FERRARI〜情熱と官能のROSSO(赤)〜

【FERRARI F310B】 1998,11/01,マールボロ特設ブース (鈴鹿サーキット) 撮影:あおいしんご


一過性のブームに終わった我が国と違い、欧州諸国におけるフォーミュラワン・グランプリは
歴史と格式あるスポーツ行事である。
だが、その善き伝統も、終焉の刻を迎えようとしているのかもしれない…。


フランスパンに四ツ輪を付けたような初期のものから、空気の流れを見方にすることを憶え
徐々に楔型に姿を変えていったF1マシン。ナショナルカラー(注1)はスポンサードカラーに
変色し、祖国と自らの名誉がすべてだったドライバーの気質も、契約書と契約書のあいだを
渡り歩くビジネスライクなものに変貌していったのが、70〜80年代の出来事である。


  「より早く走りたいという気持ちが、
          自分の自制心を上回ってしまうんです。」
                                             (ジル・ヴィルヌーブ 1978)
唯一の例外こそがFERRARIであった。申し訳程度のスポンサーロゴ(注2)の他は真っ赤に
染め上げ、頑なに自らのアイデンティティーを主張し続けていた。シャシー、エンジン、人材、
すべてを自前で揃えられたが故の賜物であったが、多国籍化と企業の論理が
スポーツマンシップを浸食してゆくレース界に於いて、その存在自体が
一服の清涼剤だったのだ。

日本中がホンダとアイルトン・セナの応援団だったブームの最中、私がFERRARIに
惹かれたのは、この確固たる矜持こそがレースの本質と信じていたからに他ならない。

 
愛煙家なら誰でも知っている通り、タバコの箱に印刷されたマールボロの赤と、かつての
マクラーレンを塗り分けた“マールボロ・レッド”は少しも似ていない。
あの橙色とも朱色ともつかない不思議な色(注3)は、“FERRARIの赤を暗く見せるため”
逆算して作ったものだと、マールボロ自身も認めていた。
姑息な話ではあるが、FERRARIの存在感に対抗するには
そこまでする必要があったのだ。

そう、ブラッド・レッドのFERRARIは美しい。プラモデルやメタルキットを作るときでも
とりわけFERRARIの塗装には気を遣ったものだ。モンザレッド、イタリアンレッド(注4)、
メーカーがそれ用に調色した塗料をただ吹き付けただけでは、絶対にあの色は
再現できない。試行錯誤を繰り返し、下地の発色にまで細心の注意を払い、
小さなデカール類の上から恐る恐るクリアコートを施して、ようやく
自分なりのFERRARIが完成する。

しかし、そんなささやかな自己満足も、年に1度(注5) サーキットで本物のFERRARIを
目の当たりにする度、粉々に砕かれてしまうのが常だった。どんなに拘っても
所詮模型は模型であり、あの躍動感までは再現できないのだ。


  「僕のドライビングスタイルは日本人好みらしい。
       とてもエキサイトして応援してくれるんだ。」
                                          (ジャン・アレジ 1993)
当時、跳ね馬の手綱を握っていたアレジ。少なくとも、FERRARI在籍中は間違いなく
“熱くさせてくれる”男だった。’94年にはナイジェル・マンセルと雨中のバトル、
’95年にはあわや優勝か?と思わせる走りを披露し(注6)、エースナンバー#27を
背負うに相応しい男であることを証明して見せた。
あの情熱と官能を呼び覚ますV12サウンドには、どこか古風なレーサーがよく似合う。
攻めすぎが原因のリタイアもあるにはあったが、完走できない理由の大半は
彼の熱すぎる求愛に、マシンが応えられないが故の悲劇だった…。

90年代半ばまで、FERRARIは実によく壊れた。この事だけは認めねばなるまい。
悔しさのあまり、ステアリングをぶっ叩くマンセル、頭を抱えるアレジ、
「いつもの事さ」とばかりに飄々とコクピットを後にするベルガー。
TVの前で、サーキットの観客席で、そんな光景をなんど眼にした事か…

FERRARIと信頼性は二律背反であり、トップを走ることはあっても、トップで
チェッカーフラッグを受けるには幸運以上の何かが必要だった。(注7)
そして、その“何か”をもたらす男が、カーナンバー#1と共にやって来たのである。


  「’96年は学習の年だと思うけれど、
        ’97年にはチャンピオンを目指すよ。」
                                                 (ミハエル・シューマッハー 1996)
“シューマッハー効果”は、確かにFERRARIを変えた。情熱・奔放・享楽に忠実な
ラテン気質を次々と近代ストラテジーに置き換え、移籍初年度にして何度か勝利さえ
もぎ取って見せたのだ。’96年、鈴鹿サーキットに現れたF310は“FERRARI史上、
もっとも醜いマシン”(注8)と呼んで差し支えない代物だったが、タイトル争いの只中にいる
ウィリアムズの2台を追い落とさんばかりの勢いを見せ、次年度を大いに期待させた。

まさか、この年が“真紅の跳ね馬”を見る最後になるとは思いもよらなかった…

’97シーズン開幕前、FERRARIのプレスリリースをネットで見て、私は仰天した。
ニューマシン、F310Bは全身を“マールボロ・レッド”に塗られていたのだ!
一瞬、自分のパソコンの表示が狂っているのかとさえ思った。
しかし、これは現実だった。


あの燃え立つような伝統の赤を捨て、エースナンバーである筈の#27まで捨て去って
スクーデリア・フェラーリ・マールボロは勝利至上主義の戦闘マシンに生まれ変わった。
チームメイトを手駒として使い、危なげなく勝ち進んでゆくシューマッハーに、私は
なにも感情移入できなかった。FERRARIの勝利を喜べない日が来ようとは夢にも
思わなかったが、在りし日のマクラーレン・ホンダより面白みのないチーム(注9)など、
応援のしようが無いではないか。


忘れないでほしい。F1界におけるマールボロ・レッドは“FERRARIを貶めるために”
作られた色だという事を。変わり身の早いマクラーレンは、既にマールボロの化粧を
脱ぎ捨ててしまった。FERRARIの赤を喪ってなお、マールボロ・レッドは何を貶めようと
いうのだろう?私にはそれが、もはや真の意味でのコンペティションが存在しない、
現在のF1グランプリそのもののような気がしてならない。


ちなみに、F310B以降のスケールキットの塗装には、何も頭を悩ませる必要はない。
メーカーが調色した缶スプレー“ブライト・レッド”を買って来て、ただ吹いてやるだけで
今現在FERRARIの名を冠しているF1マシンの色になる…。

 
                   文中の敬称はすべて省略させていただきました。


(注1) イタリアは言わずと知れた赤。イギリスは緑、フランスは青、ドイツは銀、日本はアイボリーホワイト。

(注2) アジップ、マニュエッティ・マレリ等の“同胞”以外は、リアカウルの隅っこに追いやられるのが常だった。

(注3) モデラー泣かせの色だった。原色に忠実に再現しようとすると赤みがかった蛍光オレンジであり、
      クリアー掛けが出来ない上に、すぐ褪色してしまうのである。

(注4) 前者はグンゼ産業、後者はタミヤの“フェラーリF1指定色”。残念ながらフェラーリのブラッド・レッドを再現する
       には至っていない。一番近かったのはモデラーズが販売していたズバリ “フェラーリ・レッド”であった。

(注5) ’94および’95は、いまは亡きTIサーキット英田で “パシフィック・グランプリ”が開催されたため、1年に2度
      国内でF1観戦を楽しむことが出来た。バブルの残り香が微かに残っていた頃の話である。

(注6) いずれも日本GPでの話。’94は2ヒートの合算タイムでマンセルに勝り3位。’95はジャンプスタートで
      ペナルティーを喰らい、2位まで追い上げるもエンジン・トラブルでリタイア。

(注7) ’94ドイツGP(ベルガー優勝)、’95カナダGP(アレジ優勝)、勝因はどちらもシューマッハー(当時ベネトン)
      のマシントラブルによるもの。

(注8) 文字通り “無理矢理持ち上げた”ハイノーズもさることながら、J・バーナードがレギュレーションに忠実に
      設計したサイドプロテクターとコクピット開口部の造型は、どう見ても和式便器である。

(注9) マクラーレンにせよウィリアムズにせよ、“1強時代”には必ずチームメイト同士の激しい争いがあった。
     ジャック・ヴィルヌーブをフェラーリ入りさせる試みは、絶対的No.1の座を要求するシューマッハーによって
     拒否されたそうである…。



 ※ “もし…○○が☆☆だったら…?”
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