幼馴染みの曖昧さ /H2 ヒデちゃんとデートなの。 ひかりの言葉に頷いて、彼女とは反対の方角に体を向ける。 すると弾けるような笑いが背中にぶつかり、拗ねないでよ、比呂も一緒に行く?ととんでもない台詞が続けられた。 なにも知らないから。 彼女はなにも、知らないから。 顔を半分だけ振り向かせ、それからなんでもないように笑ってみせる。 馬に蹴られるのは嫌だからなと言えば、古くさいことを知ってるねと、自分だってその古くさいことを知っているひかりが軽く返した。 本当は、足下が震えている。 気付かれる訳にはいかないから、じゃあなと呟き歩き出す。 怪我は治っていたけれど、痛みは日々、増していく。 マウンドを降りれば現実ばかりで、その重みに耐えかねた心が軋む音を聞くばかりだ。 自分の悲鳴を。 押し殺したそれを、比呂は、ただ聞いているばかりで。 憂鬱な気分を写したような空は、間もなく雨を降らせるだろう。 そろそろ暮れかかるオレンジの空に、ひかりの手が握っていた赤い傘をぼんやりと重ねながら走り出した。 鈍っていた体をいじめるように動いても、鬱ぎがちな気分が晴れることはない。 長年バッテリーを組む敦には精神的に不調であることを知られてはいたが、いざ投球を始めれば文句の付けようのない比呂に口を挟む隙を与えられず遠巻きに見ている状況が続いている。彼の、探るような視線が居たたまれずより"普通"であることを装うから、心は安まる隙もなく日々比呂を苛んでいた。 なにがどうなったのか。 彼がどうで、自分がどうか。 なにをどうすればいいか。 どうしたいのか。 考える時間をゆっくり取ることが出来ないし、まして比呂は考えることなどしたくない。出来れば蓋をし、なにもなかったことにしてしまうのが最善であると考えるから、思考のすべてを占拠するその問題を深く追求することはしたくもなかった。 逃げ出したい。 後先などどうでもいいから、とにかく逃げて、それで終わりにしてしまいたい。 根本的な解決などしなくてもいいのだ。比呂にとって、解決へと辿る道順すら苦痛であったから、誰がどうなろうとこの状況に悩まされない"いままで"に戻れればそれで十分だった。 結果、誰かが泣いたとしても。 それですべてが、壊れたとしても。 意気地なしの自分が原因であることの自覚はあった。 恐らく、本当に終わりにしたいのなら方法はあったのだ。英雄が、いま、比呂の中にある痛みの根元である橘英雄が完膚無きまでに傷付いたとしても、彼を思いやる余裕がないのは事実だから振り切ってしまえばよかったのだ。 少なくとも比呂は、唯一の逃げ道の前で自分自身が踏み出せずにいる。 それに気付いているから苛立つ。 苦しさが、増す。 ロードワークの途中で案の定降り出した雨に濡れ、近所の公園に避難した。 子供の頃、遊びと言えばキャッチボールばかりで却って公園に通うことの方が少なかったそこも、訪れてみれば友達と駆けずり回った日々をいまも鮮明に覚えている。 塗装のはげた大だこの滑り台の中に入り込んで、内部の狭さに思わず笑いがこみ上げた。 自分が大きくなった自覚は、恐らく他の誰より強いと思う。 そのことに対するコンプレックスはひかりを見るたび嫌と言うほど思い知るのだ。それなりに成長したいまとなっては懐かしく思い出すことしか出来ないが、それでも比呂にとって甘く苦しい記憶に他ならない。 外は既に夜を迎えていて、そういえばあんな時間からデートだなんて若い娘のすることではないと顔をしかめてみる。 尤もらしいことを言ったところで聞く者もなく、まして比呂自身、時間にはとことんルーズな方なので人の行動をとやかくいう資格はなかった。 街灯が照らす公園の周囲はぐるりと歩道に囲まれているが、いま、そこを歩く影は一つもない。まるでそこだけが現実から切り離されたような感覚で、比呂は、冷たいコンクリートの壁に寄りかかった。 ふわふわと浮いているような気がする。このところなにをしていてもふと我に返る一瞬があって、そんなときは決まって全身が重くなり、気分がどん底まで沈んでいく。現実味のない感覚の中を浮いているばかりの自分だから、余計にそう感じるのだと分かってはいるがそれでも自らの意志でどうにか出来るものではない。 いまも、街灯に照らされキラキラ光る雨の軌跡を見ていると、まるで灯りに群がる羽虫を見ているようで苦笑が漏れる。 ここがどこで、自分がなにをしていたか、思い出すまでに数秒を要するのだから重症だ。こんなことでエースだなどと言えるはずもない、気持ちを切り替えなければと自分で自分の頬を叩く。 ぴしゃり、という音が、けれどどこか遠くから聞こえた気がして、また、壁に背を戻すと雨滴の虫を眺めやった。 英雄は、細心の注意を払って接してくる。 恐らく彼はそのつもりなのだろうが、受ける比呂にとっては余計に神経を逆撫でられた。彼がなにをしたいのか、そんなことを分かる必要はないと思う。その気持ちを思いやってやる謂われはないし、なにより応えるつもりは毛頭なかった。ひかりのことを欺きながら、それでも自分に腕を伸ばせる彼のなにを信じろと言うのか。 理解しろと言うのか。 湿った綿のように重く、ままならない体を引きずって歩くのにはもう疲れた。平常心を取り繕うには、比呂は、生まれつき器用ではなかった。 どれほどの時間をそうしていたのか、実際はそれほど長くはなかったかも知れない。いい加減体が冷えて手足が縮こまる感覚に気付くと、そろりと背筋を伸ばしてみる。 雨は、強くはないが自宅までの距離で確実に芯から冷えさせるであろうと思える程度に降っている。出来れば避けたい事態だが、これ以上ここにいるなら結果は同じことだろう。意を決して半身を浮かすと、公園の入り口あたりに人影があることに気付いた。 見た瞬間に分かる、それは、気心の知れた幼馴染みといま、一番逢いたくない人物の二人だった。 慌てて体を戻すと、死角に入るよう身を竦め行き過ぎるのを待つことにした。 学校のことだろうか。 二人の話は他愛もないもので、ゆっくりと歩いているから比呂の耳にも言葉の端々が漏れ聞こえる。ひかりは時折赤い傘を降って、周囲に水滴を飛ばしていた。甘える様な声に胸の奥が熱くなる。自分には与えられない、とても高価な砂糖菓子のようだと思う。 英雄の自宅はこの公園の向こうで、ひかりと比呂の家とは逆方向になる。分かれるとしたらここだろうが、こんな夜の雨の中、彼が彼女をひとりで歩かせるはずはないと踏んで、比呂はもう少しこの場に身を隠すことにした。 冷たいコンクリに降り注ぐ雨が、形のいびつさも手伝って徐々に内部に染みてくる。 比呂の蹲っているところにも掌大の水溜まりが出来、それがじわじわ足下を浸食し始めた。 何かに似ている。 誰かに。 英雄に。 似ている。 ぎゅうっと強く、自分の腕で自分を抱き締め、薄暗い中震えていることの惨めさを嘲笑う。逃げ出したくても出来ないそれが、彼の所為なのか、それとも自分の意志なのか。膜の張ったような視界に、泣いているのだと気付いた瞬間乾いた笑いが口から漏れた。 外に、もう彼らの気配はなく夜はどんどん、深くなる。 世界中に独りだなんて、そんな台詞は甘えたやつが口にする常套句だと思っていた。どんなときも自分の足で立たなければ、先に進むことなど出来ないから。だから自分は、強くあろうと決めていた。辛くとも、なにがあろうとも、前だけは見据えていこうと自身に誓った。 そうあれると、思っていた。 座っているぎりぎりのところに迫った水溜まりに、諦めて腰を上げる。 頭を打ち付けないよう、そろそろと進むと外に出た。 しとしとと降る雨は、先ほどよりも静かになったがそれが余計に冷たくて、やるせなくて、目を閉じる。 ひかりが笑っていられるといい。 幼馴染みの彼女が、いつまでも笑っていられるといい。 出来ればその隣には自分がいたいと思ったけれど、きっと、いまとなってはそれこそが一番に彼女を傷付ける原因になるのだろうと分かっている。 座っていた辺りの水溜まり。 ゆっくり染みて、いくつかのそれが一つになる。 緩やかな、けれど確かな、浸食。 記憶の底に、またひとつ。 グレイの染みは際限なく広がって。 幼馴染みと、薄汚れた"染み"と。 なにより綺麗で輝いていたそれが、浸食される日を恐れている。 曖昧なままに終わってしまった、あの日をずっと、悔いている。 |
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