15
窓の外はすっかりと陽も落ち、春は名のみのまだまだ寒い夜の帳が、漆黒の深い闇を辺りへと巡らせている。落ち着いて振り返れば、ほんの5人ほどの侵入者が、たった数刻ほど闖入しただけ。屈強な男衆同士が剣を抜き合っての対峙を構えただけあって、さすがにセナ王子の寝室は…壁の一角が崩れていたり、カーテンが裂けていたり。卓や椅子などという調度が少なからぬ傷を負うなど、結構な荒れようではあったが、彼らが目標としたセナを攫われることもなく、結果としては上々で。………だというのに。その場に居合わせた面々はといえば、四人が四人とも、どこか複雑な表情を隠し切れないでいる。随分と荒らされてしまったのみならず、そんな物騒な襲撃があった“現場”を王子に引き続き使わせる訳にはいかないからと、1つ上の階層、二階の別の部屋を整えてそちらへとお移りいただき、さて。
「…、葉柱さん。」
セナを背後に庇っていたため相手からの剣の切っ先を大きくは躱せず、二の腕への怪我を負ってしまった黒髪の魔導師殿が、城に常駐している典医からの手当てを受けて戻って来て。またまた着替えを余儀なくされた道着の片側、左の腕を袖へと通していない彼だと気がついたセナ王子、
「酷いのですか?」
立ち上がりながら案じるような声で訊いたが、そんな彼を元の席へと押し戻すように片手を挙げて見せ、
「大したことはないさ。」
精悍なお顔を“にひゃっ”とほころばせての男臭い笑い方。少しばかり長い腕の健在な右手の方で、左腕の肩近くをそっと撫でつけ、
「この後また、寝間着に着替える時にちょいと面倒だからな。そいでこんな着付けになってるだけだ。」
行儀が悪くてすまないなと、お道化るように笑った彼だが、それって…腕の上げ下げが少々辛いということには違いないのでは?
「………。」
幼い子供が縫いぐるみのお人形を両腕で懐ろへ抱えているような格好で、オオトカゲのカメちゃんを、お腹のところを両手で抱え上げるようにして、やはり懐ろへ抱っこしていた小さな王子。座り直した肘掛け椅子の上にて、しょんぼりとその小さな肩を落として俯いてしまい。さりげないながら気を遣っていただいたことへ、けれど、気の利いたお返事が出来る状態ではない様子。このお部屋だけは何とか静謐さが満ちてもいるが、城の中は上を下への大騒ぎ。何しろ二度も不審な狼藉者共を侵入させてしまったその上、そのどちらもが、前王直系の王子にして現王陛下の異母弟、第一位王位継承者であられるセナ殿下の、すぐ間近へという非常に危険なところへの接近を許してしまったという、文句なしの大醜態。現場へ同座しもした、ある意味で“当事者”であり、事情を最も知っておられる近衛連隊長の高見さんへは、
『一般の兵士や隊士たちではどうすることも出来なかっただろう、咒という技能の絡んだ特殊な事態であり。責任問題云々で糾弾されねばならないのは、ともすればセナ様付きの導師たちという専門家集団でもあろうから。皆様におかれましては動揺や混乱を収拾し、冷静な秩序を一刻も早く取り戻して下さいませ。』
そのようにセナ殿下が仰有っているのでという伝言を伝えてあるが、当たり障りのない文言をまとめたのは桜庭だし、その点は引き継いだ高見さんも重々承知していらした模様。能力の有る無しで区別・差別をするつもりは毛頭なく、いずれ劣らぬ精鋭揃いの近衛連隊の皆様の実力のほども、よくよく承知しているものの、今回の事態は、関係する人も要素も様々に…少々複雑でもあって。その“微妙なところ”という点へ、
『咒を操る賊が相手では、悔しい話ですが我々では丸腰の素人も同然。加勢どころか、導師の皆様の足手まといにも成りかねません。』
理解あっての潔さから、今回の事態に関する主導権を、彼らへすっかりと委ねて下さった高見さんであり。また、王宮に於ける“聖衛”の権威、対 邪妖の権威たる神官の皆様にしたところで。もともとが専守防衛が基本姿勢という方々なので、このような苛烈なケースへのドラスティックな対応というものも出来はせず。よって、今後の対策においては導師たちの陣営でご検討下さいませと。正式な通達があった訳ではないながら、高見さんがその旨を口頭にてお伝え下さり。
“…ま、対策班が乱立したことで方針が混線するなんて間抜けだけは、免れられたってぇことで。”
善処としましょうと引き受けた導師様たちが、言葉少なになっているのは。時間の問題でじきに静まるだろう城内の混乱に耳を傾けているから…では勿論なく。
「あんな格好で進が出て来ようとはな。」
今度は重々警戒していたし、向こうの陣営だってそのくらいは織り込み済みだった筈。そんな修羅場への乱入を果たした襲撃班の中に。彼は、居た。屈強頑健な体躯に、人並み外れたレベルの膂力。冷静的確な判断力と、鋭利にして俊敏な反射により構築された、剣撃への勘の良さ。どうやら何らかの咒によって、その意識を封じられたまま操られていたらしいとはいえ。
――― 他でもない、あの進が。
セナの護衛を単独で担当していたのは、単に頼もしき敏腕剣士だったからというだけではなく。その誠実さを、その実直な優しさをもってして、セナからの信頼を一身に受けていたからでもあって。そんな誇り高き“白き騎士”進清十郎が。今朝方早くにその身を攫われ、行方が知れなくなったことから、セナ様をさんざ心配させていた彼が。選りにも選って、そんな襲撃班の中にいたということが、彼らの意識を何とも重く沈ませている。
“衝撃を受けん筈がなかろうが。”
何者かに攫われ、行方が知れなくなったことへの動揺が去らぬうち、こんな形での…突発的にも程がある“ご対面”をしようなどと、一体誰が思うだろうか。王子からの真摯な呼びかけで我に返った進は、だが。自分の手が彼を傷つけることを恐れるかのように、セナから身を剥がすようにして後ずさりし、そのまま再び賊共に連れ去られてしまい。そんな情況下で…今朝方突発的に見せたような、我を忘れての暴走をセナが繰り返さなかったのは、日に何度も暴発出来るだけの精神的な体力が足りなかった彼だったからに他ならず。出来ることなら追いたかったろう、そんな気持ちをただただ押さえ込み、立っているのがやっとというような、真っ青な顔をしてはいたが、
『…とりあえず、元気で無事ではあったようだな。』
葉柱からの言葉に力を得はしたようで。絶望にまみれた ただただ悲壮な面持ちで今にも倒れそうになっている彼ではなく、厳しい現状をしっかと噛み締めるような顔をして、何がしかの強い意志をもって自分から進んでこの場に加わっているということが、ある意味、皆を安心させてもいた。恐らくは辛さも不安も一向に軽減してはいなかろうに、人任せにしないでいよう、自分も頑張るんだからと歯を食いしばってでも耐えている。凭れてくれてもそれはそれ、自分たちには負担になるでなし、特に構いはしないのだけれど。何もこんな苛酷な事態で、前向きになろうと決意することもなかろうと思わないでもないのだけれど。進が巻き込まれていること故に、彼とてじっとしては居られないのだろう。
「…それにしても。」
こちらの陣営への見分けがついていなかったとしか思えないほど、桜庭へ、葉柱へ、容赦のない剣撃を浴びせて来ていた進であり。セナからの声に我に返り、ああまで愕然としていたということは、自らの意志からの行動ではなく、暗示だか洗脳だかを受けていてのことらしかったが、
「そもそもなんでまた、手間かけて連れ出して拉致した奴を、急襲班の手勢に混ぜてたんだ?」
しかも、掻っ攫ったその日の内にという性急さで。
「あれだけの腕っ節だから、自軍の駒であればこれほど頼りになる存在はないからじゃないのかな?」
「牛耳るための暗示の咒に、よほどの自信があったってか?」
でもって実際は…結構あっさりと解かれてしまいましたけれどもね。あれこれ周到だったくせに、なんでまた、そんな重要なところで信じられないようなポカをしているのか。進を誘い出し、まんまと連れ去った手管と、セナを襲った陣営の突貫ぶりがまたしても咬み合わない。
“そこまで人手が足りてない賊だってのか?”
もしくは。計画は完璧なのに、肝心な実行班が覚束ないという、バランスの偏った手合いなのだろうか?
「けどな? 顔が表れて正体が分かった瞬間、こっちは気持ち的に、少々引かざるを得なかったぞ?」
とは、直接の対峙をした葉柱の言であり。あの仰々しくも人を小馬鹿にした仮面が落ちて、その下から あの素顔が現れたのを見て。驚いたその次は、身内である彼を傷つける訳には行かないとも思った。それこそ、声を掛けて確かめてからと構える必要も感じなかったくらいの自然な反射で、だ。
「そんな効果を狙ったってか?」
だとすれば…突拍子もない段取りではあるが。とはいえ、笑いごとではないのも事実。もしもセナだけしかいない場だったならどうなっていたことか。相手が進だとなれば、案外さしたる抵抗もしないままに攫われてしまっていたかも知れないとは、何もご本人から“ごめんなさい”つきで申告されずとも易々と察しがいった展開予測であり、
「…何て危険な隠し球だ。」
こらこら。全員で“その通り”とばかり納得し合って頷き合わない。(苦笑) いくら何でも、そうそう簡単に相手の思惑が判っていては世話はなく、
「……で。進の額に描かれてた紋だけど。」
「ああ。」
セナだけは、意識がなかったから まだ見せてもらってはいなかったもの。進が、本当なら訪問先へと持って行ったのだろう、大きな包みの中身。賊らが自ら宣言し、取り戻したがってる…らしい、大きくて古風な砂時計“グロックス”。今はこの場へと持って来てあり、改めて調べたものの、特に何かしらの咒がかけてあるでなし。年代ものではあるようだが、骨董品としての価値もなさそうな、単なる中古品にしか見えない代物であり、
「人を食ったような野郎だったからな。本当にこれがどうしても欲しいのかどうかは怪しいぞ。」
む〜んといかにも忌ま忌ましいという顔つきで、細っこい腕を胸高に組み、蛭魔がそんな風に言い立てる。
「なんで?」
「少なくとも、ああ言っておけば俺らが意識するじゃねぇか。」
これをも狙っている彼らなのなら、このまま此処に置いておくのは、もしかせずとも危険だが、さりとて。これにまだ何かの細工があるのなら? そうと思えばうかうかと壊したり捨てたりも出来ない。そうなれば、セナへと集中させるべき注意力も多少は分散されてしまうかも。
「どこにあるのかを知らせるための“発信機能”はないみたいだけれどもね。」
お懐かしや、蛭魔さんが身につけている守り刀にあった機能ですね? 持ち主の身から離れたら、半径…結構な範囲へと、そういう状態だという波長の念信を発信する。念信の意味合いは桜庭と、それを施した泥門の師匠にしか判らないものの、彼自身の手以外で武装解除されれば、その途端に“何かあったな”と駆けつけることが出来るという仕掛けであり、
「それがあるのなら、これを奪う人手ってのも、別動隊で何人か送り込んでて良かった筈だもの。」
実は談話室に置きっ放しになっていて、手薄なことには誰も見守っていなかったのに無事だったでしょ?と、今は彼らの目の前にある、小型犬ほどもあろうかという大きな砂時計を見やった桜庭へ、
「これと同じ紋、でしたよね。」
進さんの額に描いてあったのは…と、セナが呟く。椅子から立ち上がり、カメちゃんを抱え直し、空けた片手で触れた天頂部。袖口に細やかな刺繍が施された上着の筒袖から伸ばされた、小さな小さな手が載った、底板とでも呼ぶのだろうか天板部分。鼓太鼓を思わせるような、真ん中のくびれを挟んで上下が対称になった意匠の、砂が入ったガラス製の本体部分を嵌め込まれた外枠の上と底と。厚めで頑丈そうな板が使われてあるそこには、同じデザインの丸い紋が組木細工で描かれてあり。葉柱が言うには“炎獄の民”という、古い古い一族を示す紋章なのだそうな。不気味にも人魂が重なり合っている、不吉な文様なように見えるのは、忌ま忌ましい連中が関与する図案だからだろうか。沈んだ眼差しで見下ろすセナの言いようへ、
「咒を定着させるための紋章や円陣というのは、実を言や、どんな図案や意匠でも構わない。」
セナの小さな手の向かいから、自分の白い手をやはり天頂部へと無造作に載せて。蛭魔がそんなことを語り始める。
「そこへと意識を集中させるためだったり、召喚の場合は呼び出す相手や力の道標にしたりするってのが始まりであって、要はそれへの目印になりゃあ良い。」
精神集中のための修行をした上で手順や形式とやらを踏めば、力がない者でもある程度までは扱えるのが“大地の気脈”を操る咒。その咒陣に色々と複雑なものがあるのは、基本の円陣へ描き足されたもの…様々な図形や咒詞が、咒の発動への増幅効果を齎すと判ったから増やされたまでのこと。詠唱するべき文言の代わりだったり、強調したい要素への下線だったり。複雑であるほど巧みで強い咒の制御が出来るのだが、
「呼び出す奴自身の力が大きけりゃ、陣どころか咒詞の詠唱さえ要らねぇんだが。」
さすがは“攻撃は最大の防御なり”を地でゆく蛭魔ならではの解釈であり。カナリアとしての力が目覚めて以降は、いざという時に限るとはいえ“詠唱要らず”という身になったもんだから、ますますのこと、攻撃的な性分に磨きがかかってもいる彼であり、まま、それも今はともかくとして。
「だから。逆に言や、馴染みのあるものや印象深いものを基本の咒陣にする場合も多い訳でな。」
馴染みがあって、集中しやすい、若しくは記しやすい図案や意匠。蛭魔は白い手の指先で、炎が寄り集まった意匠の紋章をこつこつと弾いて見せ、
「奴らはどこまで、この“炎獄の民”と縁があるんだろうな。」
自分らはとんと聞かないほどにも古い伝承にしか出て来ない、太古の昔、神話の時代に滅んだ筈の民。唯一知っていた葉柱が言うには、古い古い物語の中、戦いにまつわる場面では必ず引っ張り出されて活躍した、腕に覚えのある者どもであったらしく、
『…お前、もしかして“炎眼”の持ち主だったか。』
葉柱が賊の一人、代表格としてやたらと余裕の口利きをしていた男へと、挑発半分にかけた言葉へのあの反応が、特に印象に残っている。視線を合わせた高見がそれだけで人事不省になったほどに、相手の意識を呑んでしまう不吉な赤い眸。そのせいで滅びたんじゃないかという言い回しを繰り出した途端に、それまでの落ち着きぶりから一転して、問答無用という攻勢を仕掛けて来た。ああまで鋭い反射が出たことをもってしても…どうやら襲撃者たちは、やはり“炎獄の民”という一族に縁のある者だったとしか思えない。
「生き残りの血を引く末裔なのか、それとも。象徴的なものとして、風習だの何だのを研究し、彼らが持っていた力を得んとして担ぎ出してるだけな連中なのかは、今のところ不明だが。あの、誰ぞからの思惑なんぞには頑として動かんだろう、巌のような信念を保持している進をああまで操れた咒に用いたんだ。」
よほどの思い入れがあったからこそ。その紋へ、あの頑固者を自在に動かせるほどもの、強い強い思念を定着させられたのだろうと。いささか乱暴な論かもしれないがという苦笑だからか、薄く笑いながら道着をまとった薄い肩をすくめて見せた蛭魔であり。そんな彼の伸びやかな声が、室内の静けさの中にすっかりと溶け込んでしまった間合いへ、
「………俺、一度、アケメネイへ帰るわ。」
ぽつりと呟いたような低い声が落ちる。その言いようが…あまりに意外なものだったから。皆の注意は実に素早く、声の主へ、葉柱の上へと集まった。こんな非常時なのにかと、思いつつ、だが。彼には参加を強制出来ないのだという点を思い出させもする。今や誰よりも自分たちに近しく事情を知る者であり、しかも…導師としての能力のみならず、知識の点でも並々ならぬほど頼りにもなる存在だが。そもそも彼は、蛭魔にかけられていた封印を解きに来ただけの人物であり。それ以上の面倒や危険へ付き合うだけの、義理…は多少はあるかもしれないが“義務”は全くないのでもあって。それに、相手の正体が依然として曖昧ながら、どうやら危険な存在でもあるらしく。ならば、引き留めてまでの対応を無理強いして良いことでもない。あの強引な蛭魔でさえもが、それらを思ってか言葉を濁らせた微妙な空気を感じてだろう、
「尻尾巻いて逃げ出す訳じゃねぇよ。」
早合点すんなよと くすんと苦笑った封印結界の導師様。
「親父に話を聞いてくるだけだ。」
そうと続けた一言へ、皆の表情が あっと弾けた。あまりに手札が少ない、しゃにむに手探りしてさえ何も掴めないに等しかった状況へと差した一条の僥倖。
「ウチは人跡未踏の隠れ里にいる一族だからな。今時の世情な何やには疎いが、古い伝承や逸話なら、それを守れと命じられた一族なんだ、虚実色々、山ほど伝わってるし残ってもいる筈だ。」
もっとも、俺自身はそういう退屈なのは苦手だったから、由来話や伝説なんてのはさほど覚えてなんかいなかったけど。葉柱は冗談めかしてそう言うと、
「親父や総領息子の兄者なら、口伝のものから史記伝記ものまで、きっちり網羅してるだろからな。」
書物の管理も完璧で、口伝を担当する先代の年寄りたちもまだまだ健在だろうから。その謎めいた“炎獄の民”とやらのことも、もう少しくらいは詳しいところが判明するかもしれない。
「そうか。光の公主のことだって知ってたくらいだものね。」
元魔神の桜庭でさえ、詳細までは知らなかったことにも通じていた一族。その昔、陽白の一族から聖域を守れと命じられた人々なのだ、期待して良いのかも。意外なところにあった突破口。今は少しでもヒントがほしいから、それを一縷の望みとばかり、蛭魔や桜庭がホッとしたそんなところへ、
「…ボクも行きます。」
思わぬ方向からのお声が上がった。謎の砂時計を見やっていたお顔を上げ、彼にしては毅然とした表情を浮かべた王子様。
「チビ?」
これほどの目に遭っても怖がって尻込みしなくなった彼には“頼もしいこと”と安堵もしたものの、
「物見遊山の旅じゃねぇんだぜ?」
「判ってます。」
あまりに定番な応対へ、だが、からかわないでと怒るでなく。
「頑張りますから…皆様のお手を煩わせないようにしますから。」
非力であること、それから、敵陣営から狙われている標的本人であることなどなど。それでなくとも遠隔地へ向かう大変な旅へ“よ〜し合点だ”と二つ返事で連れてけない対象だというのは、自分のことながらようよう判っているらしく。それでも、
「じっとしていられないんです。」
きゅうと唇を咬みしめたその表情には、甘えた気配は一片もなく。強いて言えば…口惜しげな怒りが浮かんでおり。
「自分では何も出来ないくせに生意気だって、言われてしまえば返す言葉もありませんが。それでも…。」
ただ待っているだけなのは辛い。周囲の方々を信じ、自分は動かずひたすら報告を待つという、そんな苦行もまた、彼のような立場の存在には必要なことなのかもしれないが、
「これ以上ない“自分ごと”だからこそ。待っているより、こちらからにじり寄りたいんです。」
状況が寄せて来るのを待ち受けて、相手に翻弄されてばかりいるよりも、いっそこちらからも間際まで寄って畳み掛けることが出来たなら。何よりも、
“…進さん。”
相手の陣営へ攫われてしまった進のことが心配でたまらない。早く助け出して差し上げたい。単なる人質以上の仕打ち、あんな…自分の意志を押さえ込まれるような、酷い咒をかけられていた彼だった。それがもしも、葉柱が言っていたように、この自分へ対抗出来る駒としての起用であったのならば。今後だって同じこと、絶対にされないと誰が保証出来ようか。一刻を争うほどにも性急に、早く早く結末を迎えたい。彼を無事に救い出したい。
「………。」
ともすれば思い詰めているような表情でいるセナを見やり、眉を顰めて何事か考え込んでいた蛭魔が、
「そう、だな。お前も一緒に来た方がいいのかも。」
さして間を置かず、あっさりと同意したのへは、葉柱も桜庭も少々ぎょっとした。その苛烈な言動は、たとえ王子相手にでさえ別け隔てなく辛辣で、軽くとはいえ すぐに制裁の拳骨が降るほど容赦がない彼であったものの。そんな陰にて結構優しく気遣いを巡らせてもいた蛭魔だったから。それでなくとも、
『これからどんどんと暖かくなるにつれ、内政補佐役のセナ殿下が城外に出る機会は一気に増える。』
そこを狙って攫った方が、よほどに手薄な隙をつきやすかったろうに、なんでまた守りの固い城の中へわざわざ赴いての襲撃なぞと、そんな面倒をしたのだろうかと言い出したのも、他でもない蛭魔だったのに。城から出る危険な旅への同行なぞ、てっきり反対するだろうと思った二人であり、
「妖一?」
その真意を窺うような声をかければ、黒づくめの導師様、ふふんと強かそうに笑って見せる。
「別に酔狂で連れてく訳じゃあないさ。」
彼らが何を案じたかくらいはお見通しであるらしく、
「旅の扉を使っての移動なら、隙も少ないだろうしな。それに、だ。俺らが不在の城へ置いてっては、却って危なくないか?」
「………もしかしなくとも、妖一もついてくんだね?」
決まってんだろーが、今更何を不審なことを言ってやがると、今度こそは不機嫌を満タンに満たしたお顔になった“金のカナリア”さん。
“ああ、そうだったね。”
本人はそこまでまだ想いが至ってはいないのかもしれないが、アケメネイは…この金髪痩躯の魔導師さんの生まれ故郷でもあると判明した土地でもあって。
「よぉっし、そんじゃ明日にでもアケメネイへ出立しゅったつだ。」
こらこらそんな大声で。まだ相手の聞き耳がどこかに残っているやも知れないというのにと、桜庭が焦ったように腕を振ってまでして制し、そんな彼らへ小さな公主様もやっとのこと、小さく笑って見せてくれ。とんでもないことばかりが起こった長かった一日も、先への見通しが立ったことでようやっと、明日へと続くものとして夜陰の中に幕を下ろそうとする気配。立ち止まっていてはダメだと、いかにも彼ららしい選択をしたことで、それまで停滞していた空気まで清かに流れ始めたような気がして。
“………進さん。”
いつもいつも助けていただいてた、強くて優しくて、誠実で…大切な人。今度はきっと自分の番だから。非力で頼りない身にさして成長はないままだけれど、どんな艱難辛苦にだって耐えて見せようぞと。小さなお胸に大きな決意、堅く誓って前を向いた、光の公主様だった。
◇
窓一つない室内には灯されている明かりもないが、さりとて、夜陰の漆黒に覆われてはおらず。ぼんやりとした明るさにより、壁や隅という“果て”が見えない曖昧さにて、却って底知れぬ空間に見えてもいて。そんな部屋の奥まった一角、
「………とんだ失態を重ね、僧正様には色よきご報告を果たせませぬこと、お詫びの言葉もありませぬ。」
跪くように片膝ついて、苦渋の報告を述べている者がいる。外套だったのか、今はマントをつけてはおらず、風変わりな異国の道着をまとっている。城への襲撃を仕掛けて来た、あの男たちであり。そんな彼らが“僧正様”と呼んでいるのは、族長ででもあるのか、結構な年配の、黒っぽい僧衣を身につけた老人だった。しきりと詫びるような文言を並べる、剃髪頭の青年へ、だが、僧正とやらはさして怒ってもいないようで。
「そうかい、そうかい。単なる即効の封印ではやはり意のままにはならんかったかい。」
ホッホッホッと短く区切っての苦笑を洩らすと、その手に握っていた…頭に金輪を何本か絡ませた錫杖でもって、傍らの台座を指し示す。まるで蓋をした柩を思わせるような、大きくて堅い長卓の上。白い布を敷いたその上へ仰臥させられ瞼を伏せて、男が一人、横たわっており。先程の襲撃へ同行させられた時のままな装束をまとった彼こそは、王城キングダムが無敵の白き騎士として誇る、屈指の剣士、進清十郎、その人ではなかろうか。今はただただ眠っているらしく、その冴えた眼差しも伏せられて、無表情なままに動かない。
「光の公主からの祝福を受けて、魂を再生されていようとはの。忌ま忌ましき話じゃが、これもまた宿縁。光の公主と暗黒の太守、鬩ぎ合う存在同士であればこその困難ならば、起こり得ることと受けて立つ他はない。」
笑止笑止と余裕で笑い、
「これからの幾日か、この“器”に授けし“回帰の眠り”が深くまで浸透したれば、その時こそは。こやつも本来の役目を見い出すことじゃろうからの。」
だから。お前たちには気に病むこともないぞと言い置き、
「ただ、あのグロックスだけはどうあっても手元へ寄せねばならぬ。よいか? 雲水。この者が眠りから覚め、次の太守降臨の機の巡りにあたる期日まで、何としても取り戻すのじゃ。」
こればかりは厳命ぞと、声も低めてのお達しであり、ははっと床へつくほどにも頭を下げた彼の恭順振りを、満足そうに眺めやり、僧正様は何度も頷いてから御前からの退出を許したのだった。
接見の間の外もまた、それほど明るいものではなく。それでも、廊下の途中、壁に凭れて。出て来た自分を待っていた人影に気がついて、雲水と呼ばれた男は、そのまま相手へつかつかと歩み寄った。
「阿含っ。」
「何だよ。僧正様に叱られでもしたか?」
へらりと笑った弟へ、一瞬言葉に詰まってから、
「寛大な僧正様が、そうそう瑣末なことでお怒りになるか。」
むしろ、自身の不甲斐なさを思い知らされた。何でも堪えて許して下さる方だというのに、そんな方のおかけ下さった期待に添えなかったことが悔しい。
「そもそもどうして、あの男を連れ出した。」
「あらだって、僧正様も賛成してくれたことだってばさ。」
屈強頑健で城にも詳しいし、いずれは自分たちの仲間内となる存在だから。武人としての能力だけを生かす使いようはありませんでしょうかしらと進言したの、すぐ傍らで聞いてたでしょうに。なのに今更訊くの?と、持って回った言いようをし、それにしてはあっさりと、
「なに、反応が見たかったのさ。」
いかんせん“器”を穢す訳にはいかなくて、暗示以上の咒を掛けられなかったからな、案の定、光の公主の声だけで、あっさりと覚醒しちまったけど。
「兄者だって見ただろ? 相手が進だと判ってからの坊やの態度をよ。」
敵への目線があっと言う間に塗り変わり、そのままどこへなりと攫っててほしいと言わんばかりの、あからさまな慕いよう。
「あれほどまでも未練たっぷりだったからさ。あわよくば、あいつを楯にすりゃ簡単に攫えるかもなって思ったまでだ。」
ふふんと笑って見せた顔には、ちょっとした悪戯が失敗したという程度の残念さしか浮かんではおらず。あれほどの真剣勝負、こちらだって一歩間違やただでは済まなかったような修羅場に際してでさえ、こんな態度でいられる豪傑。どうしてこうもこの弟は、どんな事態へも飄々と構えていられるのか。そんな彼がふと、
「果たしてどちらが不幸なのかねぇ。」
そんな一言を呟いた。
「何も知らないまま独りぼっちでいたものが、ある日突然手厚く迎えを寄越されて、逆らい難い大きな宿命と向き合わされるのと。すべて承知のキッツイ運命を生まれた時から背負わされ、どうにも出来ぬと同じ命運を持つ仲間たちと一緒に、逃げも出来ぬままで“宿命さだめ”とやらに向かって過ごさねばならない身と。」
「さあな。」
判ったところでどうなるものでもない。そんな今更なものを持ち出して話を逸らすなといきり立ちかけて、だが、
「…済んだこと、には違いないか。」
今更ここで何を言い立てても詮無いことだというのは同じかと、兄上も何とか我に返ったらしい。
「ともかく。次の機会は数日後だからな。それまでに“グロックス”を奪還し、今度こそは、太守召喚を成功させる。」
いいなと、雲水はにべもなく言い放ち、薄暗い通廊を切れのいい所作にて歩み去る。そんな兄の、真っ直ぐに背条が伸びた背中を見送って、それから。
「………。」
阿含は彼が出て来た扉をあらためて見やった。
“公主様とやらのことを言った訳ではないのだがな。”
小さくて可憐な公主様。雄々しき導師たちに囲まれて守られていた可憐さばかりが印象に残っている、儚げな存在。彼なりに大変な道程を経て来た身ではあるらしいと、話には聞いてもいるが、それよりも。
“………太守の器、か。”
昏々と眠り続ける“白き騎士”進清十郎。彼自身に用向きがあっての略取であり、その計画は随分と以前から慎重に構えられていたものでもあって。実行班として立ち回った自分は、準備段階からのずっと、彼らを目にして来たものだから、
“話が違うじゃねぇかよな。”
それがどうにも苦々しくってしようがない。器に過ぎない身の彼は、自我も薄く、自己主張もしない、感情さえ持たないような存在だと聞いていた。人の姿をしてはいるが、所詮は傀儡くぐつだ。自身を健やかに強靭に保つことのみ専念せよと、それこそ洗脳するかの如く、ずっとずっと吹き込まれ続けて来た子供であった筈だと聞いていたのに。ならば…自分たちと同じじゃないかと。生まれた時から宿命というものに搦め捕られ、生き方を選べず、人であっても人ではない。そんな存在だと思っていたのにな。
――― あの小さな少年の傍で、それは幸せそうに微笑っていたから。
あからさまに声を上げてというおおらかな笑い方こそ、しなかったけれど。深みのある優しい笑みで。唯一無二の忠誠を捧げた幼い主人の傍らにあることを、至上の幸せだと言わんばかりに。それはそれは温かい笑みを浮かべていた青年。そんな彼らの至福を、自分たちはこの手で無残にも摘み取らねばならなくて。
“話が違う…よな。”
それこそ今更な話だ。自分たちには選択の余地などなく、罪悪感を抱えたり感情的になればなるだけ、自分たちだけが辛くなるから。何も気に止めず、割り切って通り抜けるしか道はない、のだが。
「……………。」
立ち尽くす通廊の暗さがそのまま、自分たちの歩んで来た道のようにも見えて。これからもこんな薄ぼんやりとしたところにしか居られない自分たちで良いのかと。やっと巡り来た“約束された時間”だからと、皆が例のないほどの高揚感に浮き立っている最中にあって、どうしてこうも自分の胸中だけが寒々しいのか。
“今更、奴らにとっての“善人”になってもしようがなかろうにな。”
くっと笑って踵を返す。どうしようもないことが、実は結構あるのが現世。そんな修羅の道だと最初から分かっていただけ、俺らはマシかもなと嘯うそぶいて、軽快な足取りで立ち去った。後に残るは無音の静寂。何かが蠢き、されど見えない。そんな靄のかかったような薄暗い静寂が、ただただ蹲っているばかり………。
胎動の章 〜了〜 (05.5.03.〜)
←BACK/TOP***
*何とも長い章であり、何とも長い一日でございました。
さあさ、此処からどんなお話が展開するやら。
…今年中に仕上げられたらいいんですが。(ううう…)
**
|