植物の生と死と生命系

岩槻 邦男(東京大学名誉教授・植物学)

 「死」は暗いイメージを伴う語である。やがてやってくる多細胞体の個体である「自分の死」への恐怖と並んで、身内、知人などの死を認識するからに違いない。しかし、生き物が死ぬとはどういうことだろう。生きものは死なないのだといういい方が成立するかどうか検証してみよう?

 生きものは、原始、世代の更新は行なったが、死骸を残す死は演出しなかった。単細胞体は二つに分かれて子の世代に移行するが、親の世代の物質はすべて子の世代に引き継がれるのである。生き物は元来死なないものなのである。クローン生物が話題になるようになって、個体を構成する細胞が個々に生きている事実が理解されるようになった。細胞の生で、自分が生きていることを認知するのである。樹木などでは、茎や根の先端では常に若々しい生命をつくり出し、個体には有限の寿命がなく、いつまでも生き続ける。

 それだけではない、個体が完結した生を演じているのでないことを考えれば、地球上に生きている生物はすべてが一体となって、生命系と呼ぶべき「単一の」生を生きていることが理解される。現在生きている多様な生き物たちは、もとは単一の型に始まるものである(ちょうど、60兆をこえる数の細胞の集合体であるヒ卜の身体も、もとはたった一つの受精卵だったように)。そのような目で見れば、生命系の生もまた有限の寿命に支配されることはない。自分の個体は

 永遠に生きる生命系の要素の一つなのである。ちょうど自分のからだから垢として捨て去る細胞が直前までは自分自身を構成する要素の一つだったように。

 原始、生物は自分が生きていることを意識しなかった。意識のうちの「死」はごく最近までなかったのである。生物学的特性として、生の確保のためにさまざまな生命現象を演出はするものの、植物たちが「死」を暗いイメージで受け止めているとは思われない。ヒトという動物種は、他の生物種と違った知的活動という固有の進化を行なった。そして、文化を発展させ、美しいとか、悲しいとかの認識を確立した。「死」が意識されるようになったのも、美しいとか悲しいとかの認識と並行していたことだろう。「死」の認識は必然的に「生」を認識させることだっただろう。「死」は人がそれを意識するようになって存在が認識されてきた。意識してはじめて存在するということは、肉体としての生の他に意識されている生のあることを意味する。体細胞の塊である肉体は死滅するが、意識に残る身内や知人は生き残った人の認識のうちに生きている。ここでもまた、生の認識は語り継がれ、すがたは変えるものの、歴史から消滅することはない。

 「死」を意識することは、より鮮やかに永遠の生を認識させてくれることなのである。

「人形劇 死と再生・生きものたちの物語 200338日(土)午後6時開演  会場 JT生命誌研究館」のパンフレットから引用

 

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