どうして「2KR」と呼ばれているの?
「食糧増産援助」成立の歴史的背景

食糧増産援助は何故「2KR」と呼ばれるでしょうか? 「KR」とは、1964〜67に行われたGATT(関税と貿易に関する一般協定、WTOの前身)の貿易交渉である「ケネディ・ラウンド」の略です。ケネディ・ラウンドで何が決まったのか、それが食糧増産援助とどういう関係があるのか、これらの歴史的背景を探っていくことによって、今につながる食糧増産援助の問題点が見えてきます。

*この項は、『日本人の暮らしのためだったODA』(1999年、コモンズ刊)より、ジャーナリスト石川清氏の「食糧増産援助で売れた工業製品」を参考にさせていただきました。

ケネディ・ラウンド以前の
アメリカ食糧援助政策

ケネディ・ラウンドを説明する前に、それに至るアメリカの食糧援助政策を見てみましょう。

第2次大戦後、アメリカは過剰生産となっていた小麦を、西側諸国や途上国への「食糧援助」として処理していきますが、朝鮮戦争勃発後の冷戦の時代になり、これを安全保障の重要な手段として利用し始めます。

1954年の公法480(通称「余剰生産物処理法」)では、援助を受けられる条件として「共産主義国または地域でないこと」と明記されました。ここで定められた食料援助は、次のような特徴を持っています。

  1. 被援助国は、援助された食糧を現地通貨で購入できる(形式的には無償ではなく有償援助)。
  2. アメリカに支払われた代金は被援助国内に積み立てられ(見返り資金)、一部は軍事物資の買付けや軍事産業の育成に使用することができる。

つまり食糧援助は、「パクス・アメリカーナ」(アメリカの支配のもとでの平和)を維持するための重要な政治的・経済的・軍事的手段となったのです。日本にも1億4360万ドル分の食糧が供与され、このうち約12%にあたる1720万ドルは自衛隊の設立資金などに使われました。自衛隊設立には、アメリカの食糧増産援助によって積み立てられた資金が大きな財源になっていた訳です。

食糧増産援助の「見返り資金」(※)という摩訶不思議な仕組みは、こんなところに原型があったのでしょうか。

アメリカはこの公法408によって、日本の学校給食用としての小麦、脱脂粉乳も援助しています。学校給食を通してパン食を普及させようという食糧戦略だったわけです。

※食糧増産援助では、相手国に無償供与された農薬・化学肥料・大型農機具は農民、商人に売却される。相手国政府は売却によって得た資金から供与額の1/3または2/3相当額を積み立て(見返り資金)、社会開発等のプロジェクトに使うことになっている。

GATTケネディ・ラウンド(1964〜67年)

このような食糧援助政策を、アメリカは1964〜67年のGATT貿易交渉(ケネディ・ラウンド)に持ち込みます。

ケネディ・ラウンドでは始めて農産物が「自由貿易」交渉のテーブルにのせられました。もちろん推進役は小麦輸出国のアメリカですが、ヨーロッパや日本の強硬な反対で、農産物の非関税障壁についてはほとんど撤廃されませんでした。

しかし小麦は別建てで交渉が行われ、小麦貿易の振興を図る小麦貿易規約と、小麦を主供与物資とした食糧援助規約からなる、「国際小麦協定」が成立します。

食糧援助規約はアメリカの主張によって成立したもので、その内容は、途上国向けに約450万トンの現物小麦援助を行い、財政負担を先進各国で分担しようというものでした。アメリカの生産過剰により国際市場でダブついていた小麦を各国が分担して買い取って途上国に援助しましょう、という大変「好都合」な規約です。日本は「米の形態で又は受益国が要請する場合には農業物資の形態で援助を供与する」として、供与穀物を小麦に限定した食糧援助規約の一部条項について保留しました。その代わり、5%の分担率に相当する食糧援助(KR)を別に実施するということで事実上これに参加したのです。

日本は1968年にラオスに対して始めてのKRを実施。1969年から本格化させます が、既にこの時点で食糧(日本米、タイ米)のほか、化学肥料、農機具も供与しています。

しかし、「第二のKR」である2KRが始まるのは、この後約10年を経てからで す。10年も経過して始めたのは何故なのでしょうか?

日本の化学肥料産業と2KRの誕生

日本のODAがアジア諸国に対する戦後賠償から始まったことはよく知られていますが、日本の化学肥料産業の巨大化を支えたのもこの戦後賠償でした。戦後の復興期を経て、1950年頃に日本の化学肥料産業の生産力は国内需要を上回り輸出産業としての性格を強めていきますが、これを支えたのが戦後賠償や円借款による肥料輸出です。

昭和30年代には、日本から輸出するアンモニア系肥料のうち半分以上、昭和40年代半ばでも半分近くが賠償や円借款によるもので占められていました。これらは、国際化学肥料市場での厳しい競争下で日本の業界に大きな恩恵をもたらしました。

しかし、昭和40年代に入ると戦後賠償は減り、円借款による肥料輸出も欧米諸国から「ヒモ付き」との批判が強まります。そして石油危機が発生。原料の石油が高騰し、化学肥料業界は壊滅的な打撃をこうむります。そのような状況を「打開」するため、業界の陳情によって1977年から食糧増産援助(2KR)が発足したのです。翌年の援助による化学肥料の輸出は大幅に伸び、尿素では輸出量の16%(前年は6%、硫安では19%(前年は9%)に達したのです。

工業製品を輸出する「食糧援助」

以上述べてきたように、2KRは「第二のKR」を意味しています。

KRについては、ケネディ・ラウンドの「国際小麦協定」を前身とする「国際穀物協定」が1995年に締結され、この中の「食糧援助規約」に基づいて日本には年間30万トン(小麦換算)の食糧援助が現在も義務付けられています。

2KRは、この協定とは別の日本独自のもので「食糧自給達成に向け努力している開発途上国の増産計画を支援する」(外務省ODA白書)とされています。しましその内実は、食糧輸出国でない日本にとって「食糧援助」のメリットが薄いため、KR実施後10年を経てから「第二のKR」の装いをまとい、業界の圧力を背景に自国の工業製品を輸出できる仕組みとして成立させたものなのです。

(2KRの「読み方」は?)

外務省は「ニケーアール」と呼んでいます。NGO・市民団体では「セカンドケーアール」或いは「ツーケーアール」と呼ぶことが多いようです。相手国政府との文書(英語)においては「2KR」または「KRII」との表記が使われています。


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