唇までの距離  /H2

 

 

 

 

 

 

 

ひかりには、"なんのことか"ともう二十回以上聞かれた。

英雄に聞けと追い払っても、しつこく食い下がるので嫌そうな顔をしてやる。自分のしたことは最低だと分かっているし、今更取り繕うことも出来ない。けれどそうさせたのは英雄なのだから、ならば今度は彼が、悩んで苦しんで傷付けばいい。

ひかりの、比呂の信頼を一番最悪な方法で裏切ったのだから。

だから今度は、彼が傷付けばいい。

泣けばいい。

 

 

 

 

 

来ると思っていた電話は、その後四日、かかってこなかった。

なにを言われたらどう返すか、そんなことを想定出来るほど器用ではない比呂は、いっそもっと縺れて、どうにもならない修羅場でも迎えて、それで二人とも壊れればいいと思っていた。投げ遣りさも含んでいたが、比呂自身収拾のつかない状態と気持ちだったので、それが一番いいようにも思えていた。

ただ、気がかりなのは。

唯一心を覆うのは、なにも知らないひかりのこと。ただ英雄を想い、比呂を思うあの幼馴染みを傷付けることは、ほぼ麻痺した"気持ち"という感覚の中にも大きな痛みを残していた。じくじくと膿んで、比呂の心を蝕んだ。

 

練習中に降り出した雨に、ああ、今夜かと思いつつ空を見上げる。

すぐやみそうな、降り続くような。

真っ黒な雲が見える範囲を速やかに覆っていき、それに付き従うよう範囲を広げる雨粒の染みは随分大きく、当たれば痛みを感じるのではないかと思えるほどだ。

プチ家出、とからかってきた敦も、比呂の様子がおかしいことには気付いていたのであれからなにかというと口うるさく関わってくる。彼なりの優しさだし、ありがたいとも思うのだが相談出来るはずもない比呂としては放っておいてくれることこそが一番なのだ。降り出した雨を見上げていると、走り寄る気配にまた、眉根が寄った。

 「比呂、あがれよ」

 「…ああ」

 「家まで送るからな」

 「ああ。…なあ」

 「寄り道はしないぞ」

 「………ケチ」

 「ケチでエースが買えるなら、そんな安いものはないね」

 「一山いくらだよ、こんなの」

 「余裕の発言。と言ってやりたいところだけど、いまのままじゃ本当に"一山"だぜ、比呂」

ぽん、と肩を叩きそれから背中に手を回される。

びくり、と跳ねた肩を訝しみつつ、けれどなにも言わず促された。以前、他のことにはすべてに対し鈍いけど、比呂のことはなんでも分かると言ったのは嘘ではないらしい。彼はいつもそこにいて、比呂と、比呂にぶつかる問題の間に立ちはだかり、出来うる限り全力で守ろうとしてくれる。恐らく無意識に。

必要にされる、その理由は様々で、敦の場合は自分が進む道にとっても重要であることがポイントなのだとは思う。それでも、そこにどのような利害があろうと彼の態度は変わらないし、嘘は存在しない。

だから信じられるのだ。

敦といると、楽なのだ。

 

 「なあ、敦」

 「…なに」

 「雨と言ったらなにを連想する?」

 「あめ?…うーん…雷」

 「……ヘソでもなんでも取られちまえ」

 「うっわ、自分から聞いてきてなにそれ」

こん、と拳が当てられる。肩胛骨の辺りに触れた温もりは、降る雨に忽ち冷めていく。

敦であれば、不快ではないのに。

他の誰かであれば気にならないのに。

 「お好み、――――」

 「寄り道はしない。お前、自分の顔が赤かったり青くなったりしてるの、本気で気付いてないのか」

 「あ?」

 「あ、じゃねーよ」

好きにさせておいてやればこれだもんな。

口の中で呟き、それきり、敦はなにも言わなくなった。黙って部室まで連れてくると、視線だけで着替えを促し支度が済むとさっさと比呂の荷物まで持ってドアを開ける。

その頃になって漸く、比呂は自分の体の異変に気付いた。

頬と、口の中が熱くてやたらと喉が渇いていた。足下も覚束ないようで頼りなく、薄ら寒い感じが全身を這う。風邪か、と心の中で呟いて、風邪ではないなにかだろうなとも考える。どちらにしても具合が悪いのは明白で、こんなに簡単な自己診断も出来ない状態におかしくなった。

笑っていると、無言のまま睨んできた敦が殴る真似をしてくる。彼とも、こんな風に親しい友人としてやってきた。これからもそれは続くはずだった。ひかりを挟み、微妙な距離感が存在することは仕方ないとして、それでも比呂にとって英雄は大切な友人であったし最高のライバルでもあった。かけがえのない、という言葉に相応しい存在だった。

陽の光りの似合う、という言葉がある。

自分も英雄も、きっとその中に含まれていた時間はあるのに。

あったはずなのに。

 「なあ、お好み、」

 「しつこい」

 

かえりたい。

 

 

 

 

 

 

美味しいものを食べて、ぐっすり眠れば治るから。

正論だが、愛情に欠けるとしか思えないことを言って両親はカラオケデートに行ってしまった。雨は相変わらず大粒のまま落ちてきて、灯りを付けない比呂の部屋の窓ガラスにぶつかっては弾けて消える。

頬を当てると、その衝撃が伝わるようで。

ひんやりしたそれを気持ちいいと感じるのは、きっと、熱があるからだ。用意された食事には手を付けず、薬だけ飲んだから少し、意識が浮いている。眠ってしまえばいいのだが、意識のどこかが醒めてそうすることは出来なかった。

携帯電話が着信を告げる。

ぼんやり目を遣ればそれは当然のように彼の名前を表示していて、白々としたその画面を長い間眺めていたが、それは切れる気配もなく比呂の意識を浚い続けた。

取り上げて、解除ボタンを押す。

着信メロディが流れる。

解除する。

場違いなメロディが流れる。

切る。

繋がる。

繰り返す。

 

繰り返し。何度でも。

このままでは。

 

 

何度目かは数えていないけれど、きっと十は超えただろう。

ディスプレイに焼き付いてしまったかのような彼の名前を暫く眺め、それから通話のボタンを押した。ピッ、と小さな音のあと、ガサガサとした雑音が入る。

 『比呂』

彼の掠れた声が聞こえる。

 『比呂、話がしたい』

 「…俺は、したくない」

 『色々考えた。話がしたい。いまのままではなにも解決しない』

 「させていいのか?」

なにを持って"解決"と呼ぶのか、英雄がどのような状態を指してそう言うのか、比呂にはまるで分からない。けれど現状を打開するには確かにふたりが話し合わなければならないだろうし、それがどのような方向に進もうとも比呂にはもう、どうでもいいことだった。

いまが最悪だから、これ以上に悪いことは起こらない。

ひかりが泣いても苦しんでも、自分にはどうすることも、出来ないから。

 『いまから出られるか?』

 「熱あるから、無理」

 『熱?風邪か?』

 「さあ。あれだろ、知恵熱。どっかの誰かさんが、バカな俺に無理矢理いろんなこと押しつけるからさ」

 『…行ってもいいか』

 「やだね」

 『直接話がしたい』

 「病気で弱ってるいまなら、もっと簡単に押し倒せるもんな」

 『比呂!』

 「なあ、知ってたか、英雄。俺さ、お前のこと、死ぬほど嫌いなんだぜ?」

 『、っ』

 「ほんと、お前のいないところならどこだっていいから行きたい。…死んでもいい」

 『バカなこと言うな!』

 「あー、残念だなー、俺バカだから、言うよ。バカなこと」

 『すぐに行く』

 「来るな」

 『行く』

 「来たって、入れてやらないよ」

 『すぐに行く。待ってろ』

 

待っていろ。

 

一方的にかけてきて、一方的に切られた電話を見詰める。

待っていろと、英雄は言った。どうして待たなければならない?なぜ彼を待つ必要がある?いらないのに。自分にとって、彼はもう、いらない存在なのに。消したいのに。

 

雨の音を聞きながら、自分に関わる人の顔をひとりひとり思い出してみる。

みんな笑っているのは、彼らが自分に対して優しいと知っているからだ。大切に思ってくれていると、自分も感じているからだ。

丁寧に、一通りの顔を浮かべ最後に英雄の表情を思い出す。

ひた、と視線を当てる、まるで寂しい子供のような目。比呂を見る時、彼はいつも目元だけで微笑むか、もどかしそうに唇を噛む苛立たしげな顔をする。どちらも比呂にとっては思い出したくない表情だ。

大声で笑いあったのは、一体いつが最後だろう?いくつか浮かぶそれはどれも不快なばかりで、積み重ねたはずの"親友"の笑顔は、ついにひとつも見つけることが出来なかった。

死にたいなんて、本当は微塵も思っていない。けれど言葉にすれば英雄は傷付くだろう。泣きそうな、腹立たしげな顔で自分のことを睨むだろう。

彼と、彼の大切な恋人が並んでいるのを見るのは嬉しかった。

複雑な思いがあったとしても、自分にとってかけがえのないふたりが幸せそうに笑いあっているのを見るのは、比呂にとっても至福だった。感傷は、苦しいばかりではない感情だから。

彼の、自分に対する気持ちに名前を付けるとしたら、一体なんという言葉を当てればいいのだろう?

恋ではない。

愛でもない。

独占欲とも違うし、執着とも違う気がする。

英雄の中で、自分がどの位置に置かれているのかもよく分からなくて、ただ、触れられるのを恐れ震えているのにももう疲れた。

答えがほしい。

どうなろうと、なんであろうと。

自分がどう、思われようと。

 

呼び鈴が響く。ドアを叩く音が続く。

雨音と共に、彼の気配が流れ出す。

比呂の足下まで。

浸水する流水のように、速やかに。忍びやかに。

 

立ち上がり階下に降りる途中で二度躓いた。薬が効いているのだろうが、感情に引きずられより強く作用しているに違いない。

激しく叩かれるドアを開けると、飛び込む勢いで英雄が入ってきた。

抱き締められる。

冷たく濡れた体なのに、とても暖かく感じるのはなぜだろう。

ひどく安心するのはなぜだろう。

どうして。

 

 「ひろっ」

 

どうして自分は、泣いているのだろう。

 

 「っ、ひろ」

 

分からない。

 

 

 

きつく抱き寄せられた体が少しだけ離れ、英雄が顔を覗き込んでくる。

街灯のぼんやりとした灯りだけでは表情は読みとれないけれど、それが、ひどく辛そうに歪んでいるのは分かる。彼が傷付いているのが。

 

泣かせたくはない。

悲しませたくは、ない。

 

自分の所為で誰かが傷付くのを見て、平気でいられる訳がない。英雄が。

 

 「ひで、お…」

 

傷付く様を見たいなどと、本気で思えるはずがない。

彼のことを、嫌ったりなど出来る訳がないのだから。

 

 

 

 

滲む視界の中、英雄の顔が降りてくる。

唇までのその距離を、心の中で、測ってみる。

 

触れる最後の瞬間まで、英雄のことを、考える。

過去と、いまと、これからと。

ふたりのことを、考える。

 

 

口付ける。

 

 

 

 

 

 

腕を、彼の背に回すことはしない。

それは許されることではないから。

決して許せることではないから。

 

それでも英雄に抱き締められたいまを、暖かいと思うことは止められなかった。

なにに背こうと。

どう裁かれるとしても。

 

ここにいるいまを、辛いとだけは感じられなかった。