夢 鏡 (お侍 習作126)

         〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


        1


そこは静かで静かで、たいそう穏やかな処だったので。
すぐにもまぶたを上げて目覚めてしまうのが惜しいと、
ついぞにはないそんな気分を ふともよおしたほどだった。
さらりとした優しい温もりの夜具にくるまれていて、
少しばかり気怠いのはよほどに深く眠っていたからか。
そんな目覚めを迎えた鼻先へ、
ほのかに届く清々しい香は畳の匂いだったろうか。
それと意識したのは、さらさらとその上へ擦られる衣擦れの音がしたからで。
誰ぞが間近で身じろぎをしたらしく、
人の気配がこちらへと向き、そおと覗き込むようにその身を傾けて来る。

 「…勘兵衛様? お気がつかれましたか?」

まだ眠っていたいのならばお邪魔はしませぬという、
いたわりをよくよく心得た低い声音での柔らかな囁きは、だが。
その声で起こされていた頃を、感覚の上へと思い出させてしまい。
今はもはや“そう”ではないのだとの判断を持って来たことで、
むしろ意識は冴えてしまっての已なく、ゆるりと瞼を持ち上げる。
すると果たして、柔らかな黄昏色の明かりに横合いから照らされた、
色白の細おもてがこちらを覗き込んでおり。

 「お目覚めになられましたか。」

お起こししてしまいましたか? すみませんと、
相変わらずに繊細な造作をしたお顔の中、
涼やかな目許を細め、笑みをこさえた彼だったが、

 “…おや。”

何か違和感があるような気がした。
いや、彼のお顔や表情へというのではなく、
目を開けて見やる前から彼がいることは判っていたが、
何かが…何か足りなくはないか?
案ずるような、若しくは勢い込んでの声掛けではなかったものだから、
とんだことで意識を失ったところからの目覚めだなんて思えずでのそれで、
こちらの中でも順不同となってた何か。

 「…………久蔵、は。」

そうだ。
意識が途切れる寸前まで見やっていたお顔。
随分と距離があったにもかかわらず、彼と判ったその面影。
頭の芯がぐらぐらし、目を開けていられなくなった後も、
悲痛な声がずっと届いていたことを、
何で忘れていたのだろ。
彼はどうしたかと、たったのそこまでを言葉に出来ぬほど、
まだまだ体の覚醒は意識に追いついてはなかったようで。
それでも何とか、名指したまでの声は届いたらしく、

 「隣りの間でお休みですよ。」

勘兵衛様が目覚めるまでと頑張ってらしたのですが、
随分な乱戦の後、
そのままの一息で此処まで翔ってらしたようですし。

 「体の疲れとそれから、気疲れも相当なものだったはずですからねぇ。」

目覚めたばかりの勘兵衛への気遣いと、それから。
静かな口調のその言いようでもって、
(か)の青年をもいたわっているかのような。
そんな七郎次の態度を見て、
知らず、深い吐息がこぼれたらしき勘兵衛へ。

 “…おやおや。”

それへこそ新たな苦笑が込み上げた七郎次だったようで。
全くの他人じゃあないけれど、
当事者という立場からは数歩離れた立ち位置になったからこそ、
見えることや判ることというのは多々あって。
当事者の問題だからと、口出しがはばかられ、もどかしく思うことも当然あるが、
当事者じゃあないからこそ気づくこともあっての、
静観することか手を延べてやることか、
冷静に見通せるものもずんと増えたと思う。
直に接する相手へ、だのに妙な壁を設けてしまう頑ななお人だが、
そして、そんなお人なの、歯痒いと寂しいと思っていた自分と同じこと、
あの青年へも抱えさせてはいませんかと、
それだけがいつもいつも、一番の心配の種だったけれど。
今のお顔が…真っ先にあの供連れの青年を案じた彼の態度が、
それをあっさりと払拭してくれたと思う。
久蔵が煩悶するようなことがあれば、
“大丈夫ですよ”と、
私のときと違って、
あなたへは心預けておいでな勘兵衛様ですよと言ってあげられる。

 “…ああ、いけない いけない。”

これじゃあ何だか僻みっぽい言い方ですね。
アタシがどうこうなんて、関係ないじゃないか。
だっていうのに、ついつい未練がはみ出したなんて。
やっぱり罪なお人だ、勘兵衛様は。

  ああ、それにしても

よくもまあ、こんな大変なことに際して、
此処を、私をよくも思い出してくれたものだと。
襖の向こうで昏々と眠る久蔵の、
あの痩躯でこの勘兵衛を肩へと担ぎ上げていた、
意気地だけで立ってたような、壮絶な姿を思い出す。
彼らを追って来たものがやっと辿り着いたのか、
さあさあという細かい霧雨の音が、
静かな夜陰の中、思い出したように耳へと響いた晩である。





  ◇◇◇



その日の蛍屋は、
表向きにはいつもと同じ顔で営業の準備に取り掛かっていたが、
奥向きではひどく忙しい雰囲気が行き交っており。
店へ集中しておくれとわざわざクギを刺されたにも関わらず、
女将である雪乃までもが、
御用聞きへの応対やよその店の女将の挨拶へ、
何度も何度も気もそぞろになりかかってたほど。

 「旦那様、玄斎様がお越しですっ。」
 「ああ、お通ししてくれっ。それとお湯はまだかいっ。」
 「はいっ、今すぐにっ。」

夏の間の趣向の一つとして船遊びも用意する店ではあるし、
いっそ雪でも降るのなら、
炬燵を入れての雪見舟なんてな風流もあろうが。
この虹雅渓はそこまで行き届いちゃいない、
町の排熱のお陰様、冬でも蛍が飛び交うほどに暖かいので、
秋を過ぎれば、店の裏手の掘割へと突き出した桟橋は単なる搬入口と化すのだが。
今朝のまだまだ未明に程近い頃合いに、
そこから上がって来た気配があって。
まだまだ侍の勘は鈍っちゃあいない、
日頃は人懐っこい笑顔を売りにしている伊達男な若主人が、
そりゃあ鋭くも目を覚まし、
床の間へと立て掛けていた朱柄の槍を片手に飛び出せば。
始まりかけてた黎明の青の中、亡霊のように陰っての黒々と、
その存在ごと影みたいな様相と化していた人影が。
その身の重さも厚さも当人の倍近い体格の連れ合いを、
わさわさとした砂防服ごととからげるようにして、
斜めがけの半ば背負うようにして肩へと担いで立っており。

 『………きゅ、久蔵殿、ですか?』

荷重に耐えての辛さというより、感情的な切迫からだろう、
それは悲壮なお顔で立ち尽くしていたのは、
七郎次もよく知る双刀使いの君であり。
肩を貸して引きずるのでは埒が明かぬほど、
勘兵衛の側が完全な人事不省状態なのと、
且つ、一刻を争うと感じての切迫から、
そこまでの担ぎ方をしている久蔵なのだと気づいた七郎次。

 『…。』

まさかまさかと喉が締め上げられたほどのいやな予感を振り切って、
そっと近づいての恐る恐るに手を延べる。
よほどに急ぐことだけ優先させたか、
相変わらずの蓬髪が覆いかぶさり、どこが額でどこが頬やらというのを掻き退けて。
そろと触れてみた御主の頬は、
何とか“生”の暖かさをまとっていたので まずはほっとし、

 『一旦降ろせますか?
  ああ仙太さん、よく来てくれた、手を貸してくださいな。
  百彩庵へ…ええ、いつもの離れへ運びますので。』

一体何があってとかいう事情とやらは、後でおいおい聞けばいい。
それよりも、今の今 大急ぎで取り掛からねばならぬことへの的確な対処をと、
人影やら声やらに気づいて出て来たらしき、夜当番の店の者へと手勢を頼み、
あの双刀を抱えさせての背負っていた壮年殿を、細い肩から降ろしてやると。
やはり出て来た妻女へはお医者へ知らせてくれと指示を出しつつ、
重篤らしき勘兵衛を店へと運び上げ、

 『久蔵殿。』

安堵の余り、放心状態にでも陥ったものか。
桟橋の手前で立ち尽くしたままな若いのへ、あらためての声を掛ければ、

 『…っ。』

紅の外套の長い裳裾を気遣いもせずの、何とも無造作に。
そのままそこへ、膝から頽れ落ちた彼だったのが、
あまりにあまりに印象的で。
受け止め損ねた痩躯を慌てて抱きすくめてやると、
触れているだけでこちらも怖くなるほどの震えに襲われているのが判った。

 “ああ、この子はまだ…。”

安堵なんかしちゃあいない。
怖くて怖くてしょうがないのだ。
自分への圧倒的な殺意には、
むしろ気分を高揚させての笑いかえせるほどの子が、
意識を失っていた勘兵衛へは ここまで怯えてしまう。
日頃の彼を知っているからこそ、
これがどれほど大きな差異かを思えば、
驚きを禁じ得ないというところでもあったけれど、

 『大丈夫ですよ。
  勘兵衛様がどれだけ丈夫な方かは、久蔵殿だって重々御存知でしょう?』

ましてや、と。
夜気を吸ってか随分と冷たくなっていた綿毛を撫でてやりつつ、
懐ろの中へと掻い込んだ痩躯へ温みを分けてやりながら、
七郎次が付け足したのは、

 『あんな難しいお顔をなさってらしたからには、
  まだまだ死ねぬという心残りを抱えておいでだ。
  妙な言いようだが、だから大丈夫。意地でも戻っておいでですよ。』

長の大戦を共に過ごした“古女房”の彼の言だからこそ、
久蔵へもこれ以上はないほど説得力のあった言い回しだったらしく。

 『…。』

ようやくのようにその身の震えを静めたものの。
今度はそれと入れ替わり、どっと疲労が襲ったらしくて。
七郎次の二の腕へ、手の甲に筋が立つほどの懸命さで縋りついて、
その身を支えた、うら若き剣豪殿だった。




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  *そんな大層な噺じゃあないのですが、
   ちょっと尺が長くなりそうなので分けますね。


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