゃんだし。

天然としか言いようのない進藤ちゃんだから、まず正しく理解することもないだろうと高を括っていた。好きって言ったっていろんな意味があるし、恐らく"好意"としか受け取らないだろうと思ってた。普通絶対、そうとしか取らないでしょ、男からの告白なんて。

なのに進藤ちゃんは、あの大きな目を見開いてポカンと口を開けたまま随分長い間俺のことを見ていた。埃が入るよ、と言ってあげたくなるほど長いこと俺のことを見続けて、それから思い出したように口にした。

 

 『俺も、立松のこと、好きだよ』

 

それがどんな意味なのか、俺にはよーく分かっていた。"友達として"という前提が付いていることなんて言われなくても分かってる。だから顔の前で手を振って、『いやーそうだよね、友達だもんね、好きに決まってるよね』と大声で言ったら、更に大きくした目でまたじっと見詰められた。

居心地の悪い沈黙が流れる。

いち、にい、さん、と数えながら、進藤ちゃんの様子を窺う。目の前の、ちょっとムーミンぽいボンヤリ加減の少年は少し首を傾げたり、小さく何かを呟いたりした後もう一度同じ言葉を繰り返した。

 『俺も、好きだよ。…違うのかな』

違うのかな、ってのは独白みたいで、不思議そうな顔で考えた後に今度はポンと手を打った。

 『あ、そうか、えっと、ライクじゃなくて、ラブ?って言えばいいのか?』

 

天然というものが、これほどまでに怖ろしいと言うことをその日、初めて知りました。

 

 『なんかさ、色々考えて周りを見てみたら、一番近くにいるのお前だしさ。楽しいし、楽だし、もっと一緒でもいいなって思うし、マジでいまいなくなられたらショックで倒れるかもだし、立松が物欲しそうにずっと俺のこと見てるし、あーそっかーって思ってたんだよね』

こともなげに言った。物欲しそうって。

物干しに洗った水着を引っかけるのとは訳が違う、"欲情"に通ずる言葉をあっけなく、実に簡単にあっけらかんとのたまった総天然色少年は、もう一度首を傾げると今度は完全に訝しそうに眉を寄せて俺を見た。

多分、その時の自分の顔がどれほどひどいものだったかは容易に想像が付くけれど、思い浮かべるとそれだけで死ねちゃうかも知れないからそんな愚は犯さない。

とにかく。

どうにか自分の足で踏ん張って立ってる俺を怪しみながらも、『それじゃ、これからもよろしくな』と言いつつ手を差し出してきた進藤ちゃんは、男らしいのかデリカシーがないのか、それともやっぱり分かってないのか。多分一番最後だろうなと思いつつ握手をすると、なんだか嬉しそうにくふっと笑った。

なんで笑うの?

目で問うと、進藤ちゃんがもう一度笑う。ほわんとしたそれは俺がとても好きな顔。安心する顔。

 『すごいな、俺たち。きっとこんなのってそうそうないぜ?』

ないだろうね。

両想いなんて。

普通はあり得ないよね。俺だって"ある"と思って告白した訳じゃないし、そもそも告白にするともりはなかったんだからさ。ただ、嘘を吐きたくなかった。偽物の感情で誤魔化しながら側にいるのが苦しかった。だから告げてしまいたかった。進藤ちゃんならそれを変だと思いながらも、困った顔で隣にいることを許してくれると踏んで言ってしまった俺のエゴ。俺の身勝手なのに答えてくれた。同じ気持ちで応えてくれた。

でも。

 

幸せーっ!って絶叫出来ないのは、とことん天然でニッブーイ進藤ちゃんが相手だから。

 

 

それからの十日間。

経緯はどうでも、俺はウキウキどきどき、"嬉し恥ずかし新婚さん気分"を撒き散らしながら進藤ちゃんの側にいた。名前を呼ばれるだけで嬉しいのに、笑ってくれたりなんかするともう両手を羽にしてパタパタしたくなるくらい浮かれきってた。握手で始まった交際だけど、"交際"であることに変わりはない。

一日目の帰り道は、並んで漕ぐ自転車の軌跡がハートマークになってたと思う。

二日目は自転車を押して帰ろうと提案した。手を繋ぎたいな、なんて思ったんだけど、始終シンクロの話をしている進藤ちゃんにその隙を与えてもらえず敢えなく玉砕した。

三日目、四日目も似たようなもので、五日目には言い出すタイミングと言うより俺の気力が萎えかけてきた。

六日目も七日目も、ごく普通の高校生らしい、クラスメイトらしい、シンクロ仲間らしい生活を送って八日目の自宅では布団の中で思わず涙ぐんだ。

そして九日目の昨日。

朝から雨で、練習は早めに切り上げた。勉強もしなきゃならないし、細々とした雑務もこなさなければならないからメンバーは各自に割り当てられた仕事をするためさっさと自宅へと戻っていった。

教室で、のそのそと俺のノートを写していた進藤ちゃんが顔を上げたのをきっかけに、さりげなく、さりげなーく隣に座ってくっついてみる。握手以来、進藤ちゃんから触ってくる機会なんて全くなかったからかなりドキドキしたけれど、なんて言ってくるか楽しみでもあった。

誰か見てたら、とか。

恥ずかしいから、とか。

ちょっと赤くなって言われたりしたら、憲男、それだけで…それだけでっ!!

ひとり心の中でキャーキャー言ってたら、肩に進藤ちゃんの指が掛かった。心臓が、跳ねて。

 『暑い』

押しのけられた。

 

お付き合いの定義。

手を繋ぐ。キスをする。それ以上のことをする。そういうの全部を許せる特別な相手。恋人。

多分、俺が思っているのは一般論で人それぞれ考え方は違うと思うけどそれでも、"特別な、自分の側にいることを許した相手"というのが告白しあって、想いを確かめ合った者に対する相当の態度だと思う。強制はしないけど、でもそこまで踏み込ませる覚悟がないなら交際は成立しないし両想いとも呼べない。

じゃ、進藤ちゃんのは、なに?

押しのけられて、思わず呆然とした俺に向かって進藤ちゃんは言った。

 『今日は寄るとこあるから、先行くよ』

じゃなー、ばいばーい。

手を振って、教室から出ていくムーミンを止める言葉は俺にはなかった。

 

そして今日、俺のことなんか目にも入ってないって態度で無視された。大変なのも、熱中してるのも分かる。俺だって一番大事なことだしその為にここに来たんだから当然だとも思う。でもさ、でもシンクロと進藤ちゃんを並べて、どっちか一つだけって言われたら絶対進藤ちゃんを取るよ。

進藤ちゃんがいれば、あとは他のすべてはどうにでもなる。どうにでも出来る。自信がある。だから俺は、進藤ちゃんのこと疎かにしないし、他のこともがんばれる。好きだから、もっともっと強くなる。そう思う。

でも、違うんだなーって。

思ったら悲しくなった。悲しいより先に情けなくて、結局あの天然色を"立松色"に染めることが出来なかったんだなーって、惨めな敗北感で一杯になった。

まだ十日だけど。

でも、もう十日だから。

毎日忙しくて、時間が全然足りなくて、その中で色々、精一杯に生きてるから一秒だって無駄に出来ない。その俺たちの時間の中で十日はやっぱり長すぎる。すごーくすごーく、長すぎた。

悲観しすぎだとか、口に出さなきゃ分からないとか、相談すれば誰もみんな同じような慰めをくれるだろうけど残念ながら俺たちのことは誰にも話せない。たとえ仲間にだって言うことが出来ない。これは秘密の恋だから。

重たい、湿った溜息を吐いたところで階下の電話が鳴った。おじさんが出る。よっこいしょって言いながら受話器を取る姿を想像して、寝転がったまま天井を見てた。

 「電話だよー」

電話。まあ誰かしら、なんて呟きつつ起き上がって…はっと息を呑んだら変なところに入ってちょっとむせた。

ヤバい、本気で忘れてた。

本当のホントに忘れてた。

どうしよ。

 「のりおくーん、電話―」

 「は、はぁーい」

情けない声が出て、更に落ち込みつつ部屋を出る。絶対怒ってる。絶対に叱られる。なんにも分かってないムーミンが、大きな目を吊り上げて文句言うんだ。かわいそうな俺。

 「お友達だよ、田中くん」

 「へ、あ、はあ」

田中?進藤ちゃんじゃないの?怒られるのは嫌だけど、それでも俺に構ってほしいのは進藤ちゃんただ一人なのにどうして田中?

 「…もしもし」

 『もしもし、じゃない!きみは約束一つ守れないのかっ』

 「すいません」

 『連絡もなくすっぽかしたりして、なにか起きたのかと心配するだろう』

 「すいません」

 『しかもなんだ、そのまったく反省の見られない返事は』

 「反省してますよー、やだなぁタナーカ、俺から謙虚さを取ったら何が残るっていうのよー」

 『きみに"謙虚"という回路があったのか、初耳だ』

ムカつく。

 『立松?立松っ聞いているのかっ』

 「きーてるって。はいはい分かりました、すぐ向かいますんで」

 『当然だ。二分で来たまえ』

ガチャン、と遠慮のない勢いで切られた電話を暫く眺める。いいやつなのか、本気でそりが合わないのか、判断に迷うところの多いやつだけどいまならハッキリ"大嫌い"って言えるぞ。人の気も知らないで、って知られたら困るんだけど、感傷とか刹那とか、そういう心の機微に疎いとモテない男街道まっしぐらなんだからな。

 「憲男くん、出かけるの?」

 「あー、はい。約束してたの忘れてました」

 「ははは、憲男くんみたいにしっかりしてる子でも、忘れ物することがあるんだねぇ」

 「しっかりなんかしてませんよ」

人のいい顔で笑うおじさんに笑い返して、自転車の鍵を取りに部屋に戻る。とぼとぼ、ってこういう時の足取りを言うんだななんてどうでもいいことを思いながら、ほぼ無意識に行ってきますと挨拶だけ残し外に出た。

夏の空は、まだ少し明るい。東の、遠い東の、空。

プールの青とは全然違うけど、これもまた、好きな色。

 「立松!」

ギギッとすごい音がした。自転車のブレーキ音なのはすぐ分かるけど、それより一緒に響いた怒鳴り声の方が大きくて、ずしん、と胸に響いてきた。

 「立松っ」

スタンドを立て損ねた自転車が倒れる。

走ってくる。

 「立松お前、なんかあったのかっ」

 「は?」

 「なんかあったのかって!」

 「なんかって、」

叫んで、俺の腕を掴んで、必死な顔で、声で、揺さぶってくる。

 「具合悪いのか?それとも俺、なんかしたか?俺が悪いのか?」

 「…えーと、取り敢えず各方面なんともないですが」

 「ふざけてないで!言えよちゃんと!」

泣きそうな顔に弱い。

好きな人だから、そんな顔されると、辛い。

 「なんかしたなら謝るから。俺が悪いならちゃんと直すから、だからなんにも言わないでいなくなったりするな!」

必死に言い募って、俺のこと。

友達以上だって、言ってるの?

 「俺、進藤のこと、好きだよ」

 「すっ、って、お、俺だってお前のこと、」

好きだよって言葉は本当に小さくて聞き取りにくかった。

薄暗い中だけど、少し、赤くなっているのが分かる。

誰も見てないけどここは店の前だし、大きな音を立てたからもしかしたらおじさんが聞いてるかも知れない。それでも構わないと思うのは俺が本気だからで、それくらい強く想っているからで。

同じだといいな、と。

同じならこんなに不安に思わないのに、と。

 「進藤ちゃんと、手が繋ぎたい」

 「あ?」

 「進藤ちゃんと、くっついてたい」

 「なに言ってるんだよ」

 「進藤ちゃんにベタベタしたい。束縛したい。俺のものだって言いたい。キスしたい。それからいま言ったこと、俺にもしてほしい。待ってるだけとか、見てるだけとか、嫌だ。もう、やだ」

 「立松、」

 「好きって、そういうことだよ。俺の好きは、そういうの。違うんじゃないかなって、薄々思ってたけど…本当に違うならいま言って。期待するの、もうやめるから」

俯いて、呟いて。

言ってるうちに悲しくなった。進藤ちゃんは赤くなったけど、それを信じるにはこの人、鈍すぎるから。幼いから。

俺だって大人じゃないから、自分が傷付けばそれと同じくらい相手も傷付けばいいって思っちゃうよ。俺だけ痛いのは、嫌だよ。

掴まれてる腕を離そうとしたら、すごい力で引き戻された。怒ってるんだというのは分かるけど、じゃあなにに怒ってるのかと言えば俺には分からない。

分からせてもらえない、が、正解。

気持ちって、見えるものだよ。知ってた?でも見えないのは故意に見せないようにしているからで、それはそのまま"そこに入ること"を拒んでいるからだ。俺は、自分の考えてることをまず誰にも見せないからよく分かってる。それが寂しいことなのも自覚してる。だけど本当に見てほしい人にはちゃんと自分から見せるよ?

見せてた、つもりだよ?

 「俺は進藤のこと、本当に好きだから。同じだって言ってもらえてからはずっと期待してた。手を繋いだりくっついたり、二人だけになっていろんな秘密を持ちたいと思った。忙しくて、そんな閑ないくらいバタバタした毎日なのは俺だって一緒だよ?でもそういうのと進藤ちゃんのこと、一緒にはしない。出来ない。だって恋でしょ?恋だって、思ったんでしょ?今更間違いだったって言われても困るけど…長引かせたって仕方ないよ」

なにも言わないでシンクロを辞めると言ったとき、すごく怒ったのは進藤で、あの時は本当に嬉しかった。必要とされるということを初めて知った。

それが、本当に好きになるきっかけだったのは、言うまでもないことで。俺の人生で初めて"俺"を求められたんだから、浮かれるのは仕方ないことで。

これも擦り込みって言うのかな?

本物じゃない、って、言われるのかな。

 「立松」

静かな声だった。顔を上げると進藤ちゃんの、ひどく落ち着いた目が俺を見ていた。大人びて、いままで見たことのない様な、表情。

伸ばされた手が俺の手を握る。

 「手、繋いだ」

温かい掌が、俺の手を包んでくる。それから、そっと離されて、離れた腕が更に伸ばされ俺のことを抱き締める。

 「くっついた」

ぎゅって、抱き締められて胸が熱くなる。これが偽物なんて思えない。思えるはずがない。

 「立松のこと、本当に好きだよ。俺は一度に沢山のこと出来るほど器用じゃないから、なにか一つやりかけるとそればかりになっちゃうけどでも、俺だってお前と、その他のことを混ぜるつもりはない」

小さいけど、はっきりとした強い声で言い切った。このひとの、こういうところに惚れたんだっけと、今更のように噛みしめる。

 「それから…」

くっついていた温かさが離れて、それからきょろきょろ周囲を見回す。なんだろうと一緒に見回してたら、進藤ちゃんが笑った。

笑って、それから。

それから。

 

 「キス、………した」

 

唇の、左側あたり。

微かに湿ったこの感覚はなんだろう?

真っ赤になって俯いた、進藤ちゃんの耳元だけが、どんどん暗くなっていく世界の中でそこだけはっきり見えてた。

手を繋いで。

くっついて。

キス、して。

俺が進藤ちゃんとしたかったこと、その、ひとつひとつを与えられた。

進藤ちゃんから、もらった。

 

 「……………うわー」

 「なんだよ、その間抜けた声」

むっと尖らせた唇が、自分に触れたなんて信じられない。信じられないから凝視していたら、赤い顔のまま耳を引っ張られた。

 「あんま見んな」

 「だって、いやだってそりゃ見るでしょ」

 「見るな」

 「見ちゃうって」

うわーうわーって、物珍しいものでも見たみたいに首を動かしていろんな角度から進藤ちゃんを見ていたら、ぐーにした拳が突き出される。

 「殴るぞ」

 「殴ったら泣くよ」

 「泣けばいいだろ。俺なんかここに来る間ずっと半泣きだったんだからな」

 「えっなんで」

 「なんでってお前、バカとか言って走って帰っちゃうし、待っても待っても来ないし」

 「だってさ…だってそれ進藤ちゃんが悪いんじゃないの?」

 「なんで俺が悪いんだ」

 「俺のこと、好きとか言って釣り上げたくせに、餌はぜーんぜんくれないし」

 「だからそれを怒ってたんならごめんって」

 「すっごい悲しくて情けなくて、もう憲男死んじゃおっかとか思ったし」

 「そんなことで死ぬな」

 「そんなことじゃないよ。俺にとって進藤ちゃんは、そんなこと程度の人じゃない」

じっと見詰めたら、きまり悪そうに俯いた。また逃げちゃう?今度は今日の餌で数ヶ月は生きてろとか、そういうこと?

 「………だよ」

 「え?」

 「俺だって!お前のこと!簡単になんか考えてないんだよ!それくらい分かれよっ」

これを我々一般社会では、"逆ギレ"と、こう呼んでおります。

 

倒れた自転車を起こすと、ものすごいスピードで走っていく。進藤ちゃんの背中を一瞬、呆然と見送ってそれから気付いて俺も自転車に飛び乗る。

 「ちょっ、待って!待てって進藤!」

いま誰かが俺を見ても、きっとペダルを踏む足が見えないだろうなと思いつつ、でも更に加速させるためもっと強く踏み込んだ。

 「も、さ、ホント、言葉っ足りないから!ね、しんど、って、聞けよバカ!」

近付いてくる背中に怒鳴りながら、どっちもどっちなところは反省するけどと付け足してみる。

不器用なのは、それはこれが初めての、本物の恋だからなんだと思う。

本当に本気の、真っ直ぐで一途な恋だから。

 

だから、きっと、大丈夫。

 

 

 「進藤ちゃーん!」

 「うるさいバカ松!」

 「わっムカつく!バカにバカって言われた!」

 「お前…それは、それだけは言っちゃいけないことだろーっ!」

うおーっ、って。

 

仮にも俺より長く水泳を続けている進藤ちゃんの脚力をなめてた憲男がバカでした。

 

 「まっまっ待ってーっ!」

 

ホント、不器用なのも程々にした方がいいらしい。