いわおNo.201より
クリスマス号
2003年12月24日発行

tree.gif惜しみなき愛tree.gif声なきクリスマス賛歌tree.gifBACK


「惜しみなき愛」
寺西英夫神父

 先日、聖書研究会の折りの分かち合いで、あるシスターから次のような感動的な話を聞いた。
 そのシスターの郷里の近くを流れる白石川に(蔵王山麓を流れ阿武隈川に合流)小野さつき訓導(小学校の先生のこと)の殉職の碑が立っている。小野訓導はある日(大正の末頃)児童を引率して川辺に遠足に来た。「川に入ってはいけない」ときつく禁じていたのに、数人の子どもが先生の目を盗んで川に入り溺れてしまった。それを知った訓導は、袴のまま(当時の女性教師は袴姿だった)川に入り、必死になって溺れた二人の子を救い上げた。が、しかし小野訓導は、そこで力尽き、川岸に倒れ、死亡した。

 これに似た殉職の例は、他にもあるだろう。わたしは、1963年7月30日に千曲川で死んだ渡辺治神父のことを思い出していた。彼は二年後輩で、関口教会の助任司祭として、教会学校の子どもたちを夏休みに郷里に連れて行き、ほぼ同じような状況で子どもたちを救い、自らは倒れ死んだ。司祭叙階後まだ三年の若さだった。

 シスターは、この小野訓導殉職物語を、小学性時代の恩師から聞いたという。そしてその恩師は、なんとその時その現場にいた小学生のひとりだったというのだ。話には続きがある。事故の知らせはすぐ村中に伝わり、小野訓導のお父さんも駆けつけた。娘の遺体を前に立ちつくした父親は、一言、
 「よくぞ、死んでくれた」とつぶやいた。
 娘を突然失ってしまった父親の心痛は、いかばかりであったろう。にもかかわらずこの一言。これは、もはや肉親の情を超えている。すべてのいのちの親である神の、聖なる親心を表わしてはいないだろうか。

 創世記22章に、アブラハムが独り息子イサクを犠牲として献げる、有名な話がある。話の結末は、「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった。あなたは独り息子すら、わたしに献げることを惜しまなかったから」という神の緊急介入で、悲劇に至らずに終り、アブラハムは神の祝福を受ける。
 キリスト者は、後に、この物語をイエスの十字架死と重ね合わせて読み、十字架の神秘を、さらに感銘深く味わうことになる。
 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまずに渡された方は、御子と一緒に、すべてのものを賜らないはずがありましょうか」と書いている。(ロマ8・32)
 また、ヨハネ福音書3章16節には「神はその独り子を与えるほど、世を愛した」という言葉もある。ヨハネ福音書は、新約聖書の諸文書の中でも、もっとも後期に(一世紀の終り頃)書かれたものの一つなので、これは、新約聖書が伝えてくれている信仰の「頂点」と言ってよい言葉であろう。

 わたしたちは、今年もクリスマスを祝う。クリスマスは、キリスト教の教祖様の誕生日を、ただなんとなく祝うのではない。
 「すべての救いのために、神が、イエスというひとりの人の生涯において、ご自分のすべてを与え尽くしてしまった」という、神のものすごい愛を、祝うのである。
 この壮絶なまでの、惜しみなき愛の前では、すべての戦争は、その正当性の根拠を失う。

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