アポトーシス/アポビオーシスと死を見つめる意味

田沼靖−(東京理科大学薬学部教授)

 人はいずれは死ぬことを知っています。その死はどのように決まるのでしょうか。私たちの身体は細胞と個体という二重の生命構造をとっています。その一つひとつの細胞に死が遺伝子として宿っていることが、最近の生命科学の研究で解き明かされました。細胞はその性質から大きく二つに分けることができます。一つは皮膚の細胞、血液の細胞、肝臓の細胞のように新陳代謝により新しい細胞に置き換わることのできる再生系細胞です。もう一つは、脳の神経細胞や心臓の心筋細胞のように、生まれてから何十年もの間その高度な機能を果たしつづける非再生系細胞です。

 再生系の細胞は自分の役割を果たして老化してくると、自ら身を引くようにして自死してゆきます。この死に方を「アポトーシス」といいます。細胞がアポトーシスで死ぬと、その元になる幹細胞が分裂増殖し、新しい細胞を補給します。しかし、再生可能な細胞といっても無限に生と死をくり返せるわけではありません。いわば“回数券’’を消費してゆくようにその回数に限界があります。これを「分裂寿命」と呼んでいます。身体のなかで老化した細胞、あるいはウイルス感染や有害物質の作用を受けて異常をきたした細胞が、アポトーシスにより自ら死んでいます。この死によって生命は維持されているのです。

 一方、非再生系の細胞も永遠に生きることばできず、ある時期がくると自死します。この死に方を「アポビオーシス」といいます。非再生系の細胞には幹細胞がほとんどないため、時間とともにその数は減少してゆきます。いわば“定期券”のような寿命です。この死の進行は個体の死に直接関わってくるため、アポトーシスとは死の意味合いが異なります。アポビオーシスがプログラムされていることによって生物個体が地球規模で入れ換わることができるようになっているのです。

 このように次元の異なるアポトーシスとアポビオーシスによる細胞死は、それぞれ細胞と個体レベルで「生命を更新する」ためにあると考えられます。つまり、個体の循環のなかで意味をもつものがアポトーシスであり、宇宙の大循環のなかで意味をもつのがアポビオーシスに よる死であるといえるでしょう。この「死」は、子孫を残す手段としての「性」とともに生物に現れるようになりました。

 「性/死」のシステムで最も重要なことは、同じ遺伝子の組み合せをもった個体は二度と生まれてこないということです。一人ひとりが唯一無二のかけがえのない存在なのです。そして、そこに必然の死があることによってはじめてアイデンティティーが生まれるのです。もし死がなかったならばどうでしょうか。時間とともに環境だけではなくアイデンティティーも変化してゆきます。その変化に今の人間の“脳力”ではついていけないでしよう。死なしでは生それ自身が空虚な存在になってしまうはずです。死があることによって「自分とは何か」を追求し、アイデンティティーを認識することができるのではないでしょう机そして、死によって一つのアイデンティティーが完結するのです。それがまた新しいアイデンティティーを生む原動力ともなっています。

 この宇宙には死が階層性をもって存在しています。遺伝子から細胞、細胞から個体、個体から社会、そして地球、銀河系へとその運動するものすべての根底に死があります。この宇宙で失われるものは何一つないのです。常に「性/死」によって“変成”がくり返されているだけなのです。現存する生物は遺伝子の組み合せを変えていますが、過去の記憶はそのなかに刻み込まれています。有性生殖する生物はすべて回帰し得ない環をえがきながら「性/死」によって変成しているのです。このダイナミックな動きそのものを“生命の摂理”といっていいでしょう。

 何か別のものに置き換えるわけにはゆかない有限の生命を全うし、次の世代によりよい新しい可能性を残すことが、一人の人間を、人類、そして地球生命の無限へとつなげるのだと思います。それが夢幻にならないためにも、死のある意味を自然のなかで捉え、「全」のなかで「個」としてアイデンティティーを確立しようとすることが大切でしょう。それはとりもなおさず「有限の生命をいかに生きるか」という人間の根源的な命題を解決する原点がそこにあるからです。

「人形劇 死と再生・生きものたちの物語 200338日(土)午後6時開演  会場 JT生命誌研究館」のパンフレットから引用

to Index