遥かなる君の声 M

     〜なんちゃってファンタジー“鳥籠の少年”続編
 

 

          
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 頭には煤けた色合いの布をターバンのように巻きつけ、その真下から頬骨の当たりまで、目の部分だけを刳り貫いた仮面で顔の一部を覆った男たち。足元まである長いマントの下にも、どこか風変わりな装束をまとった一団で。武装はてんでバラバラだが、衣装と防具はどの男も同じもの。肩と襟の境目の留具と、短いが頑丈そうな鎖とで、胸へと下げられた金属のプレートは、鎧や楯のような仰々しいものは要らないと、急所だけを守れば良いということなのか。装束もまたどこか風変わりであり、首を守るのか詰襟であるところはこの国の導師たちの衣装にも似ているが、剣士ほどには体力のない者でもある程度は身を守るためにと頑丈な仕立てなところは同じながら、例えば袖は肩や脇と隙間なく綴られてはおらず、一旦裂いてから改めてのぐし縫いで付け根を留め綴ったような風変わりな作りだし。脛の半ば、くるぶし辺りまである裾長な道着は腰から足元までの脇が、下に履いた筒裾のボトムが全て覗けるほど、左右ともに綴られないままになっており、下肢の屈伸には楽かもしれないが、長い裾の方は重さもありそうで、慣れるまでは自在に扱うのが結構大変かも。
“不器用な奴ならば、着物に動きを邪魔されまくりそうだな。”
 これを苦もなく捌けることもまた達人たる証しとなるような、そんな武道の巧者たちだということか。

  「こちとら、腕には覚えのある身。
   公主様ともう一つ、何としてでもいただいて戻らねばならんものがあるのでな。
   手加減は無しで かからせていただくよ?」

 本来ならば。セナを彼の自室で休ませるのは如何なものかという意見もあった。あの温室で過ごすセナだということまで事細かに知っていた相手陣営であり、周到な彼らのこと、セナの自室の位置くらい、知っているに違いない。そこへと休ませては“どうぞ”と無造作に置いておくようなものなのかも。別の奥まった部屋でお休みいただくべきではないかという声も出るには出たが、
『周到なればこそ、居所を移すことだって念頭にあるのではないのかな。』
 それに、そういう“不慣れ”をすれば、こちらだって混乱をしないとも限らない。ならばいっそ、これでもかという厳重頑丈さで守って、すぐにも駆けつけられる態勢で待ち構えてる方が得策だろうよと。相手の再来を期待してでもいるかのような言いようでもって、警護の方々を説き伏せた金髪痩躯の魔導師様だったのだそうで。
『妖一に守りの相談する方が間違ってる。』
 攻撃は最大の防御、な人ですもんね。
(苦笑) そんな作戦の下に、幾重にも張っておいた防御の咒を蹴破って、再びの急襲を敢行して来た襲撃者たち。セナの略取という無法を高らかに宣言するような、とんでもない奴らであり、
“…いやに嬉しそうじゃねぇかよ。”
 余裕は余裕でも、根拠もなく相手の技量を軽んじての勝ち誇ったような余裕ではなく。それよりも性
たちの悪いもの。手ごわい方が自分にはむしろ嬉しいと言いたげな、どこか執拗そうな、底冷えのして来そうな種の覇気を感じつつ、こちらも受けて立っての身構えを見せる蛭魔が、

  「…哈っ!」

 繰り出したのは先制の一撃。先程、相手の衣装を裂くほどの攻撃を見せて薙ぎ払った剣の切っ先を、正眼の位置へと戻さんという返しに乗せて、外側から内へとぶん回しての一閃を振るえば。
「おっと…。」
 やはり余裕からのことか、ひょいと小さな所作だけで身を躱して避けようとした相手の鼻先、触れてもない筈な銀の剣の切っ先から、
「…っ!」
 青い光が瞬いた気がして。チィッと舌打ちしつつ、大仰に顔を背け、数歩ほども後ずさってしまった彼であり。
「すまねぇな。俺はやっぱ、咒を使っての攻撃が得手なもんでよ。」
 剣撃においては。狙いを定めてだとか力加減が要りようだとか、器用さが必要なら内側へだが、単に力任せで良いのなら外側へ振るう方が、速さも含めて威力は断然上だ。そんな条件づけを加味した上で、あの程度ならば…とばかり、こちらの腕力は既に把握されていると。そこは冷静に…相手の場慣れした態度からそうと読み取っていた蛭魔が、その上で仕掛けたのが“咒を乗せた一閃”であり。引きつける動作になるなら速度も威力も低かろうと、余裕を見せて僅かにしか避けなかったことが災いし、顔の間近で炸裂した青い閃光が彼の眸の奥までを灼いた筈。例えば彼の目元を守るように覆った仮面に色や素材での遮光の効果があったとしても、関係なく視覚へ届いたろう代物で、
「心配は要らねぇよ。今だけの目眩しで、時間が経てばすぐにも戻る。」
 顔を背けた彼へはそうと言い放ったくせに、そんな彼の陰から二番手としてすかさず飛び出して来た別口の賊へは、大きくバネをタメてから振りかぶった剣で切っ先を撥ね除けてから、やっぱり引き戻しがてらの動作でもって。柄頭にほどこしてあった鋭角な飾りで、肩口へと力任せに強かに殴りつけ、あっさりと伸してしまう斟酌のなさよ。そのまま自分が身を躱して避けただけでは、背後にいるセナへの突進を許してしまうと察しての反射だろうが、
“………凄い。”
 それら一連の攻勢動作が、上体だけを撓らせてのものであるというのもまた凄まじい。例えるなら、馬を急かせるための短い鞭を、手慣れた動作でなめらかに ただ一払いしただけというような、そんな軽々とした所作一つで。こんな痩躯の彼が屈強そうな賊を叩きのめせてしまえるのが、見ていても惚れ惚れと頼もしく。また、
「寄るんじゃねぇよっ、と。」
 別な方向からやはりセナへと、棍棒を構えて振り下ろして来た手合いがあったのへは、斜め背後を守って下さってた葉柱さんが、こちらも的確な対応。逆手に握って道着の袖口から前腕に沿わせた、これも守り刀だろう、がっつりと厚みのある短刀で相手からの攻勢をがっしと受け止める。力の押し合いになる手前、意表をついたタイミングへ鮮やかな膝蹴りを繰り出て見せて相手を怯ませ。すかさずその膝を自分の胸元まで引き寄せたそのまま、今度は足の裏を相手の胸倉へと叩きつけ、全身の重みを込めて思い切り蹴り飛ばす。余程に間合いが良かったか、
「…ぐわっ!」
 結構な体躯をした男であったのに、先程彼らが“滲み出して来た”ところの背後の壁まで、物凄い加速の一直線で飛ばされたそのまま。反動で首だけが前へ力なく倒れたまま動かなくなったところを見ると、その一撃だけで意識を失ったのだろうか。相手の機動力に負けないほど随分と手慣れた、しかも相当に威力のある反撃であり。こちら様もまた、導師様とは思えぬほど荒ごとにもまた慣れてらっしゃるご様子で…町のごろつきさんたちがあっさり感服したのも無理はないってか?
「公主は渡せねぇ。触らせる訳にもいかねぇんだよ。」
 三白眼の眸を吊り上げ、迫力のある表情で凄んで見せるところが、何とも…少々悪役づいてやいませんか? な葉柱さんでしたが。
(苦笑) さすがに着替えたらしき真新しい道着の、かっちりとした肩の線も凛々しき広い背中に匿われ、周囲の乱闘に怖じけることなく顔を上げていたセナの耳へもくっきりと聞こえたのが、
「何としてでもいただいて戻らねばならないものってのは何なんだ? えぇ?」
 先程の攻勢のついでのように、切れのいい啖呵もどき、畳み掛けるようにと訊いた葉柱の声で。すると、

  「グロックスだ。」

 閃光にやられた目許を依然としてがっつりと大振りな手のひらで押さえつつ、蛭魔が相手をしていた男が口走る。途端に、別の男が、
「…っ、おいっ。」
 少々慌てたような素早さで咎めるような声をかけて来たが、それへも構うことなく、こちらの陣営を真っ直ぐに見据えて、彼は続けた。
「生まれたての赤ん坊くらいはある、でっかくて古めかしい砂時計だよ。見たことないかな? あれは本来、俺らのもんなんでね、返してもらいたい。」
 まだ視覚は戻っておるまいに、しかも少々押され気味な戦況で。なのに、あっさりと口にしたそのフレーズへ、
“グロックス…。”
 ついつい。桜庭が表情を止めての反応を見せる。進が抱えていて、町中で引ったくられたという革嚢の中に入っていた砂時計。恐らくはアレのことかもと、ほんの一瞬、気を取られた刹那へ目がけ、
「哈っ!」
「…わっ!」
 ぶんっと、たいそう重い攻撃が降りかかったから。踏み出してくると同時の斜め上から切りつけて来た、こちらは剣による攻勢であり。剣の放った…無機物とは思えないほどの存在感が、触れもしないうちから生き物の牙のような威圧を放っていたから、却ってそれに煽られるようにして避けられた桜庭であり。
「危っぶないったら。」
 しまったしまった、意識が逸れた隙を衝かれたかと、紙一重で避けた先にて自らも長剣を構え、大急ぎで集中力を立て直す。2人倒れて、残りは3人。こちらの攻撃陣営と、攻撃の手の頭数だけなら同じにまで打ち減らされた訳だが、それもさしたる危機ではないのか。蛭魔から目眩ましを食った、いやに口の立つ男がふるると首を振り、何とか姿勢を正して身を起こす。まだまだ良く見えぬのだろうに、口許のニヤニヤ笑いは消さぬままであり、
「そうか。あんた方に心当たりがあるってことは、あれはまだこの城にあるんだね。」
 直接見えはしなくとも…桜庭がうっかりと気を取られた、反応を見せたその気配を拾えたらしい。彼のそんな言いようへ、

  「あれのことを知ってるって事は。
   お前らがウチの“堅物剣士”を攫ってったってことかな。」

 こちらもまた、蛭魔がすっぱりと訊き返す。こっちが持ってることを惚けても始まらない。例の大きな砂時計といえば、他でもない、行方が判らなくなっている進が抱えていたという革嚢の中身。元々からして進の所持品だったのか、それとも、この男が言うように本来の持ち主は彼らでありながら、何らかの手配りによって進が今朝いきなり手にする運びとなったのか…などなどと。どういう経緯があったものなのかという、前後関係も今はどうでも良い。妙な咒を詰めてあったらしき、謎めいた書簡用の封管と一緒になってた骨董品。それを名指しで欲しがっているということは、持って来る筈だった“運び屋”のことだって知っていた彼らなのに違いなく。ちょっとしたアクシデントにより、思わぬ展開からこちらの手中へ転がり込んで来た、その“グロックス”とやら。進という…高名ではあるけれど王宮から滅多に外出しない騎士のこと、少なくとも今日の行動くらいは知っていなければ、それが此処にあるのではないかという目串だとて差しようがない筈で。
「何らかの咒で暗示をかけられてだろう、集中力を失
くしまくりなまんまで とある家へと向かったあいつを、咒を使って見事搦め捕った奴がいるんだがなぁ。」
 何かしらの咒により、極めて様子がおかしかったその彼を。それでも繰り出したのだろう剣による抵抗をまで封じんと、更なる咒を使って昏倒させ、見事に掻っ攫った奴らがいる。終着地点だったとある住居や、そこから間近い街路の一角。わざわざその身を運んだ“現場”にて彼ら導師がそれぞれに拾った“残留思念”という証拠に基づく、間違いのない“事実”であって。

  “………そうなんだ。”

 国一番の剣の使い手との誉れまでいただきながら、されど…恐らくは免疫があまりないのだろう咒でもって、抵抗する意志を強引に封じられたまま、進は拉致された。セナは生憎と、皆様が論を交わしていた場にはいなかったが、それでも自分なりに推察していた点へと重なることなだけに。金髪痩躯の黒魔導師様の言いように励まされたような表情を、なお強く引き締めるとこちらも鋭く相手を見据える。自分を誘拐することが目的の、正体不明の侵入者たちに襲撃された事件さえ、一気に吹っ飛んだほどの一大事。セナにとっての誰よりも何よりも大切な人を、そんな無体な方法で誘い出して連れ去った卑怯者たち。
“せめてボクが気づいていれば…。”
 あまりに無防備でいたがゆえ、気づくことが出来なかったこと。きっと今朝方起こしに来てくださった時にはもう、その怪しい暗示の咒を浴びていた進さんだった筈なのに。そういったものへの感応力があったにも関わらず、何も出来なかった自分への無念さもあって、
“………進さん。”
 彼らがあの人を攫った相手だと思うと…それだけで。そのまま怒りと憤りとで体内が煮えそうなほどになる。それを抑えかねているからか、身体が震え出しそうになってもいる。こんなにも激しい感情が沸き立つなんて、今までに覚えがないくらい。憤怒と無念と、そしてそして…切ない想いが高まり過ぎての渇望と。行き場がなくって絶望しかかっていた想いが今、それをぶつける対象を得て、どんどんと膨張しているらしく。

  “………ほほぉ?”

 視野を眩まされても、先程 桜庭の気散じを易々と察知出来たほど、気配を敏感に拾える身であるからか。此処にいる導師たちのみならず、セナまでもを怒らせてしまったことにも気づけたらしい“彼”であったが。それにしては。そんな現状をさえ楽しんでいるように見える。目許を覆い隠していると表情はともすれば半分以上隠れてしまうもの。だというのに。結構 彫の深い顔立ちをしている彼だからか、不敵そうな笑みを浮かべた口許の強かさがそれは濃く際立っており、単なる虚勢や作り笑いとも思えない。そして、
「そうさね。白き騎士って呼ばれてるんだっけ? 俺らンところへグロックスを持って来る筈だった剣士ってのは。」
 セナがその身に強い怒気をまとったのが、その騎士の話題に移ってからだと、判っていながらのこの言いようであるらしく。
「自分で制御出来るほどには咒への免疫がないくせに、それなりの葛藤なんてな余計な抵抗をしてくれたお陰さんでサ。大切なグロックスを持って来なかったなんていう、何ともお間抜けたことをしてくれて。」
 やっとのこと、不自由な視野というものに慣れたか、目許から外された手の下から見えたのは………紅宝珠のような鮮やかさで染まった、虹彩の赤い眸。直接には何もされないまま、あの高見が昏倒したほどの、何かしらを波及させる力を持っているらしいのだが、この場にいる面々にはやはり何の影響を示しはしない模様であり。しかも、

  「…おや。お前、もしかして“炎眼”の持ち主だったか。」

 そんな声を発したのは葉柱で。
「ひょんなことで思い出したばっかな昔話によく出て来たぜ。鬼さえ凍らす魔性の瞳。夜空に輝く蠍星の赤を含んでて、力は月齢に左右されるものの、英雄たちの邪妖退治の手助けをしてくれた…ってな。」
 高圧的な口調なのは、敵を前に気が嵩ぶっているから…というだけではなさそうで。
「炎獄の民が実際に活躍する逸話は少なくて、その少ない中、必ず出て来たのが“炎眼”が絡む話ばっかりだったが。…もしかして連中が滅んだのは“それ”のせいなのか?」
 仲間内の進を腐された意趣返し。挑発するつもりも、多少はあったに違いない言いようをした葉柱であり。だが、

  「………っ!!」

 まだよくは見えていない筈の彼
の男の視線が、立ち位置的には間合いのあった葉柱と彼との狭間の中空を、形ある刃のような強さで飛んで来て、
「…うっ。」
 ぐぅっと。声を詰まらせた葉柱が、僅かながらその背を丸めかかる。どんな矢よりも速い何かが、一瞬で間合いを詰めるほどの勢いで。彼の胸倉へとすっ飛んで来て、どんと胸板を叩かれたらしい。それまでは…仲間内が倒されてもどこかに余裕のあった様子だったものが、瞳の話で初めて示した生身の感情。逆鱗とかいうものだったのかも知れず、だからこそ抑えが利かなかった彼なのだろうが、
“これがその“炎眼”とかいうのの力だってのか?”
 詠唱なし、気の充填の気配もなし。だというのに、睨まれただけで相手の意志へと食らいつく。正に視線そのものが凶器になるという代物なのか?
「…葉柱さん。」
 息が出来なくなるほどではなかったらしいが、それでも苦しげに咳き込む彼に、至近にいたセナが思わず手を伸ばして背中を摩ってやれば、
「だ、だいじょうぶだ。」
 苦しげではあるが、声が出るまでには復活したらしく、
「図星を差されてカッとするなんて、結構可愛いじゃねぇかよな。」
 それまでのその男の余裕が鼻についていたのだろう。仲間が打ち減らされても、進を手中に収めていることなど、結構高度な術をばらまいた仕儀をこちらが既に把握していることを告げられても、痛くも痒くもないという態度でいたものが、初めて判りやすくも素の反応を見せた。
“…ま、自分の根っこを腐されて何も反応しない人間ってのは滅多にいないがな。”
 何といっても自分という存在の始まりだから。親や生国、民族を悪しざまに批判されて、怒るにせよ、はたまた“まったくもってその通り”とばかり、お恥ずかしいと嘆くにせよ、平気でいる者はまず少ない。葉柱の取った“挑発”は少々大人げなかったが、だが、それで判ったことがある。やはり彼らは、

  “…炎獄の民、とかいう存在、若しくは関係者だってことだ。”

 グロックスたらいう砂時計に刻まれてあった紋の示す存在にして、戦いに長けた、だが、滅んだことにされている民。事実、これでも外海の事情だって広く深く…ところどころで趣味に走って、落とし穴並みに深くまで。様々な事象を知っている身の自分たちが、今日の今日までそんな名前、聞いたこともなかったほどで。
“似非の神秘主義者とかいうのにも見えないしな。”
 冷静さのままに見やって来る蛭魔からの視線に気づいてか。はたまた相手に手札を見せ過ぎたからか、それとも。ついつい熱くなった自分だったことを、体裁が悪いとでも思ったか。

  「お喋りは此処まで。」

 やや大仰に肩をすくめ、スポークスマンだった彼は、再びその口許を薄ら笑いで塗り潰し、
「此処からは目的を果たさせてもらうよ。」
 彼のその一言で、倒されずに残っていた後の二人もまた、それぞれなりに身構える。先程、ぺらぺらと語り過ぎる彼へぎょっとして見せた男は、桜庭の正面で…片方の足を引き、体を半身に構えて素手のままに戦闘意識を高めて見せ、片やの剣使いの男は、さっきは桜庭へと薙いだ剣の切っ先を葉柱へと振り向ける正眼の構え。セナが横になっていたベッドが背後になっている分、ある意味でそこが無防備な空間になってもいるが、
「…吽っ!」
 まずはと。蛭魔との舌戦を進めていた男が、素早くも自分の胸の前にて切った何かしらの印が、その場にいた皆を飛び越えてセナへと直接向かう。さっそくにも懸念していた死角へとセナが追い詰められかけたが、

  《 αγδβζ…。》

 さっきは的確に、しかも懐ろという急所めがけて葉柱を襲ったほどに、途轍もないスピードでの威力を見せた“気功”が。今度はセナへと触れもせずに弾かれて、そのまま宙に散って消滅した。蛭魔の意識さえ掻いくぐった早業だったにもかかわらずのこの対応。セナ自身もキョトンとしているが、
“今の防御陣は…。”
 誰も気がつかなかったほどの特殊な防御を発動させていた者。唯一、守備の陣幕が薄い場所を、そんな格好で守っている誰か…と来れば、

  「あ…。」

 自分が気配を消す咒をかけてやったお友達。本当は聖鳥である奇跡の存在。そんな彼もまた、人知れずセナへの守りを構えていたらしく、
「いい仕事すんじゃねぇか、カメ。」
 にやりと笑ってそれを弾みに、こっちもまた…お喋りは終わりだと。剣を構えて相手へ斬り込む。
「哈っ!」
 剣技も得意な彼なのか、黒い道着に包まれた痩躯が無駄なく機敏に、連綿とした冴えた動作を披露する。剣を思い切り叩きつけては、それを何かで弾くことを想定しての二の太刀をすかさず繰り出し。そうかと思えば、剣の切っ先にこだわらず、手元部分で殴りつけるフェイント技も巧妙に織り交ぜる、徹底した畳み掛けぶり。押して押してという攻勢をあくまでも緩めない、強気で果敢な攻撃に、相手の男はあのサイとかいう武具を取り出していて、こちらもやはり素早くて隙のない対応を見せている模様。一方で、
「呀っ!」
 桜庭へと立ち向かって来た男は、完全に素手での立ち会い。驚くべきは自分へと向かってくる刃の切っ先を、何も持たぬ前腕の薙ぎ払いだけで左右へと避け飛ばしており、
“特に防具だって付けてないみたいなのにな。”
 筒袖になった装束の生地がいくら強いといっても限度があろう。こっちだってそれなりの修養は積んでいる身で、なまくらな攻撃をしている訳ではないのだし、現に…彼の所作にあおられて翻るマントが触れれば、容赦なく切り裂いてもいる。
“防御障壁の咒をまとっているのか?”
 いや、そんな気配は感じられないしと思うにつけ、武道の気合いのみにて鋭利な切っ先さえ受け流せるほどの、とんでもないレベルの達人であるらしいと思い知らされる。
“炎獄の民…か。”
 戦いの逸話に出て来る勇ましい民。なのにも関わらず、滅んでしまったとされている彼ら。戦闘しか知らなかったから、例えば風の巡りの暦も知らず、大地から恵みを得る術さえ知らず、それで滅んだのだろうか? 暴れ者であり過ぎて、周辺の他民族から集中攻撃でも受けたのだろうか? 確かに紡いだ筈の歴史さえ今はもう残ってはおらず、限られた里でのみ語り継がれた逸話にしか、その名が残っていなかった民。
“それがどうして、今になってこんなことを仕掛ける?”
 剣での攻勢の破壊力的有利さに任せ、ついつい気を取られていた隙を、こちらでは桜庭が逆手に衝かれており、
「わっ!」
 すい…っと。それは巧みにも自分の剣の間合いに飛び込まれ、そのまま喉元を…鋭く構えた手刀にて突き通されそうになり、
《 ウェール・ラ・トゥームっ。》
 大慌てで顔の前、手のひらを回し、咒を紡いで障壁を張り、その壁の中で剣を横に倒しての楯代わり。刃の側は手のひらを翳して支えての防御を構えたが、

  「…っ!」

 どんっと襲い来た衝撃はなかなかに重くて厚く。食い込むことだけは何とか防げたが、障壁はあっさりと砕かれてしまい、已なく、力を受け流すために後方へと身を逸らす。
“なんて集中なんだか。”
 人だからこそ出来る、念じの錬成。深くて強い思い入れ。他の雑念を一切合切捨てての一点集中という、寡慾さによる精錬・錬磨を瞬時に重ね、本人の意思だけでも、こうまでの鋭く苛烈な刃を繰り出せる。本能や反射などではない、自我と記憶とが紡ぐ複雑な意志を制御し淘汰し、限界まで研ぎ澄まさせた切っ先の、何と清冽で凄絶なことか。
“…でも。”
 すべての雑念、つまりは執着や愛着を全てかなぐり捨てての一点集中だということは、そうまでして遂げたい唯一の願望があるということ。そのためには、こんなことを…一国の中枢へ殴り込みをかけるなんて大それたことをしでかすことも辞さない彼らだというのが、尚のこと、不審でならない。蛭魔が想定した“クーデター説”さえ軽々と蹴倒してはいまいか?
“王政さえ視野にはない…って雰囲気がする。”
 ここまで警戒させておいて、実は…と国王陛下の方を襲われていたら? 自分たちは果たして、そちらへもこうまでの守りをこなせただろうか。今更にそれを顧みてゾッとし、だが、それは選ばなかった彼らだということが、一国の支配権をどうとでも出来たのに、そんなものは眼中になかったとする彼らの、こうまで限界臨界へと追い上げられた執着の行く先が一体何なのか。見えないから却って空恐ろしいと、痛切に思った桜庭だ。そしてそして、

  「…っ!!」

 セナを最も至近で背後に庇っていた葉柱が、こちらさんはきちんと修練を積んで会得したらしき剣技にて相手をすることとなった男は。先程の攻勢が物語ったように、やはり剣撃鋭い剣士であるようで。渾身の力を載せた刃を合わせての競り合いから、不意に引かれた剣がこちらの刃を吸いつけたまま、相手の間合いの内へまで釣り込まんとする巧みさに遇い、ややもすれば圧倒され気味。ほんの2、3度の刃合わせだけで、こちらの力や癖、間合いをしっかと把握し、駆け引きにおける呼吸をあっさり掴んだ勘の鋭さを持つ相手であり。それを下地に、フェイントを織り交ぜての緩急で揺さぶって来る、相当な巧者だと思われて。
“また、恐ろしく寡黙で、何にも読めないってのが不気味だよな。”
 無表情で口を開かないのみならず、果敢で苛烈なばかりではない巧妙さをも披露しつつも、それらが見事に通ったことでも勢いづく気配はなく。常に常に淡々としている、機械的なところが寒々と恐ろしく。
「呀っ!」
 今度はこちらの番だと、さんざんに打ち込んで来るのをギリギリまで溜めて堪えて、故意にこちらを追い詰めさせて。もう一太刀の我慢…と思った自分をさえ故意に振り切るランダムさを敢えて選んで、半ば倒れ込みかけた重心を、片脚だけでぐんと弾き返す。あまりに突飛な行動矢
ベクトルの強行。かなりの無理を…無茶とも呼べるほどのそれを繰り出したことで、そんな年齢でもないのに膝がぎりりと嫌な悲鳴を上げたが、そんなことにはこの際構っていられない。こうでもしないと隙なんて出来ない相手だから、半分くらいは破れかぶれで試みた突撃だったのだけれど、

  「………っ!」

 相手が葉柱をそれなりの順を踏んだ正統派だと踏んでいたことまで裏切れたのか、思わぬ間合いで強引に突っ込んで来た刃への対処を、一瞬迷った。彼の側が一方的な攻勢にあったところへの思わぬ反撃。叩き伏せるか、脇へ流すか。そのまま引き受けて手元へ釣り込み、葉柱が取った策のように大きな反発でもって強引に弾き返すか。いや、カウンター並の鋭い切り返しだ、引くだけの間合いはない。そんな瞬間的な隙をこそ狙っていた葉柱が、だが、

  ――― …っっ!!

 ハッと驚いて息を引いたのは。相手が身を引かず、剣の切っ先の先にあった顔さえ逸らさなかったから。顔や頭部は急所の塊りで、何があっても…獣であっても真っ先に反射で庇う場所。葉柱としても、当然後ずさるだろうところを追う格好で、相手を遠ざけようとまでしか考えてはいなかった。最初に蛭魔が断言したように、自分たちは彼らを出来れば一網打尽に捕らえたいのであって、殺したいのではない。情報を得たいのであって、存在を消したいのではない。よって、そこにはついのこととて心構えの温度差が生じもする。これでも封滅殺法の咒を極めた導師であり、場合によっては殺生というものも手掛ける覚悟だって持っているが、
「な、何なんだ、お前っ!」
 自分の顔、瞳の先へ真っ向から突進して来る刃に身じろぎもしないなんて、むしろこちらが気味悪くもなるほどであり、そんな躊躇から切っ先がぶれた。鋭い剣先は顔の脇、仮面の縁を掠めて流れ、選りにも選って、攻撃した方がホッとしたから…一体何をやっているやらでしたが。

  「………あまいな。」

 初めて耳にした彼の声。そして。片腕だけが伸び切った、不安定なバランスになった葉柱の体が飛び込んで来たのを、こちらも…自分の頭を犠牲にしてでも優先させて引きつけていた反撃の剣にて、脾腹から背中まで一気に突き通そうという構えでいるのが見て取れる。葉柱が躊躇したのは彼の側の勝手であって、相手へ情けをかけるのは自分を守れてからのこと。ここで身を裂かれても文句は言えない敵味方。
“クソッ!”
 目前で待つ刃の不吉な冷ややかささえ届くようで、思わずの事、表情を歪めた葉柱を、

  「…おお?」

 強引に後方へ、ぐいと引いた思わぬ力があったりし。覚えがないからこそ何事かと、これまた選りにも選って葉柱自身がギョッとしたが。
「葉、柱さ、ん〜〜〜っ。」
 それもまた咄嗟のことなのだろう。背後にいたセナが、葉柱がたたらを踏んだとでも思ったか、道着の背中や、右腕を伸ばした勢いに取り残されて背後に伸びてた左の二の腕を掴みしめ、可憐な体躯のそれでも全体重をかけて引き戻してくれていて。公主様からのとんだ救援があったもんだ。………もしかしてこれがセナくんの初戦闘になっちゃうのかなぁ。
(う〜ん)

  「チッ!」

 そこは相手もしぶとくて、暢気にも見送ってなどいない。逃げる格好になった葉柱を追って剣を伸ばして来る彼であり、
「…つっ。」
 こちらは逃れようと身を躱せないのが、不利といや不利な立場でもあり。
「葉柱さんっ!?」
 ギリギリのところで躱し切れず、道着の肩口を結構深く引き裂いた攻勢を敢えて受け止めて。さぞかし痛むに違いないのに、片腕を背後へ回してセナを捕まえ、離れるなと引き寄せる所作。間近に寄っていてくれた方が、攻勢を繰り出す隙を伺いつつも注意集中しやすいからであり。そういった呼吸の合わせ方は、進に守られていた時は言われずとも取っていた自分だったことをセナの側でも思い出す。暴漢に襲われた時や、気の立った野獣のテリトリーに入ってしまった時。何の力も発揮出来ないのならせめて、お邪魔はするまいと必死でついて行った。無論のこと、進の方でもセナの非力さ、それでも頑張ればどこまでだったら追従出来るか…などなどを、ちゃんと把握していたのだが。

  “進さん…。”

 どれほどの安心で守られていた自分なのかが身に染みる。自分も頑張らねばと、気を張って動けたのは、それほどまでの安心を…信頼を、無言のうちにも下さったからだ。絶大なる自負から…強さから、必ず守りますと感じさせてくれた人。だから、身を凍らせるような恐怖なぞ、ずっとずっと縁がなかった。何も言わない人の、もっと寡黙な背中が、なのにとっても頼もしくて。
“…こんな時に。”
 ふるふるとかぶりを振って振り払う。今ここに居ない人のことを引っ張り出してどうするか。今の今、御自身の身を呈してまでセナをお守り下さっているのは誰だ? それを自分へと言い聞かせ、きりりと表情を引き締めて、顔を上げたセナの………その表情が。

  ――― 信じられないものを見て、堅く堅く強ばってしまう。

 すぐ前へ立ちはだかって下さっている葉柱さんの、傷ついた肩につい触れてしまったらしく。痛みに眉を寄せた彼もまた、そんな自分の身の竦みが隙にはならぬかと、素早く我に返って………上げた顔が、呆然となってやはり強ばって。そんな彼らが見つめる先には、葉柱への攻勢にのみ集中している敵の剣士がいたのだが。先程の葉柱からの一閃が留具か何かを裂いたのか、丈夫そうな革の仮面が顔から滑り落ちており。その下から現れた相手の素顔が……………。



   「………………………進さん?」



 あんなに切望していたのにね? 不思議と…信じられない。こんなにも間近に現れた人。いや、元から居たのだが、それは相手の駒としてで。なので、自分へと向ける意識の色合いも違ったし、むしろ気配さえなく、あった人。しかも…葉柱が守っていた存在をこそ狙っての乱入だということ。理解していればこそ、何の衒いもないままに彼らへ剣を振り翳していた彼でもあって。

  “洗脳でもされたのか?”

 考えられないことではない。相手陣営はかなりの上級咒の使い手集団でもある。直に対面してではない方法でもって、対象へ強烈な操作暗示をかけられるほどの。よくよく見やれば、その額には。ざんばらな漆黒の髪の隙間から、朱色の円陣が描かれてもいるのが覗いており。どこかで見た文様…そうだ、あれはあの砂時計にあった、グラデーションのついた炎が幾つか絡み合って丸くなってた、葉柱が指摘した彼ら“炎獄の民”を差す紋章ではなかったか。………だが。

  「進さんっ!」
  「………っ。」

 セナが上げた悲痛な叫びに、動きが止まったのもまた、揺るがしようのない事実。そしてそして。膜でも張っていたかのように、どこか虚ろだった彼の眼差しに、あの冴えた光が戻ってくる。額髪の陰、朱色の文様が、砂が乾いて落ちるように、音もなく抗いも出来ずに サァッと消えて、

  「…セナ、様?」

 正に“我に返った”という観のある表情で、まじまじとセナの顔を見やる彼であり。
「………っ。」
 感に堪えたように言葉が続かなくなったセナの、今にも咬み潰されそうな唇や大きな瞳へと浮かんだ涙に気がついて。ハッと眉をひそめると、済まなさそうな顔をする。悲しいのではなく、嬉しいのだと。それで、それだけでこんなにも泣かせてしまった原因が、他でもない自分にあるらしいと。そこまでを判っての、伏し目がちな顔をした進であり、

  “…凄げぇもんだよな。”

 桜庭の得意分野、愛の力の物凄さとかいうやつを、自分たちは目の当たりにしたんだなと。葉柱も蛭魔も否応無しに実感し、現状を忘れ去って、それぞれなりの苦笑を見せる。
「セナ様。」
「進さ、ん…。」
 心配したよ? 凄っごく凄っごく心配したの。でも、逢えて良かった、ご無事で良かった。かけたい言葉は山ほどあるのにね。今の今、口を開いたら、そのまま声を上げて泣いちゃいそうだから出来なくて。涙で進さんが見えなくなりそうで出来なくて。
「セナ様。」
 深色の瞳、精悍なお顔。大きな、優しい手がセナの髪へと伸ばされる所作もそのままだ。ご心配をおかけしました、ごめんなさいと。畏れ多くて抱き寄せるまでは出来ないからせめてと、嬉しさや何や、感情的な衝動を押さえ込んだ上で示して下さる優しい触れ合い。年端の行かない幼子みたいにそれが嬉しいセナでもあって、当然のように逃げもしないでいたのだが。


  「そのまま搦め捕れっ!」

 蛭魔と対峙していた男が、素に近いのだろう怒号のような声を張り上げる。そんな一喝にあったことで、周囲がはっとし、我に返った。情況に呑まれたようになってしまったことで止まっていた時間が動き出し、シビアな現実というものを強引に叩き起こそうとした彼であり、
「貴様っ!」
 これに関しては好き勝手させないと、蛭魔が先程よりも大きく振りかぶっての剣を振るう。ペースや組み立てが何だというよな、ザクザクとした力任せのぶん回し。それを避けねばならなくなる分だけでも、相手から集中を削りたくての攻勢だったが、冷静さを欠き、躍起になった分だけ、こちらがやはり不利にもなっているようで。振り返りもしないままの後退で刃を避けつつ、勝ち誇ったように余裕の笑みを復活させている彼なのが心底忌ま忌ましい。

  「………進さん?」

 セナへと伸ばされかかっていた手。まるでご褒美みたいに好きだった、温かな手、優しい、頼もしい手。それが中途で止まり、ぐっと握り込められ、そして、

  「あ…っ。」

 次にゆるやかに開いた手は、セナを撫でるでなく、命じられたように掴むでなく。軽く…彼なりの最大限の気遣いでもって、優しい力加減を込めたまま、

  ――― とんっと。

 セナの細い肩を突き飛ばし、傍らにいた葉柱の懐ろへと押しやったのだ。
「進さん?」
 何が起こっているのかを、一番把握していなかったのはセナだろう。

  ――― どうして彼が、自分を遠ざけるような真似をしたのか。

 突き放すような所作を見せたのか。それをどうしても理解出来なかったのは、蛭魔たちへの背信にもなりかねないが、彼が居てくれるのならついて行ったって良いとまで、そうまで…すがるような心持ちでいたからに他ならず。だが、

  「引くぞっ!」

 桜庭との競り合いを構えていた男が、後ずさりを始めた進から情勢を見切ってだろう、頑強そうな腕を伸ばすと、黒髪の剣士の襟首を力任せに掴み取る。空いた手では何かの咒陣。宙に刻めば、倒れたままだった仲間たちの姿が消える。そうやってから、自分もまた、進と諸共にその姿を空気の中へと掻き消してゆき。
「待てっ!!」
 亜空間経由でとんでもない別の場所へ。そんな次空転移の気配を感じ、追いかけんとした蛭魔へは、
「付け焼き刃じゃ、やっぱ無理があったみたいだね。」
 くすすと笑ったのは、進への暗示だか封じだかがセナの呼びかけで解けたことを差してだろう。さっきからのずっと、苛立たしいことばかりをわざわざと並べてくれていた対戦相手が、今度は随分と感情の気配も濃い苦笑をその口許へと浮かべており、
「忌ま忌ましいったらないね。またの機会に決着をつけようや。」
 するりと伸ばされた手が、蛭魔の頬へと零れていた金色の後れ毛をふわりと掬い上げている。
「な…っ!」
 何をしやがるっ、忌ま忌ましいのはこっちの方だ、ごらぁっと。一気に怒鳴ろうとした自分の前へと、もしかして瞬間移動を使ったのかと思ったほどの早業で立ち塞がった背中があって、

  「この子に馴れ馴れしく触ってんじゃないよ。」

 ………桜庭さん。何でそうまでの迫力を、しかも今になって発揮してますか、あんたって人は。睨み据えられ、肩をすくめた男が、後ろ向きのままで背後の壁へと後退してゆき、ハッとしてそれを追おうとした蛭魔が、だが、その壁へと白い拳を叩きつける。

「チッ! 俺らが張ってた結界の上へ、輻輳結界を重ね張りして逃げやがった。」
 複数の人間の咒を重ねて張ってあった強固な結界。ここへの突入で苦労させられたそれをちゃっかりと利用し、その強靭な網目に自分たちが開けた穴へ、今度は彼らが同様の輻輳結界を張って、すぐには追って来れないようにされている…ということだろう。とりあえずはボクらが張った分を解除しなきゃねと、桜庭がどうどうと怒り心頭な蛭魔を何とか宥めてやっており、そうしてそして………。

  「………………………進さん。」

 もはや何の影も無い壁を見やり、セナの胸には再びの失意が込み上げて来そうになった。またしても、気がつかなかった。最初からあんなにも間近にいたのにね。やっぱりこれって自分の…公主とは名ばかりで全然至らない自分のせいで、進があんな難儀に遭っているのかも? 小さな肩をなお落とし、すっかりとしょげているセナの背中へ、大きな手のひらがポンポンと当てられる。はやや?とお顔を上げれば、セナを守って奮戦下さった葉柱さんが、口許をにっかと ほころばせていらっしゃり、

  「とりあえず、元気で無事ではあったようだな。」
  「………え?」

 何のことかと、一瞬理解が追いつかなかったが。頼もしい大柄な姿の、されど結構な姿になっている彼を見て、あれだけの立ち居振る舞いをこなせた進のことを言っているのだと、想いが至る。桜庭を、葉柱を、真剣本気で対処せねばと感じさせたほどの、気魄の籠もった剣を振るうことが出来ていた彼であり。蛭魔あたりに言わせれば、
『無事なもんか、しっかりとボケまくってやがったじゃねぇかっ!』
 などと言い出して、凄まじい剣幕で怒っただろうが、

  「ありゃあ ただの“暗示”止まりだな。洗脳は受けてはいない。」
  「あ………。」

 進がセナにどれほどの思い入れを寄せているかは葉柱とて重々と知ってはいるが、それでも…その意識を総浚えされ、丸ごと塗り替えるような洗脳をされた者が、ああもあっさりと我に返れはしなかろう。セナという要素が及ぼす作用だって拾われている筈で、受け入れないようにと激痛が放たれるとか、それなりの対処が取られるのがセオリーというもの。
“まあ、それを言ったら、わざわざ拉致ったあいつを、何でまたこんな奇襲の手勢に駆り出してんだか、だけどもな。”
 まだまだ謎は多いまま。長い長い一日が、次々に襲い掛かる衝撃でこれ以上はないほどにも翻弄され尽くした彼らを宥めるようにして、ようやくの優しい黄昏どきを迎えつつある。とんでもない騒乱の、これはまだ初日にすぎなくて。新しい季節は選りにも選って、途轍もない嵐を呼んで訪れてくれたようであり。春の夕暮れ、心をざわめかせる嵐の予感。これだけは言えるのは、どんな脅威も怖くはなかったその支えが、今のセナには居ないということ。



   “進さん………。”









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  *お待たせいたしました。(ぜいぜい)
   第一章はこのシーンを書きたいばっかりに、
   私本人もまたじりじりとしておりまして。
   さあ、真相究明と反撃への行動開始…に速やかに運べたらいいなと。
(こらこら)