彼なりの emergency
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 大仰なタイトルで始まった話なのに恐縮だが、些細なことなのだ、実のところは。少なくとも、生命や心身の危険に関わるような、もしくは、そのまま放っておいたなら取り返しがつかなくなるような緊急事態ではない筈で。だのに…気になってしようがない。

 "………。"

 こういう場合だって、あっても不思議ではないことだのに。………そうだ。なのにこんなに気になって落ち着けないのは、何故だかこれまでずっと、こんなパターンが一度としてなかったせいだ。いや、そうじゃない。"何故だか"じゃない。彼がきちんきちんと気に留め、気を遣い、恐らくは何事よりも最優先にと身構えててくれたから。それで、いつもいつも、不安なぞ覚える間もないままに、安泰な幸せに耽っていられたのだ。本来ならば、そうそう掛かり切りになれることではないのに。彼には彼の生活があって、時には突発的に、急な事情だって割り込むものかもしれないのだし。これまでどれほど大切に想われていたのかの、これは手痛い裏返し。

 "………。"

 ああ、このくらいのことに気を揉む自分だというのも初めてだな。日頃の修養も、どんな土壇場に偶
っても怯まないだけの図太さも冷徹さも、何と役に立たないことか。落ち着きのない何かが苛々と波立っていて。押さえつけようにも…手の届かない胸の奥、腹の底。こんな気分になぞ、とんと縁がなかった自分には、それを宥める術もない。


            ◇


 快晴の空の下、グラウンドには何チーム作れるやらという頭数の部員たちが、それぞれのグループに分かれて、基本のトレーニングにそれぞれで当たっている。春季大会も始まって、シード校である王城ホワイトナイツは今年もまた例年通り2回戦からの登場で。
「ふわーっ、陽気がいいと走るのがキツイなぁ。」
 すぐにも汗が吹き出してくると、額や首条へと当てたタオルを片手に苦笑する桜庭の言いようへ、
「寒けりゃ寒いで、体を温めるのに時間が掛かるんだよねなんて言ってなかったか?」
 同じグループだった高見が苦笑した。ダッシュ&ラン。ジョギングペースのランニングのところどころにて、合図のホイッスルが聞こえたら全速力のダッシュで駆ける。これを繰り返すランニング・トレーニングは、脚力に加えてスタミナ…馬力がつくので他の競技でも取り入れられているそうではあるが、その分、相当にキツイ代物でもある。
「…で。あいつ、周回遅れなのか?」
「そんな筈はないんだが。」
 胸板や肩が上下するほどに息を切らして走り切った他の面々が、速い遅いの差はあれど、それでも全員きっちりゴールしたというのに。どう考えても"遅い"筈はないお顔が、ペースを落とさぬまま、1周 400mトラックの向こう側を黙々と走り続けている。
「ホイッスルにはキチンと反応していたのにな。」
 ところどころでの"ダッシュ"を促す合図の笛。それへはきっちり反応していたのだから、普通で言うところの"上の空"とも違うのだろうに。ざくざくと蹴上げられる足運びも軽快で、なんで余計に走ってて全然疲れてないんだあいつはと、他の部員たちがげんなり呆れもって眺めやるその人は。
「進っっ! 余計な消耗するだけだから、休む時はきっちり休まんかっ!」
 別の班の調子を見ていたのだろう、ショーグンこと庄司監督の大声が遠くから飛び、それに反応してはたと立ち止まった、進清十郎くんだったりする。
「………セット終了に気づいてなかったな、本人。」
「ああ。」
 無心で走り続けていたらしいと。そして、そんなことは彼には珍しくもないことと思うのは下級生たちであり、
「狭間に取る休憩やクールダウンは基本中の基本だ。」
「だな。」
 学齢前の子たちが集うスポーツ教室なんぞでも、まず最初に教えるようなことだ。そんな初歩的なことを知らない彼ではない筈で、
「やはり…訝しいのかな。」
 今日の彼はと、目線で問う高見くんへ、
「午前中は変わりなかったんだけれどもね。」
 今は明らかに"訝しい"と、頷いて見せる桜庭くんだったりするのである。そんな二人の視線の先。うっかりを指摘されて立ち止まったその場所にて、その割には…戸惑ってもなく所在無げでもなく、むしろ威風堂々と次の指示を待っている大男。
「…進っ。次は2年が使うから、こっち戻って来い。」
 他の人物ならいざ知らず、お前にそのままでいられるとトラック丸ごと使えないんだぞと。
おいおい 桜庭が掛けた声へようよう反応し、ゆっくりこちらへ戻ってくるその表情にも態度にも、さしたる変化、異変はない。いつものお馴染みな"無表情"であり、冴えた眼差しにも機敏な足取りにも、やはり変わりはないのだが。

  "ありゃあ、何かに気を取られているな。"

 伊達に付き合いは長くない。殊に、この1年ほどの急激な変化にも…表向きにはお見事なまでに誰にも察知されていないにも関わらず、幸か不幸か
おいおい 一番に通じている桜庭であればこそ、見分けることが出来る"何か"が、彼のオーラをちょいと複雑な代物に塗り替えていて。

  "………瀬那くん絡みか。"

 だとすれば。相変わらずに不器用な彼のこと、実は大したことではないものへと躓(つまづ)いているのかもしれない。小さな恋人くんとそっと手をつなぐ、その力加減さえ知らず、本気で考え込んでいたような男である。
"…う〜んと。"
 初夏の前兆かとも思えるほどに、それはそれはいい日和の陽光の中、無表情な彼の周囲にだけは…近寄り難い空気の層が、どこか冷ややかに取り巻いているようでもあって。
"…まったく。"
 当人同士の問題、究極のプライベートへ無闇矢鱈と介入するのもどうかと思いはするのだが。例えば、急な連絡が必要らしく公衆電話を探して右往左往していているようなら、知らない仲じゃなし、自分の携帯電話を貸してやるのが友情ってもんだろう。いや、これは単なる"例え"で、彼もその"ケータイ"というアイテムは既に持っているのだが。
"それにしたって、セナくんとの連絡を密に取りたかったから、なんだよな。"
 アメフトに通じるもの以外へは一切関心を寄せずに来たしわ寄せを、只今現在、様々な形でその身に受けている幼なじみ。それらの切っ掛けとなったところの…選りにも選って一番"晩生
おくて"な部門に、本当に たまぁにながらこうして振り回されている彼を見るたび、やれやれと呆れつつも、何だか嬉しい擽くすぐったさが込み上げる桜庭くんなのであった。





           ◇


  ………………で。



  「メールの返事が来ない?」

 新学期が始まったばかりで、しかもすぐにもゴールデン・ウィークがやってくる時期とあって、授業はまだ短縮モードでありながら。春の都大会開催中ということで、それはそれは容赦なくハードだった練習がようやく終わったのは、春の遅い宵が少しずつ空全体から光度を奪いつつある時間帯。他の部員たちの目にさえ余るほど分かりやすく、様子が訝
おかしかった進くんを、とりあえず…トレーニングルームへとお誘いし、一体どうしたのかと真っ向から訊いてみた。当初は頑強なまでに黙んまりを決め込んだ彼だったものの、こっちも負けないぞと頑として粘った桜庭との睨めっことなった揚げ句に珍しく根負けし、何を気にしている彼なのかをやっと打ち明けてくれたのだが。
「セナくんからの、か?」
「ああ。」
 あの小さなランニングバックくんの所属する"泥門デビルバッツ"は、王城と違って1回戦からの参戦であり、その試合も明後日の週末にいよいよなものとして近づいている。大会中は逢えないと、何となく取り決めている二人ではあったが、メールのやりとりだけは例外で。頑張るんだぞ?、はい、進さんもお身体いたわって下さいね?なぞと、それはそれは微笑ましいやり取りを日に1通ずつだけ交わし合っていた二人だったものが、
「昨日からぱたりと音信が途絶えたままだ。」
 正確には…昨日の夜に進の側から送ったメールへの返信がなく、返事がないままにこんな時間に至っている。練習を終え、自宅に帰ってからのささやかなメール交換。ただそれだけのものだのに…応答がないというだけで、この、高校最強、いやいや、今から実業団のリーグに投入されても十分レギュラーとして通用するような頼もしい偉丈夫を、こうまで易々と動揺させているだなんて。
「………。」
 返す言葉がない桜庭へ、さすがに自分でも思うところはあるらしく、
「可笑しいなら笑っても良いぞ。」
 進は単調な声音でそんな言いようをしたけれど。
「いや、笑うどころか。」
 呆れるとか何とかを通り越して、感動さえ覚えた。ここまで純だったとは…とだ。たかが一日ではないか。ああ、今はちょっと忙しいのだな、事情があるのだなと割り切れば良いことだろうに。日頃の厳然と落ち着いた彼であれば、誰に言われるまでもなく そうと割り切ることだろうに…この有り様だ。普段が過ぎるほど冷静な彼だけに、表面的には静かなままながら、こうまで情熱的になっていることへ素直に驚いた桜庭だったのだ。
"まあ…セナくんは、すこぶる可愛い、良い子だもんな。"
 まずはこんな、心配させるような不手際はしなかろう子で、しかも…どこか放ってはおけないような頼りなさと、線の細い愛らしさとに満ちた、それは素直で可愛い子。相手が相手だ、しようがないかと、そこは納得しもったところで、
「で? 直接、電話を掛けるとかしてみたのか?」
 確認は取れるがそれこそ大仰なこと、思ってはみてもやらないかと思いつつ訊くと、ぽそりと、
「昼間に掛けてみたが、圏外らしい。」
「………そうか。」
 それで、午前中はまだマシだったものが、がくんとレベルを上げたほどの変調を来
きたしたと。
「出掛けているというのなら、自宅に掛けるのも何だしな。」
「そうだな。」
 だが、このまま連絡が取れないままなら、もしかして。自宅に足を運ぶ彼ではなかろうか。いやいや、それならまだ良いのだが。それこそ"もしかして"の話、何かしらの事実を知るのが恐ろしくて、ずっとずっと確かめもせぬまま、だがだが気にし続けるとか。
"な、なんですよ、それって。"
 だからさ。フラれたのかなという予感が沸いて、でもでもそんな事実を眼前に突きつけられるのが怖くって…。
"そんな…。"
 判んないよぉ〜〜〜? 怖いものなしでこれまで通って来た彼でも、こっちの道には臆病なのかも知れなくてよ〜〜〜?
"…うう"。"
 ふっふっふっふっふっ…vv
(こらこら/笑)




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