友情と恋の境目  /H2

 

 

 

 

 

 

 

ひかりの顔を見ていると、いろんなことが思い返されて胸の辺りが痛くなる。

 「ヒロ」

見るだけで痛むのだから、呼びかけられたりすればもっとずっと辛くなる。

恋愛感情とか、そういうものではなく、もっと奥深くに横たわるもの。

時間以上にままならないないものは他になくて、それが分かっていてもなにも出来ないのが人間なんだと思う。

国見比呂には同い年の幼馴染みがいて、彼女のことを好きだと気付いたのは"手遅れ"になって更に随分経ったあとだった。

手遅れにも色々な種類があって、本当はどうにかなるものも含まれているものだけれど、彼の場合の手遅れは本当に救いようがなく、どうしようもないことは本人にも分かり切っていた。

友達で、ライバルで、唯一無二の分かり合える存在で。

そんな"彼"を恋愛でもライバルの位置に置くことはどう考えても不利だったし、またそのことで気まずくなるのも嫌だった。ただ、戦う前に結果が出てしまっていたという事実だけは変えようがなく、そのことだけが悔やまれた。

いつだって正々堂々と、正面から挑みたい相手なのにそれすら出来なかった。勝つか、負けるかで言えば恐らく負ける率の方が高かっただろうけれど。

それでも彼とは対等でいたかったし、彼にも、そう思われる存在でいたかった。

隣を歩く相手なら、自分にだってちゃんといる。

きっと、それは間違いじゃない。

でも、自分の気持ちは偽ることは出来なくて、それで余計になにもかもが言えなくなる。なにも言わず、なにも聞かず、触れずにいることしか残されていない。

 

辛気くさい話だな、と独りごちながら角を曲がる。ゆらゆらとわざと揺らしながら進む自転車の車輪が少し、軋んだ。
玄関前の、駐車場の、前。

つまり彼の自宅前に、誰かいる。

動体視力はいいけれど、視力自体は"ものすごくいい"とは言い難い目を凝らしどうにか見定めるその人影は、本当はそんなことをしなくても判別出来る相手だった。

背が高く、視線はあくまで鋭いのに、笑うとどうにも人懐こく、それがいつでも居心地を悪くする。負い目や嫌悪や、そういうものではなく漠然とした不安感…または焦燥感。

自分を見るその目に含まれたなにか。

 

 「よう比呂、いま帰りか」

 「…敦と飯食ってた」

 「相変わらず仲の良ことで」

 「うるせ」

呟くように低く言って、彼に道を譲るよう促す。

友人として好ましい。対戦相手として不足はない。また、ひかりを任せることの出来る唯一の男でそれは卑下でもなんでもなく、認めざるを得ない人物。

同い年であっても尊敬に値する努力家であり、また実力者でもある橘英雄の顔を流した視線で捉えながら自転車から降りるとスタンドを立てた。

 「…なに」

 「なにが」

自分はまだ自転車のサドルにまたがりつつ、薄く笑ったまま比呂を眺めている彼に尋ねてもはぐらかすような返事しか返らない。

いつもそうだ。

たかが二ヶ月早く生まれただけで保護者面をするな。幾度となく繰り返した台詞をまた呟きそうになり慌ててやめる。それを言えばまだ口元の笑みが深くなり、そういうところが子供なんだと言い返されるのがオチなのだ。

確かに彼には大人びた雰囲気があるし、自分のように落ち着きなく右往左往するする姿など想像もつかない。それを言えば少し悲しい目で自分を見るのは分かっていても、平気な顔で"事実とは異なること"を口に出来るほど比呂は器用でも残酷でもない。

足下をつま先で蹴りながら、闇の中にいる英雄を上目遣いに見る。彼はひどく冷静な空気を纏ったままそこにいて、居心地は益々悪くなり比呂のことを追いつめる。

この雰囲気は好きになれない。

好きになれないどころか、嫌悪さえ感じている。

野球はもう出来ないという誤診を受け、投げやりな気分になっていた時も英雄だけは態度を変えることもなく自然に接してくれた。比呂は口下手であったし、自分の思いを外に出すことを苦手としていたがそれをうまく拾ってくれる英雄には感謝すらしていたと言うのに、この事態。

この夏、試合の、肝心なところで足を痛め甲子園は二回戦で敗退した。

それは悔いの残ることだし、誰にも言えないけれど深い傷を残していた。

いつまでも引きずることは出来ないし、そんなつもりもないけれど、完全に浮上するには本当はもう少し時間がほしくて、容赦なく繰り返す日常に疲れてはいた。

そんな日々の中で。

 
 
 
 
 

 

部屋で、ぼんやり座り込んでいると階下が騒がしくなった。

足の痛みがまだしつこく苛んでくる頃で、些細なことが気になってばかりいた。

だから両親の、それが励ましであったとしたも空回りなほどの騒々しさは正直鬱陶しかったし、慰められるのも自分が際限なく弱くなったようで受け入れることは出来なかった。尤も比呂はそれらすべてを顔に出すほど直情的ではないし、人の心の機微を窺えないほど図々しくもない。その結果が自らをより追い込むことに繋がるとしても、誰かを傷付けるよりはマシだと本心から思っていた。

だから、その喧噪が静まった時はホッとしたし、階段を上る足音には胸が痛んだ。

放って置いてくれと、正直、言ってしまいたかった。

けれど控えめなノックに返事をしてしまえば彼にはもう、逃げる場所などどこにもなかった。

 

入ってきたのは英雄で、土産の一つもなくすまないと笑いながら言われれば曖昧に頷くしかない。身動きが取れないから、適当に座れと言うと、なにを思ったか彼はすぐ真横に腰を下ろし比呂のことをじっと見詰めてきた。

英雄には様々な思いを向けていた。

尊敬も、嫌悪も、友情も、同じ痛みを知る特別な相手であることも。

一つ一つが比呂にとっては大切で、自分にとって英雄とはそれらすべて構成されているものだった。だから見詰めるのも、見詰められるのも苦手であり、また心地よくもあった。

複雑な、と一口で言ってしまうにはもっと堅く縺れ合った感情が彼には向けられている。ひかりのことも、その要因としては強かった。

いや、一番にそれが強いと言ってしまえるのかも知れない。

 

 「なにしてた?」

 「なんも」

 「大人しくしてたか?」

 「だから、なんもしてねぇって」

 「機嫌悪いな」

 「いいわけないだろ」

 「そうか」

 「そうだよ」

ベッドに寄りかかって座っているから、余計に体を動かすことは出来ない。まして惨めに手を床について這い回る姿など見せられない。彼にだけは。

 「閑だろうなと思って、見舞いに来てやったんだが…歓迎されてないなぁ」

 「土産もないくせに」

 「土産か…」

神妙な顔で俯くから、つい、そちらを見てしまう。

何事かを思い詰めたような目が、じっと一点を睨んでいてそれが近寄りがたい印象を深めている。鷹のような、という形容があるが、英雄のそれはまさにその通りだろう。丸くて、大きくて、ドングリとか子犬などとありがたくない形容をされるばかりの自分とは大違いでそこにもまたコンプレックスを刺激される。

彼が黙ってしまえば自分に話し出すきっかけはない。元より比呂は、英雄より更に無口なので楽しい話題を提供出来ようはずもない。

そのまま数十秒。

人が複数でいる時に、会話がない状態というのは必要以上に長く感じる。まして気まずい雰囲気が漂うような環境では沈黙が凶器にすらなり得るのだ。

比呂は、大きく息を吸った。

 「なあ、」

 「比呂」

意を決して開いた口が、そのままの形で止められる。振り向いた英雄の目が更にきつく引き絞られていて、それに曝されただけで身が縮む思いがする。

 「比呂、お前…無理するな…」

 「は?…なんだよ、無理って…」

ぎくしゃくと視線を逸らしながら、僅かに体をずらす。微かに壁際に、つまりは自ら追いつめられる方に身を寄せると、その数ミリの距離すら縮めるように英雄の体も寄せられる。また少し、ずれる。

英雄が、近付く。

なんだこれ。

妙な緊迫感が背筋を這い昇り、比呂の中を本能的な恐怖が掠める。英雄に対し感じるには随分過激な反応だけれど、それでも異様な気配は十分すぎるほど比呂を威圧した。いま、ここにいてはいけないと耳元で誰かが囁いている。

これ以上体をずらしたところで、その先にあるのは壁だ。ましてベッドとクローゼットの間に出来た隙間に押し込められては本当に逃げ場を失う。

両腕を、さりげなく前に出し前傾姿勢を取る。掌を床について、それから前に進めば取り敢えずの距離は確保出来る。なにから、どうして逃げなければならないのか、混乱した頭では整理することも出来ずただ意識だけが体に逃げを打たせる。

英雄が怖い、と。

漠然とした思いの中でそれだけが鮮明に精神を炙る。

突如現れた不可解な思いに焦りが増す。

掌で、一歩。

 「比呂」

前に傾いた体が引き寄せられる。胸に回った腕が熱くて、恐慌状態が更に進む。悲鳴を上げそうになる。

 「比呂」

抱え込まれると体格差が嫌でも突きつけられ、それで比呂の中に辛うじて残っていた冷静さが簡単に弾ける。暴れれば解けそうな腕に爪を立て、逃れるために身を捩った。何度も、激しく。

小さな声で威嚇するのが精一杯だった。

階下には親がいて、自分は怪我をしている。こんなところを見られるのは嫌だし、まして彼の考えていることがまるで分からない状況ではなにを言って鎮めればいいのか分からない。"離せ、ふざけるな"と、そればかり繰り返し拘束を解くよう叱りつけた。

 「大人しくしてくれ、頼むからっ」

耳元で言われ、ゾッとした。

その声音の中に感じた甘みが麻酔のように広がるのをはっきり自覚してしまい、余計に恐怖が膨れあがる。これがなんなのか、どうなるのか、まるで分からないと思う中に本当は見えているそれから目を逸らす。

怪我から発した熱が下がらずにいるので、体力はあっと言う間に尽きた。

腕力では負けない自信があったのに、こんなに簡単に捕まるなんて。

捕まって、しまうなんて。

生温い息が首筋にかかり、そのたびに体の中心を得体の知れない感覚が走る。―――嘘だ。知らないものではない。健康な、と表現される男であれば誰もが覚えのあるその痺れるような刺激に益々比呂の身が竦む。あってはならないそれが怖ろしくて仕方ない。

全身が震えだし、歯の根が合わずカチカチと鳴っていることに気付いた。

胸の前でクロスされ、羽交い締めに近い状態だった腕が少しずつ離れていくのを感じながら、それでも比呂は、もう逃げ出そうとする意識も薄れていた。諦めた訳ではなく、ただ、怖かった。怖くて動けなかった。いまが信じられなかった。

ゆっくりと引き寄せられ、英雄の胸に凭れるようにされる。

肩に、彼の顎が乗せられているのが分かる。

こんな状況なのに彼の呼吸は落ち着いていて、それだけが妙にリアルだった。

 「足…痛むか」

聞かれて、頷く。本当はなにも分からない。焦燥感が焼き切れて、ただ問いかけに反応しただけのことだった。

長い腕が器用に、固められた足を楽なように伸ばしてくれるのを眺めながら、これは夢だと思ってみる。更に深く抱き込まれる体は現実のものではない。こんなこと、あるはずがない。夢だ。

 「すまない」

静かな声はよく知ったもので、きっと、それだけは本当だった。

目を開ければ"本当の英雄"がいて、本当の自分はいつも通り、眠いような、醒めたような目で彼を見ている。なにもなかったから。何事もおきてなどいないから。

 「自分でも…よく、分からなかった。ここに来るまで、部屋に入るまで、隣に座るまで…分からなかった…」

なにが、と問うことは出来ない。

だってこれは"嘘"だから。

 「どうしてと聞かれても、俺にも答えられない。いまも、本当はよく分かっていないのかも知れないから」

分からない、と英雄は言う。

分からないと。

 「比呂に触れれば分かるような気がした。答えがもらえるような、気がした」

まるで自分の意志ではないかのような。

 「お前が…答えをくれると…」

お前が、"いま"を作ったんだと。

 

そう、言われたような気が。

 

振り向いて、殴った。

抱えられたままで、半身しか動かすことが出来なくて、それは大した威力を持ってはいなかったけれどそれでも、英雄の頬は忽ち赤く染まり視線は凍り付いたように動かなくなった。

睨み付けて。

本当の憎しみすら含んだそれで、睨み続けて。

 

 

 

どれほどの時間をそうしていたのか比呂にも分からないけれど、捩ったままの体が少し、軋んだ。俯いたままの英雄はまるで呼吸すら止まってしまったように動かず、静けさにも音があると言うことを思い知るような沈黙がなおも続いた。

不意に、外を通る自転車が鳴らしたベルが比呂の室内に響き、途端に英雄の腕が再度比呂の腰に回される。それは先ほどより弱められたものだったけれど、逃げることは出来そうになかった。

動かなかった自分を罵倒してももう遅い。

逃げなかった自分自身に問いかけたところで、きっと、答えは出ないだろうから。

 

両腕の拘束から、やがて英雄の右手だけが弛み、それが首筋に回されるのを感じた。

伏せていた目はいまやひたりと比呂に当てられ、その奥底で光る黒い煌めきが怖ろしいほどに深かった。

また、震え始めた体を今度は片手で抱き締められる。

首に回った指が、ゆっくり、比呂の顎に這わされる。

 

 

視界一杯に見えるのは、これは、きっと嘘の景色だ。

さらりと艶やかな髪が額に触れるのも、背中に回る強い腕も、呼吸を圧迫する指先も。

唇を塞ぐ、息苦しいだけの口付けも。

なにもかも嘘。嘘でしかない、こんなのは。

こんなことは、嘘でしかない。

本当であっていいはずがない。

だから。

 

 

 「…比呂」

呼ばれたそれが自分の名前であっても、比呂は返事をしなかった。

 「比呂…」

深く深く抱き込まれても、自分の体だとは思わない。

 「…ひろ」

現実だとは、思わない。

 

思わなければ、大丈夫。

きっと。

まだ。

 

 

 

 
 
 

 

 「寄っていって、いいか?」


自転車に乗ったまま、英雄が尋ねてくる。
 
確かにそれは"問いかけ"だけれど、比呂にはなにも、言えなかった。
言葉など疾うに失い尽くしている。

虚構と現実の区別を付けるには、なにもかもが足りない。

ぴしゃり、と響くそれが降り出した雨の立てるそれだと気付いても比呂は動けずただ目だけを見開いていた。

ただ、そこから動けずに――――