いのちの大地を踏みしめて

 高さんの息子さんが亡くなって、今年がもう二十七年目になります。今から二十年ほど前に、一人の中学生の女の子が訪ねてきたそうです。「もう死にたいんだ」という訴えを抱えて来られた。その中学生の女の子と交わされた言葉が書かれている文章です。この文章、少し長いのですが、皆さんに聞いていただきたいと思い、今日持って来ました。読ませていただきたいと思います。

もう二十年ほども前のことです。私はある中学生と「死」という重い課題を話し合ったものです。その子はたぶん二年生ではなかつたかと思います。まだ幼さの残る顔立ちでした。しかし、その幼さの残る顔には、すでに深い不安が浮き出ていました。そして、「死にたい」と言うのです。もちろん、死にたくないから、死にたいと言うのでありましょう。私は不安に凍りついているその中学生の緊張を和らげようとして、わざと微笑みながら言いました。

 「死にたいとは、きみのどこが言っているの?」

 彼女はいぶかしげに私を見つめました。「どこが?」という問いに戸惑ったのです。そこで私は、右指をもって頭を指して問いを重ねました。

 「死にたい、と言っているのはここなの?」

 中学生は、やっと私の問いの意味を理解したらしく、かすかに首を領かせました。当たり前でしょうというわけです。そこで私は、仏となった子に教えられたいのちの真実を、語り聞かせたのでした。

 「頭が死にたいという悩みから、実際に死ぬことになったら、頭だけが死ぬだろうか。頭が死ぬときは、手も足も死にます。それこそ死であり、悲しみです。そうであれば、死ぬかどうかは、手にも相談していいはずです。いや、手だけでは足りない。足にも相談してほしい。とりわけ足の裏には、念入りに尋ねていいのです。」

 中学生は、いよいよ怪訝な顔になりました。何を言われているのか、分からないという表情になるわけです。私はしかし、言葉を続けました。

 「人間は、頭のことはいつも気にしていますが、足の裏にはめつたに目を向けないものです。もし、向けるときがあるとするなら、水虫ができたときくらいのものでしょう。しかし、きみの全身の重みを一番下で支えているのは、どこでしょう。足の裏です。その足の裏の許可なくして、はたして死んでいいだろうか。死ぬということは、一生に一度のことです。そうであれば、一度くちいは足の裏と真剣に話し合ってもいいのではないだろうか。足をきれいに洗って、よく拭いて、へのへのもへのを書いて見つめ合い、ひとつ聞いてみて欲しい。私は今死にたいの、死んでいいかどうか、と。もし、足の裏が、死んでもいいと言うのなら、おじさんは、もう何も言いません。しかし、返事がなかったら、返事が聞こえてくるまで歩き続けて欲しい。それこそが、ほんとうの人生です。歩くことです。頭を働かせることだけが人生ではありません。それどころか、それが人生であると錯覚するなら、その人の人生は、大地の上を頭で逆立ちしていることと変わりないことになります。それが生きているということでしょうか。どんなに頭のいい人でも、歩くときは足の裏で大地を踏んでゆくものです。しかも、足の裏こそは、人間の中で一番大地に密着しているところでしょう。その足の真の声に気づくことこそが、人生の根本です。帰って、まず足の裏と相談すること。足の裏がいいと言うまでは、死んではいけません。そして、歩き続けると、きっと足の裏が、返事をしてくれる時が来ます。」

 中学生は、そのとき怪訝な顔つきのまま帰っていきました。しかし、それから半年ほどしてからです。一通の封書が送られてきました。開くと、便箋いっぱいに風船が書いてありました。何だろうと思っていると、我が妻が言ったものです。「その手紙、あなたが、いつか足の裏の話をした子じゃないかしら」と。言われて気づきました。風船のように見えたのは、足の指だつたのでした。そして、風船をつないでいたと見えた糸は、足の輪郭だったわけです。いつかの中学生は、便箋いっぱいに足の裏を描いて、その中にへのへのもへのを書く代わりに、次の言葉を書いていたわけです。

 「あれからずっと足の裏のことを考えました。なんだか、少し分かるような気がしてきています。歩き続けることにしました。ありがとうございます。」

 ほんとうにありがたい言葉でした。それこそ私が、仏となつた子に教えられた根本だつたのです。実際、子が黙って世を去る前まで、私の中には足の裏を大切に思う意識は全くなかつたと言っていいのです。あったのはいつも、頭の知恵でした。理性が、私の意識の中にあつた人生の根本原理だったわけです。子が中学生になつたとき、私はその理性の立場に立って、祝いの言葉として何を言ったか。それが今でも忘れられません。私は言ったのでした。「中学生になつたね、おめでとう。今日から、自分のことは自分で責任を取ること。他人に迷惑をかけないこと」、と。しかし、その言葉こそは、いのちを見失っていた言葉だったわけです。なるほど、人間は、自分ということができ、またその知恵で生きてゆく生き物であるといえます。しかし、その自分の根っこには、いのちの大地があるのです。人間もまた、大きないのちの大地から生まれてきたのです。人間の頭の知恵は、その後に育ってきたものでありましょう。ところが人間とは、自分と言える頃から、その前後関係を逆転させて、自分中心になるわけです。何もかも、自分中心に見ようとする。自分の責任と自由ということも、完全に自分中心です。しかし、頭の知恵が中心となるなら、自らいのちの大地を見失い、ついには自分中心にいのちを私物化することにもなりましょう。この逆転こそは、人間の大きな落とし穴なのです。

  まだ後が続くんですが、こういう文章に出会わせていただきました。高さんがおっしゃっている、「頭が自分じゃない」ということ。私どもは、自分ということを、自分の思い、自分の考え、自分の感じであると考えています。ですから、自分の人生を大事にする、自分を大事に生きるということを、ともすれば、自分の思いを大事に生きるということに結びつけてしまいがちです。

 出典:九州大谷短期大学「人身受け難し」第四集 2003年度 11月(二年生)御命日勤行講話 名誉教授 宮城 から引用

 

尊いのは足の裏である

1

尊いのは

頭でなく

手でなく

足の裏である

一生人に知られず

一生きたない処と接し

黙々として

その努めを果してゆく

足の裏が教えるもの

真民よ

足の裏的な仕事をし

足の裏的な人間になれ

2

眼から光が出る

まだまだだめ

額から光が出る

まだまだいかん

足の裏から

光が出る

そのような方こそ

本当に偉い人である

        (坂村真民『真民詩集』)

 

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