自分のあり方で決まる死の意味 

いのちは、いつ生かし生かされる関係を学ぶか

 くり返すが、「切り身」だけを与えられる還元的生活環境では、自分がだれかのあるいは何かの生命の犠牲によって生かされていることを実感できない。食事の前に合掌し、「いただきます」と感謝する意義さえ忘れられてくるのも当然である。人が生の全体性や関係の自己に気づくには、飢えているときに食を恵まれるとか、生きる気力を失いかけているときに助けられるとか、実際生死の岐路に立つ経験が必要なのかもしれない。とすれば現実にそれほどのような機会であるのか。

 ネパールは世界の最貧国の一つであり、医師一人にたいする人口は一万数千人と医療 (ただし西洋式の) 過疎の国でもある。病人は何日もかけて医師を訪ねてくる。川原啓美医師(現愛知国際病院院長)が外科医としてそこで働いていたとき、下肢にがんができた女性を診て病肢の切断を勧めた。しかし彼女は延命治療を断ったそうである。すなわち彼女は宜しくて夫と共働きしても子供たちに十分食べさせることができない。たとえ足を切ってもらって助かっても自分はもう働けないし、家族の厄介になるばかりだろう。しかし彼女が死んだら夫は若い妻をもらうだろうし、子どもたちは新しい母を得、新しい兄弟もできるだろう。だから切断治療を受けないというのであった。

 彼女の子らは、母親の治療拒否によって一家共倒れの危機が回避されることを、たとえ知的なレベルで認識しないとしても、自分たちが母親によって生かされた存在であると実感するだろう。しかし彼女もまた子どもたちが生きることにより自己の生の意味を確かめたのではなかろうか。生かす、生かされるという連関のいずれの側にいてもそこで実存的納得がなされればその因縁に感謝できよう。その納得がなければ、生の意味を実感することば、どの状況においても不可能である。

 医療もまた生死の岐路を彷復する人間像を見る場である。飢えに由来する死の少なくなった豊かな地域では生死の連関を観察できる場でもある。

 乳がん手術後、はじめてシャワーを浴びる。鏡のなかの片乳を失った自分を見て一瞬顔から血がひくようなショックを受ける。知らぬまに夫が入ってきて優しく肩を抱き、肋骨のうきでた傷をなぜ、残された乳房にそっとキスしてくれた。そのとき自分はこの人に生かされているのを悟ったと述懐したナースがいた。少なくともその瞬間、彼女は夫婦という同志関係にも似たネットワークにするりと戻りえたのである。

  がんがすでに子宮周辺まで浸潤しているさいは、子宮はおろか直腸、勝胱などの骨盤内臓器をすべて摘出し、人工肛門を設置するような思いきった措置を行なう。頭頚部や舌のがんでも変形がいちじるしい手術がなされる。このような苦しい治療を受け、健康という価値軸が消滅してしまった人々は、この段階にいたって家族や友人といった周囲の親しい他者との関係性にめざめるとの観察報告は多い。

  生かされるという意味でもっともきわどい事例は「遷延性意識障害」すなわち「植物人間」について観察されている。説明するまでもなく植物人間では呼吸など生存の基本を司る脳幹機能は維持されているが、判断、思考など高次大脳皮質機能の働きは認められない。いわば「生きている」が「目覚めて」はいない。目覚めているならば周囲からの簡単な指示にこたえるはずである。たとえば交通外傷で意識レベルが低下しているようで口のきけない青年がいたとする。その母が、「○○ちゃん、お母さんだということがわかったら私のほうを見てちょうだい」と叫んだとき、視線を母に向けるならば彼は目覚めているのであり植物状態ではない。

  さてわが国では尊厳死協会への入会者が急増しているが(私もその一人である)、その意向の一つは植物状態になったとき無益な延命措置を続けないでくれというものである。もとより同様の願いは欧米でもある。裁判所に患者家族が栄養補給の停止を求める例も多いことは私たちの知るところである。

  問題は「植物人間」と確実に診断するのは相当難しいことであって、目覚めているのに誤って植物状態にされた例はいくつも報告されている。とくに誤診の頻度という点で注目すべきは本年七月ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに載せられた神経障害患者を入院させるための英国王立病院からの報告である。同病院には全土から植物人間とされる患者が回されてくるが、その診断がつけられた四十名中十七名 42.5% )は、じつは目覚めていたというものだった。しかもそれが最初に気づかれたのはほとんどが作業療法士によるものであり、(略)

 いのちにいだかれて」 大井玄 p.136

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