逢鷹砦  (お侍 習作117)

       〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


 そこは、それはそれはよく晴れた空の下。何の変哲もない長閑なばかりの辺境の地だというに、静かな中にもどこか息の詰まるような、そんな緊迫の気配が満ち満ちていて。これも地形がもたらすそれか、いかにも真夏の草いきれの香をのせて青々と匂う強い風が、時折 やって来ては轟々と吹きすぎてゆくばかりのなだらかな斜面に。いかにも猛々しい装束を身につけた男らが何人か。崖っぷちギリギリまで出て来ては、額に小手をかざし、その先の遠い彼岸を眺めやっている。彼らが見やった先にはというと、これまたどういう奇跡がなしたそれだろかと小首を傾げたくなるような風景が浮かんでおり。浮かんでいるというのは言葉のあやで、正確に言やあ何もないところに雲のようにぷかりと漂っている訳じゃあない、深い渓谷を挟んだ対岸の、彼岸にあたろう土地にある里が見える…のだが。その里は、そりゃあ険しい山々を向背に背負った格好で、その麓にちょこりとうずくまっており。随分と切り立った乾いた岩山の根元にいきなり置かれた、配置間違いの箱庭の如く、何だか何処だか不自然な有り様をしておいで。とてもじゃあないが歳月を経ての自然に生まれて拓けた里とは思い難く、あとになって長に聞けば、先の大戦よりももっと大昔の戦さにて、ここより先を攻めていた勢力が中継地として目をつけたのがこの土地で。橋を架けての砦とし、攻め込まれたならその橋落として籠城すれば、何処からも侵入は許さぬこと、比するものなき堅さよと、それはそれは頼りにされたという伝承があるほどだとか。

 「つまりは、難攻不落の砦ですかい。」
 「そういうこったな。
  そん時の戦さのあとは、これといって騒ぎも起きねぇまんま、
  里はただの農村になったらしいんだが。」

 抵抗するだけの武力もない、ただの農村と侮っていたらば、そんな利点・効用だけはちゃんと代々語り継がれていたらしく。見通しのいい この斜面を駆け上がって来たのが、早亀や鋼筒を含む、物々しい武装をした一団だったものだから、物見がいち早く見て取ってのそれからは あっと言う間で、それは手際よく橋を落としたのが数日前のこと。

 「ありゃあきっと、辺境廻りの捕り方からの触れが届いてたんでしょうよ。」
 「用心深いったって限度がありまさ。」

 近年、こんな僻地へまでも様々な情報への連絡網が充実して来つつあり。電信とかいうものが普及しつつある中、辺境警備の組織も年々充実して来ており。大戦以降は荒れ放題で、力ある者が言うことが法なのだとうそぶけていたのも、今は昔の話になりつつある昨今。広域的な治安維持をと目指す動きがじわじわと広まって来ており、その波に勢いをつけるが如くに、あちこちで名のある野盗や犯罪組織がことごとく潰されてもいて。

 「何の、そういう輩はよ、
  大所帯になっての腑抜けになっちまった隙を衝かれただけのことよ。」
 「上の目が届かねぇところで下っ端がへま踏んでも、
  なかなか気がつかれねぇってのはよくある話だからな。」

 そんな連中の失態から勢いづいた役人連中が飛ばした手配書のせいで、今の今 難儀をしていると言わんばかりに舌打ちした彼らが狙っているのは、向かい合う小さな村、空中庭園のような奇跡の里に、何年か前に仲間がこそりと忍ばせたお宝だ。皮肉なもので、当時は野伏せりと呼ばれていた連中が密かに行っていたのが野盗狩り。機巧躯の野伏せりらが組んで大掛かりな狩りが何度か行われては、溜め込んでいた宝物を奪われたり、近隣の情報を吐かされたりしていたもので。そのまま連中の下っ端として組み込まれる者も少なくはなかったけれど、今更 誰ぞの下になんぞつけるかと、何とか逃げ果せた彼らの知己の大物が、その途中、荷物になるからと通りすがりの村の祠へ隠した財宝があったとか。近年の、今度は野伏せり崩れを対象とした“野盗狩り”でやはり追われたその男が、命からがら逃げたはよかったが、深手を負って逃げた先で敢えなく亡くなり。それを看取ったこちらの面々が、彼らもやはり追っ手がかかっている身のその足、大盗賊の死に際に遺した遺言を辿るよにして運んだのが、ここだという訳なのだけれど。

 「此処に吊り橋架けるにゃ、大弓で綱を飛ばすしかねぇな。」
 「ああ。きっと村の方にはそれも用意があるんだろうが。」

 何せ随分な渓谷が狭間に横たわっており。傾斜が途切れたように見えるほど、向こうが微妙に高みで、しかも、

 「う…。」
 「わっぷ。」

 大の大人でもいきなり浴びるとよろけそうになるほどもの、方向もデタラメなら強さもまちまちという突風が、引っ切りなしに吹くものだから。よほどに強い固定式の弩
(いしゆみ)か投石機、どうかすりゃ小型の大砲でも持って来なけりゃあ、到底届かぬ遥かな彼岸。難攻不落の砦って伝説はどうやら本当らしいと、野盗らが歯咬みしてから はや数日が経つ。

 「役人らがこちらを目指しているとも聞く。」
 「ああ。忌々しいことよ。」
 「あやつらだけじゃあ何も出来やせなんだものを。」
 「まあな。」

 昨今の情勢を齎したもの。大戦以降の世界を我が物にせんとしていた存在だったが、少々性急だったがために失速した、天主とアキンド。彼らと彼らの手先になり果てていた野伏せりらを、文字通り、地に叩き落とした戦さがあり。表向きには彼らの間での内輪もめということになっているが、さにあらん。その戦さで勝ちを得た、恐らくは軍人崩れの浪人たちがいるという話もこっそりと広まっており。そんな顔ぶれへ大層少ない頭数で勝ったらしいのに、なのに人知れず四方へ散っての、それから。今度は別なところのあちこちで、嫌な噂がじわじわと聞こえ始めて。

 ―― 練達二人の賞金稼ぎ、
     その名も“褐白金紅”と呼ばれしお二方が、
     世直しの旅をなさってござる。

 せいぜいが役人たちのお先棒かつぎ、若しくは、名を挙げたいだけの張りぼてと、嘲笑っていた野盗らが。頼もしい機巧躯もちの野伏せり崩れを仲間に入れて、意気盛んだったはずの窃盗団が。片っ端から踏み潰されての跡形もなく、粛正されてゆく窮状の元凶は間違いなく、その忌まわしい賞金稼ぎの存在のせいに他ならず。

 「聞けば、襲撃強襲を手掛ける顔触れを倒すばかりじゃあない、
  盗品や娘ら捌く一味も、
  何でも見境なしに潰して回ってる悪鬼だって話じゃねぇか。」
 「おうよ。節操がないにも程がある。」

 何とも苦々しいというお顔をする輩たちだが……もしもし? 盗っ人猛々しいって言いません? それ。
(む〜ん)

 「体勢を立て直すためにも、軍資金が要る。」
 「そのためにも、あの村を落とさにゃならんのだが。」

 唯一の往路だった橋を落とされては乗り込むことも出来ぬ。何機かいる鋼筒の浮遊推進で何とか至れても、後が続かず袋だたきにされるのがオチ。しかもしかも、どこぞから砲台か弩を持って来させんと放った手下は、降り立った里にて聞いたという、役人らが此処を嗅ぎつけたらしいとの知らせを遣わして来た始末。

 「こうなっては致し方がない。」
 「ああ。盲打ちでいいなら届かんでもないのだ。火矢を放って村を焼くか。」

 ただ打ち込んだだけの先杖の矢は、たとえ届いてもことごとく退けられて功を為さぬままだが、油を染ませて炎まとった矢への対処、たかが農民では知らぬだろうし。炎に包まれては財宝とやらも、貴金属しか残らぬかも知れぬが、もはや何も無しよりそれでもいいかと。破れかぶれの対処を決めかかっていた幹部らの元へ、

 「頭領っ!」
 「親方っ! 親分っ!」

 もしかして連合軍でしょうか、ここにいた幹部全員が惣領級の肩書き持ちであるらしく。ばたばたと駆けつけた、こちらも武装がばらばらな下っ端・雑兵が二人ほど、今にも膝が折れてのまろびそうになりながらも傾斜を上って来。先を競い合うように駆け参じたのに気がついて、

 「どうした、キスケ。」
 「落ち着かんか、ごぉらっ。」

 それでなくとも、侭ならぬ現状へと歯痒い想いがつのっての苛々が、膨張しまくっている幹部格のお歴々。若いころはさぞや血の気も多かったことだろ昔とった杵柄が、憤懣蓄えてのむくむくと、膨張しかかっているところだったせいか。お一人ほどは腰の得物、大きな青竜刀を引き抜いたほどに、若いもんの言いようで“天辺
(テッペン)来ていた”らしかったが、(若くない若くない)

 「お、落ち着いて下さいましっ!」
 「ワシは落ち着いとるわっ!」
 「まあまあ、ゼイロクも静まれ静まれ。」

 飛びつかんばかりに駆けつけたものが、あわわと尻餅ついて後ずさったのへ、

 「早よう言え。何か知らせがあったんじゃろうが。」
 「あ、そうでしたっ。」

 抱えて来た用件を思い出し、見苦しくも後ろ手ついての尻餅から立ち上がった雑兵の片方、

 「砲台の到着を待たんでも良さそうなんですよ、頭領。」
 「見張りのもんが、通りすがりの祈祷野武士を拾ったんですよ。」
 「祈祷野武士だぁ?」

 何だそりゃと顔を見合わす巨頭らが、ご注進にと駆けて来た彼らの後方から、ゆったりとした足取りでやってくる人影に気づいて、それぞれに首を伸ばして見せた。あれこれ凝った鎧や装備をまとっちゃいるが、せいぜい尾羽根打ち枯らした雑兵の親分どもという、煤けて荒
(すさ)んだ気配の拭えぬ彼らに負けぬほど、そちらの御仁もどこか薄汚れたいで立ちであり。祈祷士だの僧侶神官の類いにしちゃあ、錦の袈裟や純白の法衣を着てもなく。裾が擦り切れた衣紋を幾枚か重ね着し、雑嚢を腰に提げ。吹きつける風に煽られて、がっつりとした肩先から舞い上がる蓬髪や、何かの野太い縄だか綱だかを胸元へ斜めがけした姿は、荒行専門の修験者のごとし。腰に大太刀を提げてはいるが、旅の者ならそのくらいの武装は最低限必要な範囲のもの。他には特に仰々しい武装もなく、強いて言えば顔つきに相当の威厳があって。鋭い眼光や彫の深いお顔をきりりと引き締めたその威容だけで、気の弱そうな輩なら平伏すかも知れぬ気魄の剛力をお持ち。

 「お前さん、祈祷野武士とかいうお人だそうだが。」
 「いかにも。」

 髪と同じ濃色の髭をたくわえた頑丈そうな顎を引き、おごそかにも言葉少なに応じた壮年。いくら先杖の案内があったとはいえ、風体態度、どれを取ってもどう見たって怪しい連中ばかりがたむろしていたその真ん中を、突っ切るようにしての此処まで、登って来た身にしては。怯んでもいなければ悪びれてもいないままの、背条伸ばした実直そうな姿勢は、神道関係者ならではな自負あっての強靭さというものか。

 「祈祷士なら聞いたこともあるが、
  祈祷野武士とははてどんな野武士さんなのだえ?」

 気が短いらしきお仲間を押さえ付けてた猪首の大将、手下がわざわざ“砲台要らず”と連れて来たからにはとの期待半分、何とか余裕で張り合おうとの笑みを取り繕いつつ、話を聞き始めれば、

 「さようさ。
  某
(それがし)は、本因坊妙寿院本山にて修行を積んで、
  念じのみにて、人でも物でも相手選ばず、
  霊体さえもを圧倒する“咒”を操れるまでの法力を得た身でございますれば。
  免許皆伝後、本山を出てからのこちらは、
  何かしらの因縁因業で奇怪に変化した化け物を封印滅殺して回っております、
  言わば祈祷士の端くれというところ。」

 少し乾いた響きの、だが耳に心地のいい甘さを帯びた低いお声が、立て板に水とばかりの流暢に紡いだは、そんな御説のひとしきり。滔々と淀みなく語られるその態度がまた、威圧が過ぎず、さりとて芝居がかってもおらずという自然な口調であったので、

 「それはまた、大層な法力僧でございますのだな。」
 「だが、野武士というのが下についておるのはどういうことかの?」

 胡亂なのにも程があろう、いかにも盗賊団でございという面々にも臆さぬ度胸は買うけれど。怪しいことでは似たり寄ったりな、その珍妙な肩書は何じゃらほいと。別な頭目殿が訊いてみたれば、

 「それはこれ、この大弓、摩利支天の破邪憂身というのだが、
  天にも届かんという大蛇を封印せしときは、
  これへ法力の念じを込めし大矢をつがえ、南無と射るのが必殺の技での。」

 上背のある彼の、その肩の向こうで尚の上へ、にょっきりとはみ出しているほどの。それはそれは大きな弓は、その長さに見合っただけの強靭さも備えていそうな強弓らしく。寄り添えられた革の包みには、やはり大ぶりな矢が何本か収まっているのだという。装備の大きさは見りゃあ判ることだけれど、

 「天にも…って、そ、そんな大蛇を、あんた相手にしたのかい?」
 「馬鹿だなお前、そりゃあ物の喩えだって。」

 嵐や地震を化け物や妖異の仕業だってことにして、それを調伏する格好の術を唱える。そんな儀式に要る道具ってだけだってと、親分同士がこそこそと脇腹つつき合って囁いておれば、

 「いやいや。某の術は、本当に大蛇を調伏するに足るだけの法力を伴いしもの。」
 「そうっすよ。」
 「でなけりゃあ、俺らだって親分のところまで連れて来やしません。」

 心外だと申し立てたは子分たちの方もで、

 「この大っきな弓は飾りもんじゃないんだそうで。」
 「そうそう。それに、このお人自身も凄まじい腕っ節。
  弥之助の兄ィが絡んだのを、手のひらでどんと突いてのそれから、
  足元払い飛ばして あっちゅう間に蹴手繰ってしまいなされた。」

 「ほお…。」
 「それは。」

 彼らが口にした弥之助とやら、見張りの最前線に居はしたが、血気盛んで腕もそこそこなのはここにいた頭目らにも聞こえていた身であったらしく。それを易々と平伏させたという事実、強さへの十分な物差しにもなったらしい。

 「だったらばその弓へ、我らがおすがりしたいとしたなれば。
  どうだね、聞いてもらえるもんかね?」

 祈祷士といや、修行を積んでの教えを身につけた、一応は聖なる畑に身をおく者。野にあってもその志が変わらぬならば、野盗なんぞへの助力、汚らわしいと嫌うものではないのかと、猪首の頭目が暗に問えば。

 「さよう。本来であれば、封魔破邪にしか用いてはならぬ技なれど。」

 祈祷士殿、まずはそうと言い放ち、だが、

 「人もそれぞれだよってな。
  稼業によって、困っておられるものを見過ごすは不公平というもの。」

 そこで初めて…少々苦みの入り混じった笑いようをして見せた祈祷士殿であり。酸いも甘いも知り尽くした年頃の、深みのある面差しへと浮かぶ表情には、通り一遍以上の含みが幾重にも絡んで見えての、いかにも怪しくて。清廉潔白なだけでは米の飯は食うてゆけぬとでも言いたげな気配へ、頭目らもまたにやりと笑い、

  「無論、相応の“お足”は弾もうよ。」

 ここに商談成立ということか。共通の難関、遥か先に浮かぶ向こう岸の里へと視線を投げ合う彼らだったりしたのである。





        ◇



 何しろ距離があるその上に、足元の草むらや茂みをのたうちまわらせ、木立が弓なりにしなっては躍るほどの不規則な大風が、のべつまくなしに吹きつけて。こんな条件下では、遠当て用の弓で名人が射ても、ぎりぎり届くかどうかというところだろう。どうしたものかと攻めあぐねていたところへ現れた弓使いの祈祷士は、正に助けに船であり。

 「少しほど、場を空けてもらおうか。」

 風が撒くと手元が定まらないし、人があまりに間近いと気が散ると、厳かな口調で告げたのへ。物見高さで集まっていた一味の面々が、おおと立ち位置から後ずさる。そこまで下がらずともとの苦笑をしたのを最後に、壮年殿の様子が一変し、
「…。」
 結構な上背がおありなその身の丈と、さして変わらぬほどとも見える途轍もない大弓。そのもの自体が結構な重みのある逸品であろうに、標的に対して半身に立って身構えた野武士殿の腕は揺らぎもせず。それへと張られた弦の中ほど、細身の槍にも匹敵しそうな矢をつがえると、剛そうな弦を引き絞り始める。弓の頑丈さに加え、弦もまた やはり相当に堅いらしく。ぎりぎりと軋んでの堅い音を立てつつも、だが、弓の側は微塵も動かず。まるで少しずつ月齢が満ちてゆくのを模すように、弓と弦とが細い三日月から半月、そして、望月へと弧を育ててゆく。その左右を揃えられていた両の手元が、前後へと離れてゆくにつれ、祈祷士殿の懐ろが開かれてゆく様は勇壮にして雄々しいばかり。骨太で厚みがあっての、いかにも持ち重りのしそうな大きな手は頼もしく。正面を見据えた眼光の鋭さといい、これはやはり、確かな法力をお持ちの祈祷士殿かと、皆して固唾を呑んでの見守っておれば、

  「…っ!」

 彼なりの呼吸で間合いを読んでいたものが。何度めかの突風に、煤けた衣の裳裾がひるがえったのとほぼ同時。彫の深い眼窩に座った深色の瞳が かっと刮目し、弓や弦と同じほど、その肉置きが強く収縮していたものが、腕も肩も背中もと、呼吸を合わせての解き放たれれば。尻に綱つけた短い槍のような矢が、ゆるやかな弧を描いてのやや上向き。丁度真後ろから吹きつけた風にも乗っての、凄まじい速さと螺旋を帯びて…宙に呑まれて姿を消した。

 「え?」
 「矢は何処いった?」
 「おいおい、的外れなとこに掻っ飛んじまったんじゃなかろうな。」

 観衆どもが不平をこぼしかかったその間合いを、横合いから叩
(はた)いたのが、

  ―― どぉおぉぉ―んんっっ、という

 地鳴りや遠雷の音にも似た、遠いが大きくて重々しいというのがようよう伝わる、そんな物音。再びの“えっ?”と。今度は祈祷士殿ではなく、その音がしたほうへと皆の視線が一斉に向く。消えたはずの大きな矢は、いつの間にかそこへと現れており。しかもしかも、こちらに腹…は言いすぎながら、喉元をさらしていたよな格好の、向こう岸の断崖の上寄りのあたり、しっかと届いての岩肌に深々と食い込んでいるではないか。

 「おおおっ。」
 「やったじゃねぇか、お坊様っ!」
 「坊様か? 神官様と違うんか?」
 「どっちでもいいさね、凄げぇ凄げぇっ。」

 念願の橋の取っ掛かり。向こう岸への足掛かりがやっとのことで繋がれたと知り、数十人もの無法者らが早々と鬨
(とき)の声を上げる。遠いところへ届いたのみならず、あれほどの剛の矢だけに、その突き刺さりようもまた、頑として抜けはしなかろう深さに違いなく。

 「トウタは何処だっ。」
 「おお、そうだ。奴ぁ軽業の出だ。
  こんな立派な橋が渡りゃあ、後はちょろいってもんだろよ。」

 もっと丈夫な綱か、いっそ縄ばしご。担いで渡ってっての、文字通り先鋒を務められる男がいるらしく、さぁさ頑張れとその姿を探す者らが大半な中、

 「………え?」
 「おいおい、あんた…。」

 妙な声を上げる顔触れが何人か。その声へと誘われる格好で、どうした何だと振り返った面々が見たのは。まるで先程の名シーンをもう一度と言わんばかりに全く同じ、毅然とした態度で大弓に矢をつがえていた壮年祈祷士殿の立ち姿。吹き来る風に濃色の蓬髪をたなびかせ、年経てこそ得られる深みある表情を呑んだ面差しを、鋭い静謐に染めてのただただ静かに集中し、その気勢を尖らせておいでであり、

 「おいおい、もういいんだって。」
 「そうだよ。あれで十分。はい、ご苦労さん。」

 興に乗ってるトコ悪いんだけど、こっからは俺たちの仕事と。むしろ邪魔だと言いたげな。悪ふざけ丸出しの言いようをした若いのの鼻先、恐れもせずの手が離されて。弾丸でも飛び出したかのよに、びゅっと空を裂いて飛んでった2本目の矢は。今度は先程のよりもやや上の岩壁へと、やはり楽勝で届いたものの、


  ―― それを目撃していた顔触れは、
      信じられない現象へ、見る見る内にその眸を大きく見開いた。


 何しろ、それまでは忌々しいまでに遠い遠い頑丈な衝立、手の届かぬのが腹立たしいばかりな岩壁でしかなかったもの。そこへと…まずは、蛇の目傘の骨か蜘蛛の巣の絵を、年端も行かない子供が落書きしたかのように。最初の矢が突き立ったところから、放射線上のひびが入ったのがくっきり見えて。黒々とした線だったのは、乾いた岩の溝の1本1本へ、内側から染み出した水が滴っての土の色みが変わったから。深々食い込んでいた矢が、ブルブルと震えているのが遠目にも判り、それが徐々に押し出されていることへと気づいた顔触れが、だが、
「え?え?え?」
「えと、あの…なあっ。」
 何をどう言えばいいのやら。今の今 目撃している現象が、不吉な予感はするものの、他人へどう言えば伝わるかを知らぬ無知さが口を重くするばかりであるらしく。頭を抱えてのうろうろと、誰か気づいて、口の達者な…そう、誰か。あうあうと口をぱくぱくさせつつ見回していると、そうこうするうち、とうとう矢がすっかりと緩んでの下へと垂れ下がり、

 「…え?」
 「何だ、どうした?」

 そちらの矢に繋がっていた綱を保持していた猪首の頭目が、急に重くなった手ごたえに引かれ、何だ何だと視線をやったのとほぼ同時、

  ―― とうとう そのひびが砕けて裂けて

 頑健なはずの岩壁が、その場しのぎの土嚢をぞんざいに積んだだけの堤防だったかのようにそれは容易く決壊し、勢いよく吹き出したのが大きな滝を思わせるほどの水量の、途轍もない鉄砲水と来た日には。

 「な…っ!」
 「なんだ、ありゃあっっ!」
 「祈祷士のおっさんっ! 何しやがって…あ?」

 修験者もどきの祈祷野武士とかいう壮年が、いつの間にやら姿を消していることも彼らには意外で。野郎、何処 行きやがった…っと息巻く者もいはしたが、大半は徐々に勢いを増してのこちらへと、その流線を延ばして来る壮大な鉄砲水に逃げ腰になるばかり。
「どっから出てる水なんだ、あれっ。」
「崖全部、崩れてくんじゃねぇのかっ!」
「兄貴っ、お宝どうすんですよぉっ。」
「知らねぇよ、んなもんっ!」
 機転や融通が利かない、切り替えの鈍い連中だからか。右往左往するばかりな大勢一同の真っ只中へ。蛇口を少しずつ捻っていっての、しかもホースの先を押し潰したかの如く、一気に勢いを増した大奔流が、どんっと叩きつけての洗い流さんと押し寄せて。

 「おおう。こうまで威力があろうとは。」

 地形図から割り出したは、確かに…里の貯水池の底が案外薄いという事実であり。ならば外から穴を空けての底を割り、こちらの崖から取り付こうと構える奴らの鼻先叩いてやろうと構えた策だったのだが。こうまでの水量が…こちらまで達するほどのそれが吹き出そうとは、はっきり言って計算外。駄目押しの二矢目の方にも綱を繋いでいたのを幸いとし、それを体へ巻きつけの、奔流に巻き込まれぬよう、いっそと向かい合う絶壁同士の狭間へと、その身を躍らせたのは。かつて空を飛び交った蓄積があっての、恐れを抱かぬ身だったからか。

 「……。」

 ほとばしった激流の、直撃になろう真正面からは逃れたとはいえ。怒涛もかくやと凄まじい勢いで吹き出す奔流の真際に位置する辺りもまた、どんな拍子で流れに巻き込まれ、浚われるかも知れぬ危険な場所。しかも、宙ぶらりんでいるのだから、下手を打てば真下の渓谷へ叩き落とされる危険もある。驟雨のような飛沫に打たれつつ、何とか掴まったままでおれた綱のみを手掛かりに。離してなるかとただただぶら下がっておれば、やがてその綱へと、引く手ごたえが伝わって来て。

 「…お。」

 崖の縁は縁でも上縁へと突き立てた矢の尻へつないだその綱の先、見つけての駆けつけた里の者がいやったか。これまでの野盗らからの攻勢へ、そうやって対処していた彼らなのだから、こんな侵入でも見つけるのは早かろうけれど。
「…。」
 飛沫に負けじと顔を上げれば、視野の中、遠い頭上に向こうからもこちらを見下ろすお顔が見えて。丁度吹きつけた大風に、綿毛のような金の髪を遊ばれている、無表情なままの供連れ様。そちらも断崖になった縁から身を乗り出すと、遠目だと尚更に細う見えるその腕へ、綱をひと巻き絡めてのそれから、

 「……引け。」

 肩越しの背後へ向けて、低い声にてそうと告げると。そんな彼の身ごとという力強さにて、綱が一気にぐんっと引っ張りあげられる感触が、ぶら下がっていた勘兵衛のところへまで、伝わって来たのであった。





  ◇  ◇  ◇



 幸いなことに、里の側には被害者は一人も出なんだそうで、

  「すまぬな。貯水池の底を抜いてしもうた。」
  「いえいえ、構いませぬ。大水が出れば氾濫を避けて堰を開けますでな。
   それと同じことですき、底を塞げばまた役を果たしますで。」

 火でも放たれ大勢が死ぬこととなるよりマシと、里の長
(オサ)は呆気なくも言ってのけ。その剛毅さで、頭から濡れ鼠となった身を拭っていた勘兵衛の口許へ思わずの苦笑を誘ったほど。

 「それにしましても、段取りをお教えいただいておいて助かりもした。」

 こうこう、こういう運びの手を打つからという知らせがあっての、池からの間近からは離れて避難していたからこその全員の無事。仔細を申せば、畔
(ほとり)の家が数軒傾いたし、馬小屋も引いた水の立てた大波に煽られての引きずり込まれ。丘の方へと移動させていなければ、何頭かが巻き添えを食っていたところ。
「辺境の小さな里ゆえ、電信などという今時の機械は まだありませずで。」
 物騒な連中が来たとあって、吊り橋を落とすところまでは教えがあったが、その先の対処は不明。州廻りのお役人の詰め所まで飛んで行けと伝書鳩を放ったものの、連中の後から来るのでは、我らが人質となっての手が出せぬかも。籠城の辛さ、ただただ我慢を強いられていた里の者らであったところへ、突然空から舞い降りた存在があったのが、今朝方未明の話。

 「打ち込まれる矢がねぇかを見張ってた物見が、
  でっかい鷹だか鷲だかが飛んで来たっちゅうての。」

 狭間にたむろしていた野盗連中なんぞ、足止めの垣根にもならぬほどの身軽さで。ひょひょいと飛び越えの、それを助走にしたかのような大きな大きな跳躍にて。少しは崖を駆け降りて距離を詰めての稼ぎもした上で、向こう岸からを飛んで来やった、人間離れした存在の襲来には、さぞかし驚いたことだろが。実をいえば…射出式の索縄つき鉤爪も途中から使い、後半分は里の物見の頂上へ絡めて手がかり作った仕儀だったという裏技つきの滑空であり。それにしたって生身の人間においそれと出来ることじゃあないのは同じ、こちらさまもかつては天穹にて自在に翔っていた身であればこそかなった奇跡の大技であり、

 『主らが放った伝書鳩は、間違いなく役人のところまで届いており、
  今現在こちらへ捕り方が向かってもいる。
  だが、何しろ、敵が狭間に立ちはだかっているがため、一筋縄では立ち行かぬ。
  少しばかり風通しをよくするための策を取るので、』

 この者が指示するのへと従ってはくれまいか、と。そうまで長い文言を、この寡黙な若侍へ語らせるのには無理があろうと感じた勘兵衛。そうと記した書面を持たせ、里へ着いたら出来るだけ穏便に長老へ渡せと言い置いたのだが、

 「…ちなみに、どうやって渡したのだ?」

 余計な恐慌状態を招いては逆効果だが、そこばかりは当たって砕けろの出たとこ勝負よと。相変わらずに妙なところで運を天へと任せる勘兵衛が、背中を押しての向かわせた、美貌の“御使者”がぼそりと言うには、

 「長
(おさ)を羽交い締めにしたまで。」
 「…そう、か。」

 きっと、問答無用で太刀引き抜いての、首元深くへ突きつけて…でしょうよね。
(う〜ん) 大方その辺だろうなという予測はあったその上で。久蔵の放つ殺気へ逆らえるような者なぞ まずはおるまいから、恐慌状態になっての余計な怪我人が出なくてよかったよかったと。妙な信頼(?)を寄せての、勝手に大船に乗っていた勘兵衛殿もまた、相変わらずのタヌキっぷりであったりし。相変わらずの破れ鍋に綴じ蓋コンビが助っ人として首を突っ込む次第と相成ったこたびの騒動も、突然起こった“鉄砲水”に攫われた悪党共は、下流、もとえ傾斜の下にて待ち受けていた捕り方の皆様に一人残らず拾われた模様であり、

 「先程から新しい橋を架け始めておりますでなも。
  土台の桁だけなら3日もありゃあ繋がりますで、
  お役人様との連絡もすぐにも取れるようになりますだ。」
 「それはまた頼もしい。」

 あれほど威容にあふれた修験者を装っていたものが、今は目許を細めての穏やかに、味のあるお顔で笑ったりするものだから、

 「〜〜〜。」
 「??? いかがした、久蔵?」

 素人目には そうとは判りにくいながら、むむうと膨れた連れ合いへ。深い緑と藍の縞柄、日頃は滅多にまとわぬだろう小粋な小袖を借りての着付けた勘兵衛が声をかければ、

 「…。」

 麗しのお顔を斜に構えて、ますますのことそっぽを向くのが、妙に子供っぽい所作であり。未明とはいえ、まだまだ真っ暗だった夜陰の中、無頼の衆が分厚い垣根を形成していた、そりゃあ危険な陣営を突っ切ってのその末に、足元も覚束ぬ足場を蹴って中空を滑空して来た…などという離れ業を駆使した、とんでもない手練れの君が。何に拗ねてか、白いお顔をつんつんと、明後日の方へばかり向けておいで。もしかしたらば、恐らくは。ここまで大変な騒動を たった二人で見事収められたほどもの、戦さばたらきの上で練達の方々は案外と。人との交わり合いには不器用だったりするのかも知れず。

 “…可愛らしいお方だなも。”

 親子ほどと言うのは失礼かもだが、それほどまでに年の離れた片やの壮年殿が、そっぽを向かれつつも…どこか楽しそうにお顔をほころばせておいでなのを見て。長老殿、思わずのことながら、その胸中にてそうと呟いてしまったそうである。朝晩にはそろそろ、涼しい風も立つ頃合い。びしょ濡れになられた壮年様が風邪なぞ召さぬよう、適当に折り合いつけてのいたわっておあげなさいねと、縁側近くにほころんでいた鳳仙花の小花らが、愛らしい笑顔で見上げてたそうな。







  〜どさくさ・どっとはらい〜  08.8.26.


  *えっと…おまけへ続きます。

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