拾った携帯電話  /H2

 

 

 

 

 

 

 
壊れる時は一瞬だと。

 

そう、比呂は思っていた。

 

 

 

 

 

 

表面上は取り繕っても、精神の荒みは隠しようがない。

物音に過敏になり、人の気配に怯える。

そうやって、自らを追い込むようなことを繰り返しているうち、なにもかもの歯車が狂いはじめ、近くにいるものはほとんどが彼の"不調"を心配し始めた。

勿論、自分では平静を保っているつもりだ。好調ではないにしろ、普段と何ら変わりなく過ごしているつもりだし、そう見られていると信じている。限界はもうとっくに超えていたので、それが虚しい祈りでしかないことを知りながら、それでも比呂は、自分の中身をさらけ出すことも出来ずただ無表情を取り繕い大丈夫だと繰り返した。

自分自身に、繰り替えし続けていた。

 

ロッカールームで、着替えている比呂を無理矢理とどめ敦が鞄を押しつけてくる。

帰れと言われ、思わず凝視する先でチームメイトが誰もみな彼と同じ心配そうな眼差しでこちらを窺っていることに気が付いた。

心配させたい訳ではない。

なにもない、そう思われたい。

少し休めよと、敦らしくもない嗄れた声で言われ比呂は漸く観念した。

ここまでかも知れない。

もう、どうにもならない。

進めない。

 

 

 

自転車には乗らず、重い足を引きずるように歩く。

意識がふわふわと浮いている感じは既に馴染んだものだが、まるで他人事のように頭上から自分を見下ろしているような状態に、更に体が重くなるのだから遣りきれない。

いまここに"国見比呂"を脱ぎ捨てられれば、少しは楽になるのだろうか。

英雄が求める存在を、ゼロにすれば或いは。

 

自嘲が浮かぶ。

そんなこと、出来るはずもないのに考えるだけ無駄なことだ。逃避なら逃避で、もう少しましなことを思えばいい。現実として実行出来るような、もっと、うまい立ち回り方を。

夕暮れにはまだ早い住宅地を彷徨って、それから比呂は、自分がつまらない人間だと言うことを唐突に自覚した。こんな時、寄り込む場所のひとつもない我が身が情けなくさえなってくる。

家には戻りたくない。

やたらと元気な母親に、早い帰宅の訳を問われれば苛立ちで怒鳴ってしまうかも知れない。追い詰められているとはいえ、八つ当たりがよくないことだという良識くらい残っている。自分を大人だとは思わないし、こんな時くらい好き勝手にしてもいいのだろうかと思いつつも、比呂は、自宅とは違う方向に足を向けていた。

どこに行こうとしているのか、自分でも分からないまま歩いていった。

 

 

 

 

夕焼けから、紫へと変わる空を眺めつつ歩いていたので、自分がどこにいるのか本当に分からなくなった。

気付けば土手に続くらしき道を進んでいて、このまま行けばブロックで作られた階段へと辿り着く。自宅から歩ける範囲の川を思い出し、ここがそうなら時間の割にはそう遠くまで来ていないとぼんやり思う。結局自分に、そんな意気地はないのだと言われたようで更に体が重くなり、気持ちも、固まるように冷たさを増した。

 

土手に上がると、辺りはもう暗くなって、比呂以外には人影もほとんどない。

川沿いに並ぶ家々には明かりが灯り、自分と、その温もりの差異に虚しくなる。寂しく、なる。

このまま消えてしまえば、少しは楽になるだろうか。

そう思ったところで実行に移せるはずもなく、それを意気地なしだと自嘲してみる。

斜面に自転車を倒して、その隣に腰を下ろす。

違う、意気地がない訳ではない。

そんなことではなんの解決にもならないと知っているからだ。

たとえば。

比呂は頭の中でシミュレートしてみる。

 

たとえば、自分が死んだら。

敦は嘆くだろう。

ひかりは悲しむだろう。

両親は打ちひしがれるだろうし、友人は自分を悼むだろう。

英雄は。

彼は、どうするか。

 

多分、泣きはしないだろう。

恐らく取り乱すこともないはずだ。

誰にも言わず、ただひとりになった時、過ごした時間を振り返りぼんやりと闇の中に自分の面影をさがしたりするのだろう。感傷とは違う、言葉では表しにくい感情で。

比呂を思い、唇を噛み締め。

けれど彼の心の中は誰にも告げられず、ひかりですら気付くことなく日常に紛れ、いつかはなかったことになる。

国見比呂という存在は、英雄の、表面上の意識の中からは切り取られる。それは彼自身が行う作為であり、きっと、間違いではないはずだ。

深いところで何事かを思いながら、けれどいずれは"整理された記憶"の中に放り込まれる。それは比呂にとって侮辱でしかないというのに、彼は躊躇いもせず実行するだろう。無意識に、けれど本能は意図して。

英雄が死んだら、その時自分はどうするか。

それを思えば容易に想像の付く答えだった。彼が死ねば、いま比呂が空想したことを寸分違わず自分もすると分かっているから。いや、それ以上の冷たさで彼を切り捨てるだろう。

だが彼は比呂を失うことを認められず、その中で静かに狂っていく歯車をどうにか押し留めるため"そう"するのだろうが、比呂の場合は喜んでその歯車を壊すだろう。なんでもない振りで、けれど速やかに、英雄という存在を消しにかかるのだ。

想像に難くないこと。

二人の、思いの違い。

 

自分が死ねないなら、いっそ英雄を殺してしまうという手もある。

短絡思考だがこれが一番早いような気がする。

 「…出来もしないこと、思うだけ無駄だっつの」

冷たい草の上に転がり空を見る。

暗くなりきれないそれは自分のようだ。どんよりと広がり星すらも見えない。貼り付けたような細い月が、覗き見する誰かのようでやたら不愉快だ。消えたら。

自分が消えたら、本当に、彼は。

 

いまは。

 

 

 

 

 

声をかけられ、揺すられ、漸く目を開くと目前には大きな犬の顔があった。

もう遅いわよと笑って言われ、それが飼い犬の散歩をしている女性のものだと気付かされる。犬が口を利いたら、それは違わずメルヘンだ。現実逃避中の比呂であっても、そこまで自分を見失ってはいなかった。

ご機嫌で尻尾を振って歩く犬の姿を見送り、それから時計を確かめる。

九時を過ぎたそれに顔を顰め、顰めたことにまた嫌悪する。

常識から逸脱したことをした。された、と言い換えるべきところだが、逃げなかったのは自分だという負い目もある。ただ逃げなかったのはそれこそプライドを守ったからであって、決して英雄のことを許したからではない。受け入れたからではないのだ。

憎んでいるかと聞かれ、そうではないと答えた。

それは半分は事実であり、もう半分は嘘だった。憎いと言えば憎いし、違うと言えば違う。彼に対する感情に名付けることは、比呂にはもう、出来なかった。

こと野球に関すること以外、自分の頭は回転スピードを落とすように出来ている。日常のすべてを鈍らせていいから、その瞬間には全力を尽くしたい。だからそれで構わないし、困ったことは一度もない。これからも、それは変わらないと思う。

そのツケがいま回ってきたのだとしたら、紛れもなく自分の所為だし打開したいなら考えなくてはならない。けれど彼のために思考能力を働かすことすら苦痛なのだ。こうして悶々と考えることすら嫌だ。

対岸の町の灯が、ゆらゆらと揺れている。

あの日、天井に見えたあの顔は誰のものだったのだろう。

 

それから暫くぼうっとして、やがて、のろのろと立ち上がる。ここにこうしていてもなにも変わりはしないし、比呂自身、それが望みではないのだ。

帰宅するのは、それはそれで苦痛だが扶養されている身分であり、更に"まだすることのある我が身"だと分かっているから、倒した自転車を起こし、重い足取りで歩き出す。

敦が連絡していなければ、練習後に遊んでいたことにできる。連絡が行っていれば…言い訳を、あれこれ考えているうち溜息が漏れた。面倒くさい、叱られるならそれでいい。本当のことを知れば周囲で傷付かないものは誰もいないこの問題を、たったひとりで抱えているのだから感謝してほしいくらいだ。

ハンドルを握る手に、力がこもる。

 

 

行きには感じなかった距離が、帰路は随分短いように思う。

気付けば見慣れた町並みの中を歩いていて、いつか、雨宿りをした大だこの滑り台がある公園前にさしかかっている。英雄と、ひかりが、楽しそうに話していたその脇に、惨めに身を隠したあのときのことをまざまざと思い出す。

苛々して、けれどそれを言葉に出来なくて。昇華することなど勿論無理で。

このまま進めば間違いなく自分は破滅するだろう。大袈裟ではなく、自分自身だからこそ分かる"遠くない未来"。

 

公園内に入っていくと、向かいの入り口から駆け込んでくるものがいる。

比呂を見ると、一瞬止まって、それから走り寄ってくる。

心配そうで、泣きそうな顔をした、ひかり。

とてもとても大切だった、幼馴染み。

 

 「どこに行ってたの!」

 「あー、…土手?」

 「連絡もしないで、みんな心配してたんだよ!」

 「…ごめん」

 「みんな、最近比呂がおかしいって、比呂らしくないって言って、」

 「ごめん」

潤んだ目に見詰められ、途端に居心地が悪くなる。彼女にその目で見られると、自分の汚さが際立つようで、怖ろしい。

言えないことを、口にしてしまいそうで、怖ろしい。

 「ごめんな、ちょっと、色々考えてたら迷子になった」

 「迷子?」

 「ぼーっと歩いてたら、なんか、知らないところに出てて。川があったからそこで転がってるうちに…寝ちゃって」

 「それなら連絡してよ!あたしでもヒデちゃんでも、ちゃんと教えてよ」

握った携帯電話ごと胸を叩かれる。

 「…ごめん」

英雄の指が、這ったそこに。

 「ごめんな、ひかり…」

なにも知らず、信じることしか出来ない大切な人。

 「ごめん…」

信じ続けてもらうために、真っ直ぐ生きなければならなかった。彼女のためなら、どんなことでも出来ると思った。届かなくても、知られなくても、密かに胸にあることだけを、ずっと自分の拠り所にして。

勢いで受け取ってしまったひかりの携帯電話が手の中で震える。

ディスプレイの、見慣れた、名前。

 「…比呂?」

涙が溢れても、もう、止めようがない。

 「ごめん…」

 「どうしたの?」

いけないと思っても、もう。

 

 

比呂自身、どうすることも出来ないから。

 

 

 

 

俯いて、嗚咽を漏らす比呂の背中をそっと撫でていたひかりが、やがて"帰ろう"と小さく呟きハンドルを取る。

自分より細く、柔らかな腕が守ろうとしてくれるそれに感謝しながら、それでも足を踏み出せず滲む視界を歪ませる。なにも知らないで。

 

なんにも、知らないで。

 

 

背後の気配に気付き、ひかりが足を止める。

携帯電話がまた震えだし、再度、表示される名前を確かめるように指でなぞる。

振り返る彼女の目を見ながら、通話ボタンを押した。

 

 

 

 

 「英雄…お前が始めたことだ。だったら自分で答えを出せ」

 

ひかりが軽く目を見開く。

 

 「ひかりのこと、裏切るなら…俺はそれを許さない。それだけは、許せない」

 

 

絶対に。

 

 

 「…比呂?」

 

 

 

 

 

たとえ自分が、傷付いても。