死とは何か − 観念と現場 −
ここで一つの例を挙げますと、一九九七(平成九)年に全国を震撼させた、神戸の十四歳の酒鬼薔薇聖斗というA少年の事件がありました。そのときの供述調書が、『文藝春秋』(文藝春秋社)の一九九八(平成十)年三月号に掲載されました。この調書では、「君は、なぜ人を殺そうなどと思ったのですか」という調査官の質問に対して、A少年はこう答えています。
「僕は家族のことなんか何とも思っていなかったんですが、おばあちゃんだけは大事な人だったんです。そのおばあちゃんが僕が小学校のときに死んでしまったんです。僕からおばあちゃんを奪いとったのは死というものです。だから僕は、死とは何かと思うようになったのです。だから僕は、死とは何かとどうしても知りたくなり、最初はカエルやナメクジを殺していたのですが、その後は猫を殺していたのです。猫を何匹殺しても死とは何かがわからないので、やはり人間を殺してみなければわからないと思うようになっていったのです」と彼は答えています。
この供述調書が真実であるならば、大人社会が死を隠蔽してきた、この社会のツケではなかろうかと私は思ったりするのです。
もう一つ例を挙げます。これは皆さんご存知だと思いますが、九州の福岡に正行寺というお寺があります。出光興産の会長で、経団連(経済団体連合会)副会長をしていた石田正賓氏が亡くなられたとき、石田氏は築地本願寺(東京都中央区)のお役をされていたという縁もあって、築地本願寺で出光興産の会社葬がありました。それで、石田氏のご長男である正行寺の竹原住職がお見えになっておられました。その葬儀に資生堂のアドクリエイト部部長・総合プロデューサーで、有名な資生堂の広告、君の瞳は一万ボルト″のキャッチコピーを手がけた波多江研祐さん(『アンジャリ』第五号に「二十一世紀的であるということ」を執筆いただいている)という方がいるのですが、その方は、竹原住職と慶応義塾大学の同級生でして、たまたまお二人が会われたとき、波多江さんが竹原さんに「この本、面白いですよ」と言って手渡したのが 『納棺夫日記』だったのです。
それで竹原住職がこの本を読んで、「青木さん、一度、九州に来てくれないか」と言われて、私は行ったのです。
そして竹原住職にお会いしたときに、「実は、父は亡くなるときに、親族十七人を、一週間前から自分の側に呼んで、孫なんかは学校まで休ませて、そして自分の死に様を見せて死んでいったのです。そのときに立ち会った者たちが書いた作文集があります。帰りの飛行機で読んでください」と差し出されたのが、『ごおん』という本です。このなかに、いみじくも十四歳の少年の作文があるのです。A少年と同じ十四歳。こんな作文です。
『僕はおじいちゃんからいろんなことを教えてもらいました。特に大切なことを教えてもらったのは、おじいちゃんが亡くなる前の三日間でした。いままでテレビなどで人が死ぬと周りの人がとてもつらそうに泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうと思っていました。しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしている側にいて、僕はとても寂しく悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。そのときおじいちゃんは、僕に本当の人のいのちの尊さを教えてくださったのだと思います。それに、最後にどうしても忘れられないことがあります。それはおじいちゃんの顔です。それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。とてもおおらかな笑顔でした。いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。おじいちゃん、ありがとうございました。』
(『ごおん』石田正賓翁 追悼特別号)
私は、神戸の十四歳のA少年と、この十四歳の石田少年の二人の違いというのは、死を観念で考えた少年と死の現場を見た少年との違いだと思うのです。
以前、公立の小学校五年、六年、中学校一年生についてだったと思いますが、東京都が調べたデータによりますと、「あなたは葬儀に行ったことがありますか」という問いに、六五%か七〇%が「行っている」と答えています。そして、「おじいちゃんやおばあちゃんの死の臨終の場にいたことがありますか」という質問では、「ある」と答えた子どもが五%です。九五%の子どもたちが、肉親の臨終の現場を見ていないのです。
神戸のA少年も、ちょうどおばあちゃんが亡くなるころというのは、お父さんもお母さんも、家のローンを払うために朝から晩まで働いていて、たまに顔を見たら「勉強してるか」くらいの調子で、おばあちゃんに育てられていたんです。その大好きなおばあちゃんが死んでしまった。ところが、そのおばあちゃんの死の現場には行っていないのです。お父さんやお母さんは行っていますが、「あなたは来んでもいい。塾に行ってなさい」くらいの感じなのでしょぅ。それは、ほとんどの子どもたちにも言えることでしょう。ここ東京は、私の住んでいる富山より核家族化も進んでいて、おじいさんやおばあさんと離れて生活している割合も確かに多いと思います。また、学校のことや、いろいろな問題もあるのでしょうが、昔を思い出すと、私の村などでは、誰かが死にそうだと聞けば、もう二、三十人は近くにいたものです。
(略)
さきほどお話しました石田少年の話ですが、おじいさんが亡くなったときに、高校一年の兄の書いた感想文があります。そこには、こう書いてあります。
『おじいちゃんが亡くなる朝、おじいちゃんがおばあちゃんに、「この後、どうなるものかね」 と言った。するとおばあちゃんが、「ごいっしょに参りましょうね」と言った。おじいちゃんは「ありがとう、ありがとう」と言いながら、「南無阿弥陀仏」と言って死んでしまった。そのときの光景は、いまもしっかり脳裏に焼きついています。あの光景は、とても言葉では言い表せるものではありません。これからは、おじいちゃんに毎朝お念仏を称えさせていただきます。それは、僕がいまできる唯一のことだからです。おじいちゃん、いままでどうもありがとうございました。』
(『ごおん』石田正賓翁、追悼特別号)
私は思うのですけれども、十四歳の石田少年もそうですけど、おじいちゃんは一言もしゃべっていないのです。「仏壇に参れ」とか「ありがとうと言え」とか「いのちの大切さを感謝しろ」とか、ああしろこうしろとは一言も言っていないのです。けれども、おじいちゃんはそれをきちんと伝えていたのです。そう思うと、いまの葬儀は本当に大切なことを伝えていない人たちの集まりだ、と言ってもいいのではないでしょうか。葬儀の現場で、もしこういうことが伝わっていたら、「おじいちゃん、ありがとう。毎日、お念仏を称えさせていただきます」となるのではないでしょうか。「僕がいまできる唯一のことだからです」と言うこの少年は、葬儀でも「おじいちゃん、ありがとう」と言いながら手を合わせているんです。いまの葬儀でもそういう方が何人かはおられますが、大半は違うように感じますね。
現代と親鸞 第8号 親鸞仏教センターp.117-119、131-132 青木新門 2005.06.01発行 引用