同じ屋根の下 /H2 敦とひかりが、勝手に決めた。 珍しく、天気予報が完全に当りその日は早朝から激しい豪雨に祟られていた。 室内練習場が充実した有名校とは違う千川高校野球部は早々に自主トレーニングを発表し、午前中の数時間を柔軟などで消化した部員たちに久しぶりの休日を与えてくれた。 早速、比呂に向かいお好み焼きを食べに行こうと提案してきた敦の携帯電話が鳴ったのは、部室の中から彼らを除いた全員が退室したあとのことだった。 反対することも出来ず、自分の部屋で"久しぶりの幼馴染み親睦会"が行われることになり、比呂は憂鬱な溜息を吐きつつ自宅の玄関を開けた。 雨が降っても槍が降っても、明和一高野球部であれば練習可能な室内施設が整っていて、仮に自由意志に任されたとしても英雄であれば自主練習をするに決まっている。それがこの話しに乗ってきたのはひかりの薦めであろうし、まして彼は友人に囲まれる時間を大切にするタイプだった。 人の気も知らないで、コンビニエンスストアのビニールをガサガサと鳴らしながら階段を上がっていく彼らを見る。出来ればこのまま、回れ右をして逃げ出してしまいたいがここが自宅であるという事実の前には無駄な抵抗でしかなかった。 家の中に、両親の気配はない。 静まりかえったリビングに視線を投げていると、階段を上りきった英雄が"比呂"と呼びかけてきた。 ゆっくり振り返り、彼と視線を合わせる。労るようなそれを疎ましく思いながら、それでも逸らすことなく見返しているともう一度"比呂"と、今度は声に出さずに呼ばれた。 途端に背筋を駆け上がる寒気に眉を寄せれば、英雄の足が階段を下りかける。それを制止するよう、微かに顎を上げ階段に足をかけると、進みかけた英雄が止まりそこで比呂を待った。 足音を立てないよう昇りきり、英雄の隣に立つと、彼だけに聞こえるような小さな声で牽制する。 「近寄るな」 「比呂、」 「近寄るな」 一瞥すると、英雄は唇を噛み抗議するような表情で返した。それを無視して自室に入ると、中ではひかりと敦が買い込んだ菓子類を広げ賑やかに"親睦会"の準備を進めている。 「比呂、コップ貸してね」 「ああ」 頷くと、ひかりが軽い足取りで部屋を出ていく。入れ替わりに入ってくる英雄に微笑みかけたのが見えて、それが比呂の神経を逆撫でた。 この部屋に、ひかりを招くのはくすぐったく、決して悪い気分ではなかった。 これまで幾度も訪ねてきた彼女の足が遠のいたのはやはり英雄と付き合い始めてからのことで、比呂はそれを常々寂しいと思っていた。確かに穏やかならぬ気持ちを抱く相手ではあったが、ここで、他愛のない話をすることがとても安らげる時間であったことは事実だし、ひかりの、女にしては物静かな話し方が好きだった。 きっと本人以外では、誰よりこの部屋に馴染む存在。比呂が、そこにあることを許し、求めたのは彼女だけ。捩れてしまった時間の中で、それでも密かに思い続けてきたそれを、一瞬にして失ってしまった。 英雄が、壊してしまった。 大して広くはない室内に四人も入るのだから、必然的に比呂はベッドに腰掛ける。けれど投げ出した足を敦に邪魔がられ結局壁に寄りかかる形で奥へと追い込まれた。 右手前に敦、左には戻ってきたひかりが座り、英雄は比呂の正面に腰を下ろした。嫌なポジションだと思うけれど、比呂には、口を開くことすら億劫でただ黙って渡された飲み物に口を付けた。 「ホント、久しぶりだよね。こうやって比呂の部屋に集まるの」 「だよなー、結構顔合わせてるのに、集まるとなるとなかなかうまくいかないし」 「みんな忙しいもんね」 ひかりが、それでも楽しそうに語るのに合いの手を挟むのは敦の役目だ。彼には場の雰囲気を和ませる力があり、任せていれば万事がうまく回る。だから口下手な比呂は益々なにも言わなくなるが、それで調節が取れているのだから構わないだろう。その辺りの事情を熟知しているメンバーは、黙り込む比呂を訝しむことはないし、必要以上に返事を強要することもなかった。 学校のこと、部活のこと、野球のこと。 家族のこと、勉強のこと、将来のこと。 ごく当たり前の高校生がする内容の会話は尽きることがなく、曖昧に笑う比呂の前でぱらぱらとめくれるスライドのように移り変わっていった。そういう時間が嫌いではない比呂だったけれど、それでも、ここにいる彼女と、彼の存在が重くのしかかり楽しむことも、話題についていくことも出来ずただ音として捉えているに過ぎなかった。 「あ、コーラがない!」 「一本でいいって言ったの自分でしょ」 「さっきはそういう気分だったんだけどさー、ないとなると益々ほしくなる」 「買いに行ってこようか」 「こんな土砂降りに、女の子パシリには出せませんよー」 「じゃあひとりで行く?」 「…付いてきてください」 敦がおどけて頼むと、ひかりはあっさり頷いた。 ぼんやりと眺めていた比呂の肩が跳ね、咄嗟に敦の腕を掴もうとした時、一瞬早く英雄が声を発していた。 「気を付けて行けよ」 「うん。ヒデちゃんは、ほしいものない?」 片えくぼの頬を緩め、ひかりがかわいらしく首を傾げる。 なにも知らないで。 知られていいはずはないけれど、なにも、知らないで。 「ああ、そうだな…前に買ってきてくれたコーヒーゼリーがあったら頼む」 「あれはチェーン限定だから、ちょっと歩くんだよね。でもいいよ、行ってくる」 「遠いなら別のもので構わないぞ」 「そんなうまいの?俺も食いたいからいいよ、場所教えてくれれば行ってくるし」 「うーん、ちょっと説明しにくいから、やっぱり一緒に行くよ」 「すいませんねぇ、じゃ集金は帰ってきてからってことで」 冗談じゃない。 呼び止めようと体を浮かせた比呂を、正面から英雄が見据える。やっぱりこの位置にいたのは間違いだった。彼を招いたのは間違いだった。 英雄を。 彼に、触れさせてしまったことを。 いくら悔いても、もう、遅くて。 二人が出て行ってしまうと、室内は雨の音だけが聞こえる虚しい空間に変わった。 「そっち…行ってもいいか」 いいわけがない。 ベッドの上で、壁際ぎりぎりまで身を寄せた比呂は無言のまま拒絶を示した。言葉ではなく、態度で、英雄の"侵略"を拒む。 いい加減、気が狂いそうだ。 何か言いたげな目で見るのも、触れたそうに指を伸ばすのも、すべてが英雄の都合であって比呂の望んだことではない。これ以上彼を意識の真ん中に据えていれば、もう間もなく、すべてが崩れてしまう気がする。それは確信であり、容易に想像出来る最悪の事態だった。 体を横に向けて、せめて視界の中に彼を入れないよう顔を背けているのに、ベッドがぎしりと音を立て人の重みが加わったことを知らせてくる。 逃げれば逃げられるだろう。 惨めに、大慌てでベッドを降りて、ドアを開けて。そうして階下に降りて、それでも追ってくれば外に逃れて。 逃げようと思えば確かにそう出来るだろう。けれど比呂には、そうして彼のために動くことすら耐え難かった。構わないでほしい、ただそれだけで、もうどこにも行きたくはない。誰にも。 触れられたくは、ないのだ。 けれど無遠慮な指は比呂の肩に掛かり、比呂の腕を掴み、引き寄せる。腕の中に囲い込もうとする。守られるべき弱い体ではないのに、それでも英雄は、自分のことを。 比呂のことを。 さあっ、という、雨が風に流される音が聞こえる。 英雄の胸にいるから、当然、彼の鼓動も聞こえる。 タイヤが水を跳ねる音と、遠くで響くクラクション。人が生きていると感じる音。 「比呂」 耳元に直接送り込まれるこれは、生きていくことに対しなんら意味を持たないもので、比呂にとっては不要な音だ。ついこの前まで大切で、決してなくせないものだったはずのそれはいつの間にか不快なだけの、それだけは受け入れがたい、醜く歪んだものになっていて。 拒絶で強ばらせていた体から力を抜く。 英雄が、不思議そうに顔を覗き込むが目は合わせず、ただ、ぼんやり視線を宙に彷徨わせた。埃が、動くもののない室内を舞っているのを不思議な気持ちで眺めている。 自分の意志ではなく、どこに行くのかも、分からず。 それでも自由だと思った。 あの小さな埃は、それでも自由に動いている。どこかに辿り着く。 どこかに。 壊れ物を扱うように抱き締めていた腕が、そっと、背を這い腕を辿り、やがてベッドの上に倒された。追っていた埃を見失い仕方なく顔を上げると、泣きそうに歪んだ英雄の顔が目前にあった。 「比呂、俺は…お前を悲しませたいわけでも、お前に憎まれたいわけでもない」 「…悲しんでなんかいねーよ。憎んでも…ないな」 意識して焦点をぼかしながら、それでも英雄のことを見ている。情けない顔。傷付けたのは自分のくせに、追いつめたのは自分のくせに、被害者のようなその顔に笑いすらこみ上げてくる。 決して笑うことなど出来ないけれど、それでも、そう思うことで比呂は自分の中の何かを支えようとする。崩れまいとする。 「憎んでないはずないだろう、そんな顔して」 「どんな顔?」 「どんな、って…」 彼に対する感情を、きちんとした言葉で表すことなど出来ない。 自分の中が、空洞になっているから。無意識に生きている、そんな毎日だから、いまは。 雨が。 「…最近、雨ばかりだ」 呟くと、英雄の意識が窓の外に向かう。 雨ばかり。英雄が側にいる時は、大抵、雨が降っている。それは誰かの涙かも知れないし、この縺れた日常を洗い流そうとする慈悲かも知れない。 どちらにしろ、比呂にとっては関わりのないことだ。雨は雨であって、それ以上でもそれ以下でもない。空から降り注ぎ体を濡らし、凍えさせるだけのものだから。避けようもなく、また避ける必要もないものだから。 雨雲のように広がる影が視界を遮り、そして、冷たい口付けが降りてくる。 雨だ。 これも、雨。 好むと好まざるとに関わらず雨は降るし、傘を差しても濡れる時は濡れる。降らなければ困る時もあるだろうが、比呂にとっては、雨は、鬱陶しいものでしかない。いまは濡れるなら、喉の渇きに悶える方がどれほどましか知れないから。 生温い舌が入ってくると、同時に英雄の唾液が降りてくる。 口の中がその匂いで一杯になって、どうにかしたくて飲み込んだ。 喉の鳴る音が、響く。 唇が立てる濡れたそれも、響く。 唾と、雄と、雨の音。匂い。 胸を這う指に笑いたくなって、けれどやっぱり笑うことなど出来ず、代わりに自分を不快にさせる彼の舌に噛み付いた。 英雄の、体が、跳ねる。 『無理だと思う』 敦が言った台詞に、興味なさげに頷いたのを覚えている。 変わり映えのない二時間サスペンスドラマの中で、ヒロインが犯人に無理矢理キスをされた時すかさずその舌を噛んで反撃していた。それを見て敦がそう言ったのだ。 確かに、いくら危機に瀕していたとしても舌を噛みきればそのあとがどうなるかなど考えなくとも分かる。実行するには相当な勇気がいるはずだ。 それをしなければ殺されるというならともかく、そんな状況でもなければ躊躇うだろうな。そう返したのは確かに自分で、その考えはいま、こうなった時も変わっていない。 きつめに噛み付いたとしても、実際は力を込めることが出来ず彼を退かせるには至らなかった。それどころか英雄の腕はぐるりと比呂の体に巻き付くと、それまでの倍以上の力で抱き締めてきた。結局、どうにもならないのだ。 どうしようも、ない。 投げ出した手が冷えている。 思いついて、力を入れて、それが一応自分の意志により折れ曲がることを不思議に思う。なにひとつ、状況は比呂の思うようには進まないのに、こんな時でも自分の指は動くのだ。中指、人差し指、小指。 右手のそれを動かして、それから左手でも試みようとして、気付く。 ごつごつとした掌が重ね合わされ、まるで昆虫の標本のように縫い止められている。 惨めに。 滲む視界の中、見上げる天井が揺れている。 なにかが見えた気がして目を凝らしたが、膜が張られたそれでは見極めることも出来なくて。ひゅっと息を吸い込んだ時、ぼやけた像はかき消えてしまった。 曖昧な、それだけに鮮明な、残像。 笑っているのは、あれは誰だ。 笑っていたのは。 あれは、いつのことだろう。 もう、分からない。 「あれ、比呂寝てるのか?」 「ああ…雨が降ると調子が悪いって」 「足、まだ痛むのかな」 ガサガサとビニール袋の音。 敦と、英雄と、ひかりの会話。 頭まで被った布団の所為で、彼らの声は輪郭をなくした不確かさで聞こえるだけだ。だからこれは夢かも知れないと思える。思いこむことが出来る。 夢なら。 これが夢なら、目が覚めた時は晴れている。肺を満たす湿気た空気と、風に流れる雨粒の音と、不快だと思うすべてのことが消え失せなにもなかったように、なにも起こってなどいないように、ありふれた日常へと戻っていける。 帰ることが、出来る。 夢であるなら。 「比呂…最近、変なんだよな」 敦の呟きに揺れた気配を敏感に感じ取る。 英雄の、飲み込んだ息の音はまるで耳元で響いたかのように。 ざまあみろ、と。 いい気味だとせせら笑う。口元が醜く歪む。 苦しめばいい、お前も。苦しんで喘いで傷付きのたうち回ればいい。 崩れ落ちればいい。 痛む自身の胸は無視して、比呂は、小さく忍び笑う。 喉に張り付いた笑い声は誰の耳に届かなくとも、比呂の体を小刻みに震わせ暫く、密かに続けられた。 やがて。 その震えが嗚咽に変わったとしても。 それさえも誰も気付かずに。 密かに。 密かに。
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