夢 鏡 仁義無き戦い


       


 とあるビルの二階、某政治家の事務所で銀龍は口にくわえたペンライトの明かりを頼りに数枚の書類とCD-ROMを金庫から抜き取った。

 『玄人も裸足で逃げ出すようなお手並みですね』

 耳に着けたイヤホンから苦笑する平八の声が聞こえ、銀龍は監視カメラを睨む。現在、このビルの警備システムは平八に掌握されていた。

 『銀龍殿、残念なお知らせが二つほどあるのですが』
 「当ててやろうか? 一つ目は本人確保に失敗。二つ目はこのビルの外に“鬼神の手下”がうようよいる」
  『ご名答』

 本来ならば明日決行される予定だった“本人確保 及び証拠品押収作戦”は、急遽今日に繰り上げられた。何故かは解らないが六花会の会長は相手方のシマダ総帥様の逆鱗に触れてしまったらしい。武闘派と聞いていたが、事務所を一つ消すという、予想以上に手酷い“ご挨拶”をしてくれた。 しかも、そこは様々な意味で組の要となる場所であり、相手が相当頭の切れる人物だと窺わせた。

 「屋外に出る」



      ***


 裏口から出た瞬間、冷たい風が銀龍のロングコートの裾を翻させる。 ビルの谷間を音もなく走り出した彼女の背後にはぴたりと幾つもの気配が張り付いた。 地の利はこちらにある。追手を巧妙に撒きながら、銀龍は逃げ切る策を頭の中で組み立てていく。 しかし、銀龍はある違和感に気づいた。


    容易すぎる…。


 これだけぴたりと着いて来ることが出来るなら、普通はこんなにも容易く撒かれることはない。


    撒かれているのはこちらのほうか…。


 考えてみればこの先は幾つか袋小路になる道がある。銀龍は舌打ちして一つの袋小路に飛び込んだ。今現在の追手だけでも畳んでしまおうと考えたからだ。 飛び込んだ暗い袋小路には、およそ似つかわしくない美丈夫が彼女を待っていた。 そして、美丈夫を守るように立つ妖艶な美貌の少年はおそらく護衛か何かだろう。

 「お姉はん、その懐のもん渡してくれへんかな」
 「鬼神の手下か。生憎だが、それはできぬな」

 すかさず繰り出された護衛の少年が操る錐の様な暗器が銀龍を襲う。しかし、確かに腕は良いが人を傷付ける事に慣れておらず躊躇いが見えるそれは、かつて戦場に生きた銀龍には児戯に等しい。銀龍は故意に暗器を左腕に貫通させ、瞬間的に力を込める。 高い音を立てて折れた暗器を腕から引き抜けば、それは彼女の武器に姿を変えた。 驚きに目を見張った少年に思い切り当て身を食らわせてから関西訛りの美丈夫に矛先を向ける。

 「見逃してくれないかな。格好良いオニイサン」
 「無理やな」

   (速っ――!)

 特殊警棒を武器にした美丈夫は先程の少年の比ではなかった。攻撃は的確に急所を狙い容赦が無い。

 「――がっ、は…」

 ふわり、と舞うように銀龍の背後を取った美丈夫は、彼女をビルの壁へ叩き付けた。腹部を壁で強打し、息が詰まる。

 「お姉はん、肋骨折れてもうたんやない?」

 さすがに女性に対してやり過ぎたと思ったのか、微かに自分の腕を拘束する力が緩んだのを銀龍は見逃さなかった。足払いを仕掛け美丈夫が後ろへと飛びすさると、すかさず右腕に銀龍の左腕が絡み付き、骨を折ろうと体重をかける。がくり、と嫌な音がして、美丈夫の骨が折れる代わりに肩が外れた事を銀龍に伝える。

 「おあいこだよ。関西弁のお兄さん」

 左腕の傷口を押さえた銀龍は、まるでビルの谷間の闇に飲み込まれるように消えていった。






   ◇ ◇ ◇



 透明なグラスに注がれた琥珀色の液体が昂った気持ちを落ち着かせてくれる。洒落たバーに和服で来るのもどうかと思ったが、これが自分の仕事着なので仕方無い。不意に、涼やかなドアベルの音と扉の開く音、そして革靴の底が立てる固い足音が静かな店内に大きく響いた。

 「六葩殿か?」
 「いかにも」

 暗い照明の所為で細部までは見えないが、ずいぶん仕立ての良いスーツとコートに身を包んだ壮年の男だ。

 「初めてお目にかかる。島田総帥殿」

 カウンター越しのマスターに、自分が飲んでいたものと同じ酒を頼み、隣の席を勧めた。

 「先ずは仕事の話を」

 ばさりと音を立ててテーブルに置かれた封筒を、総帥は無感動な目で見下ろした。中身はお互い解りきっている。

 「そちらが目串を差していた案件への証拠書類と…貴殿方に関する調査結果書だ。儂はこれを貴殿にお渡ししたいと思う。ただ、条件を一つだけ提示したい」
 「条件とは?」

 六葩と呼ばれた青年は黙って煙草に火を点けた。ぱちん、とライターを閉じる音がして紫煙が虚空を舞う。

 「我が六花会に何の類も及ぶ事無きよう、取り計らって頂きたい」
 「……承知した」

 意外と何の駆け引きもなく相手が承諾したことに内心面食らいながら、勘兵衛は喉の奥で笑った。不意に沈黙が落ちる。勘兵衛は店内のBGMのクラシックに意識を乗せ静かに瞑目した。

 「総帥殿、貴殿の奥方は美しい方だな」
 「お褒めに預り光栄だ。貴殿にも美しい女傑が付いているように見えるが?」
 あれは、左腕よ…。右腕では無いさね。
 「右腕は、とうの昔に無くしてしまった」
 そう、貴殿の奥方の様な白磁の肌と金糸の髪が美しかった…。

   「七郎次、と申す男でな」

 驚きに瞠目した総帥に、意地の悪い笑みを向ける。

 「儂は先に失礼する。総帥殿…有事の際に必要とあればいくらでも手を貸そう、連絡を下され。それと、奥方を大事にな」

 総帥の様子を見て、自分が平八に“奥方”の身辺を探らせた事が彼の逆鱗に触れたと気付いた勘兵衛は、最後に釘を刺した。


   約束を違えれば、奥方を危険に晒すぞ、と。


 「そちらもあの銀髪の女性を大切にされよ」

 背後から投げ掛けられた言葉に片手を挙げる事で応え、勘兵衛は静かに出口のドアに手をかけた。




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