仔犬のワルツ
 

 
          



 日本の雨季とまで呼ばれ、梅雨前線が長々と居座る"梅雨"があるのに、六月の旧名は"水無月"という。これは、今の六月と旧暦の六月が微妙にズレているからで、昔の六月は今の七月頃。梅雨が明けてからりと晴れ出す頃合いだから"水無月"でも成程支障はない。ちなみに、今の六月は旧暦だと五月にあたり、松尾芭蕉の俳句などに出て来る"五月雨
さみだれ"が梅雨にあたる。晴れやかな日によく使われている"皐月晴れ"というのも、爽やかな五月の晴れた空ではなく、雨の多い中の希少な晴れ間だから格別だという意味から生まれた言葉だそうな。



 近年には昔ほどの雨量ではなくなったかなと思う年も増え、今年の梅雨もさほど連続しては降らずで。とはいってもからりと晴れる日はさすがに少なく、湿度は高いは蒸し暑いわ、そうかと思えば急に冷えるわで、スポーツを嗜
たしなんでいる者には体調管理へ殊更に気を遣わねばならない時期でもある。何たって"継続は力なり"が基本なのは今も昔も変わりなく、激しく苛酷な特訓は疲弊を招くだけで馬鹿げていると科学的にも証明されているものの、日々の鍛練を怠らない"習慣性"が物を言うのは文化系のお稽古と同んなじで。

  『汗をかいても体を冷やさないようにな。』

 スタミナや体力といった持久力も、反射神経や体のバネといった瞬発力も必要な、ランニングバックというポジションの自分へ、走り込みのロードワークに付き合ってくれながら、様々なアドバイスをくれる頼もしい先輩さん。走る前には体を十分に暖めて、足首や膝、股関節は勿論のこと、肩や手首などの関節までもしっかりほぐしておくこと、とか。水分補給は怠らないこと、走った後のクールダウン、整理体操も忘れないこと…と、走ることが仕事である自分へ、濃
こまやかにアドバイスしてくれて。
"進さんは、それだけじゃなく、腕力とか、背筋力とかも、つけてるんだもんな。"
 時間や都合が合えば一緒に走る日もあるものの、彼はそもそも他校のチームの先輩さんだ。自分の少し先を、一定のペースを保ったままに走り続ける大きな背中。汗が少しほど滲み出し始めている、グレーのフードつきトレーナーの下で、引き締まって頼もしい筋肉の束がそれは撓やかに躍動しているんだろうなと、瀬那には容易に想像出来る。自分のポジションが敵ディフェンスを掻いくぐってゴールまでの完走を目指すランニングバックなら、彼のポジションは…そんな一陣の疾風の進撃を是が非でも捕らえてフィールド上に叩き伏せ、相手陣営のタッチダウンを阻止するラインバック。セナ自身も何度も何度も捕まっては突破を阻まれた経験がある。いや、むしろ…そんな壮絶過激な対峙から始まったお付き合いだと言った方が良いのかもしれない。
"最初はてんで歯が立たなかったんだけれどね。"
 何をまたご謙遜をvv ホワイトナイツの孤高の騎士、難攻不落な防壁に果敢にも挑みかかって。何度も何度も薙ぎ倒されながらもトライを続け、最後にはとうとう風穴を空けて、その進さんに関心を持たせた光速の走り
(ラン)をほんの一試合の中で育んだ、驚異の素人さんだったくせに。
"それって…。"
 あはは、微妙に"褒め言葉"じゃないかも? 内気な姫様をからかうのはともかくも。
(笑) そうそう、騎士様のお話でしたね。高校アメフト界の最強最速、音速の騎士・進清十郎。相手のパスを中途でカットするインターセプトへの俊敏な勘と反射はもとより、スピードの乗った人一人を片腕で難無く引き倒せる豪腕に加えて、冷静で洞察力に優れ、しかも快速俊脚の持ち主と来て。
"何とか擦り抜けて走り抜ければいいボクよりも、ずっとずっと大変なポジションだもんな。"
 ゲーム展開を瞬時に読み取る洞察力により構築される、無駄のない動線確保と、研ぎ澄まされた瞬発力&高校最速の俊足による容赦ない追撃。そして、加速の乗った突破突撃を、真っ向正面どころか片腕半身で十分に食い止められる、高校最強の腕力を生かしたタックルは、振り切っても背後からぐんと伸びてくるほどの守備範囲の広さが曲者の、最終兵器"鬼神の槍・スピアタックル"。こうして並べるだけでも、
"ふやぁ〜〜〜。"
 あらためて感じ入ってしまうほど、何から何まで行き届いて厚みのある、完璧な人だなとつくづく思う。そんな人が、
"そんな人が………。/////"
 単なる間柄を思い浮かべようとするだけで頬が"かぁ〜っ/////"と赤らむ純情さを、依然として持ち続けている彼へ、
「…休もうか?」
 肩越しにパートナーを振り返り、急に俯いてしまった瀬那だと気づいて、気遣ってくれるようになった人。小さな小さな恋人さんには、他へよりももっと分かりやすく、彼の側から手を差し伸べるようになった人。
「あ、いえ、あの…。」
 まだ大丈夫ですようとかぶりを振って、ランニングを続けようとしたセナだったが、そんな彼の言いようへ…口許を薄く薄くほころばせる進さんで。
「湿気が多いし体感気温が低いから、汗をかいてないような気がするのだろうが。」
 その場に立ち止まり、すっと伸びて来た大きな手が前髪を掻き上げてくれて。小さなおでこに張りついてた前髪の下には、進さんの手が ぴとんってくっつくほどの汗。
「あやや…。/////
 何故だか"ごめんなさい"と慌てて謝ったセナくんは、粘着力が緩いシールが やわく剥がれるみたいに離れた進さんの手を掴まえると、トレパンのポケットに入れてたハンドタオルで大きな手のひらをごしごしと拭いて差し上げる。そんな彼を苦笑混じりに見やっていた進さんは、そんな彼に代わって…向かい合った小さなおでこや耳の真下のおとがい辺りを自分のタオルで拭ってやって。ついでに、パーカーとTシャツの下、背中に広げて入れてあった"汗取りタオル"を、眼下に覗けたうなじから一気にごそっと引き抜いてやる。
「あっ。」
 汗を吸わせておいたタオルであり、こうすることで汗が冷えてそのまま体をも冷やすのを防ぐことが出来る。これもまた冬場に進さんから教わってた注意事項で、忘れないで守ってたセナくんである辺り、いやいや相変わらず仲のお良ろしいことでvv
「…ふや。」
 涼やかな風が火照った頬を掠めてゆく。久し振りに晴れ間が出たからと、二人が走って来たのは河川敷の上の土手。進の自宅とセナの自宅の中間になるのが、大体泥門高校辺りとなってしまうので、二人が試合後に再会した縁
えにしも深い、あの黒美嵯川の土手にて待ち合わせることがたまにある。こういう湿気の多い時節は、いつもの緑苑奥のグラウンドだと足元がぬかるんでいるため勝手が悪くて。それでとこちらを走るようになった彼らなのだが、とはいっても今日でやっと2回目のことだ。当初はこういう間柄であることへの"慣れ"がなかったせいで、間が持たないから…と、気がつけば体が動いていた、色気も何もない困った恋人同士であった彼らだが。今では街歩きからお膝抱っこまで、一通りの"逢い方・過ごし方"をこなせるようになったため、こういうおデート自体がむしろお久し振り。
"お、おデートって…。/////"
 ………往生際が悪いところは相変わらずであるらしい。
(笑)
「ペース、早くはなかったか?」
 一緒に走るのは久し振りだったものだから。身長差からストライドが違うのだというのを忘れていて、ついつい日頃の自分のペースでたかたか走ってしまったと、頭にかぶっていたフードを降ろしながら訊く進さんへ、セナくん、ぷるぷるとかぶりを振った。
「気持ち良かったですよvv
 相変わらずといえば、自分の素性…アイシールド21であるということを、チーム内にでさえひた隠しにしているのも相変わらずなセナであり。高校アメフト界に彗星のように現れた、光速のランニングバッカー"アイシールド21"は、その素晴らしき活躍を注目されつつも、どこの誰なのかという素性を依然として伏せたままだ。そんな訳だから、小早川瀬那くんの表向きの立場もまた、依然として"主務"のままであり、よって、プレイヤーでもないのにハードな練習には表立っての参加が出来ない。
「体慣らしのロードワークくらいしか、大手を振っては参加出来ませんから。」
 きっちりとした走り込みやダッシュの練習は、人目のない時にこっそりとでしか こなせない。だから。大きな背中がぐいぐいと引っ張ってくれるような、それは力強い走り込みが久し振りに出来て、本当に気持ちが良かったセナくんで。晴れ晴れとしたお顔で言う言葉には嘘もなかろうと、進さんも納得はしたらしかったが、彼の窮屈そうな立場が不憫だなとか、そんな風に思うこともあるらしく、
「当たりの稽古がしたければ。」
 いつだって付き合うからと、小さな背中をぽふぽふとそっと叩いてくれる優しい人。この、高校最強のラインバッカーさんと真剣な真っ向勝負が出来るだけでも凄いことだのに、その立ち合いを想定した練習の相手をしてやろうとまで言ってくれる。
「そ、そんな…っ。」
 そんなにまで恵まれていても良いのだろうかと、咄嗟に見上げた相手のお顔が、それはそれは…ちょこっと分かりにくいけど、ほっこり目許だけ和んだので。
「あ…。/////
 こんなに男臭くて凛々しい人が、力強くて雄々しい人が。フィールドの上ではともかくも、日頃は君しか見てはいないよと、精一杯の優しいお顔をしてくれるから。誰よりも特別という扱いをされるたび、身も心も丸ごと空へと浮かびそうな心地になる。こんな"素敵"はそうそうないから、
"慣れちゃったら勿体ないものね。"
 あわあわと慌てたりドキドキするのは相変わらずだけれど、そんな気持ちの中核にはね、嬉しいの度が過ぎて、いっそ切なくなるよな"きゅう〜ん"って想いが一杯いっぱい詰まってて。そんな甘酸っぱい気持ちさんたち、持て余さずに素直に堪能しようって思うようになった、ちょこっと進歩したセナくんだったりするのである。………と。

  「で。その子は、知り合いなのか?」
  「はい?」

 背の高い進さん、セナくんと交互に…という視線にて、セナくんの背後の誰かさんをも見下ろしていた。えっ?えっ?と慌てて振り返った瀬那くんの、すぐ傍らの足元に、

   「………あ。」

 ちょこんとお座りしていたのは、見覚えのない一頭の仔犬である。しかも、
「わぁ〜〜♪」
 よ〜く手入れされた子であるらしく、ふさふさふかふかの毛並みが綺麗で愛らしい、お行儀も良さそうな仔犬で、
「この子、シェルティですよ。」
「シェルティ?」
「はいvv
 正式名称…というか、省略しない名前を"シェットランド・シープドッグ"といい、
「コリーの子供ではないのか?」
 おおお、進さん、コリーは知ってたのね。映画の『名犬ラッシー』を覚えていたんでしょうか。(こらこら、世代が違うって。/笑)そんな彼のお言葉へ、
「似てますけど違います。」
 コリーの子供だと、こんなにもつややかで色合いがくっきりした毛並みは、まだ生えそろってはいない筈。それに顔の目鼻立ちのバランスも微妙に違う。
「知り合いのお家にいるんです。」
 それで見分けがついたセナらしく、しゃがみ込んで向かい合うと、そぉっと首の横や背中を撫でてやる。見知らぬ犬の場合、いきなり頭に手を伸ばすのは危険。たとえ飼い犬でも警戒して噛みつかれる恐れがあるのでご注意を。とはいえ、
「あんっおんっvv」
 このワンちゃんは相当に人懐っこいらしくって。ふさふさの毛並みをまといつけたお尻尾を、はたはたと元気に振って、ご機嫌だという意思表示。
「そんなに汚れてはいないな。」
「…あ。」
 少し長いめでふかふかの毛並みはつややかに気持ち良く、濡れても汚れてもいない。周囲の土手には、夏を間近に控えているとあって結構伸びて来た草に、ここ数日分の雨の水滴がたっぷり含まれているというのに?
「じゃあ、ついさっきまでは乾いたところにいたんでしょうね。」
 散歩の途中、それもお家から出て来てさほどの時間も経っていないというところか。
「犬は走っているものを本能で追ってしまう習性があるというからな。」
 走り抜けるスクーターや車の足元のタイヤに向けて、わうわうと吠えながら至近まで近づいてって追っかけてゆく危ない癖のある犬を飼っていたことがある筆者ですが、これってそんな相手をテリトリーを侵しに来た奴だと思うからだそうで。土手の上、ジョギングコースを軽快に、やや速足で駆けていた彼ら二人を追って来たのではないかと、そうと言う進だったが、それにしては…、
「いやに嬉しそうに見えるんですけれど。」
 口角が上がるとか目許が細まるとか、人間ほどはっきりとした、そういう表情は浮かべないものの。それを言ったら…寡黙で表情が乏しい人との深いお付き合いがあるセナくんだから。(おいおい)敵が来たから追い回したんだよというような、挑発的なお顔ではなく、駆けて来た余韻からはうはうと舌を出した、愛嬌たっぷりな丸ぁるいお顔。お尻尾をふりふり、鼻先をくっつけて来ては、屈み込んでいるセナの、間近になったやわらかな頬をぺろぺろと舐め回す可愛い仔犬。
「やだってば、あはは…vv 擽ったいって、こら…vv」
 なかなか人懐っこいお愛想の振り撒きようであり、小さなもの同士がじゃれ会う姿は何とも愛らしくてほのぼのと、見ているだけでも心が和む。…って、進さん、暢気に眺めてますが。もしかしてセナくんは少し困っているのでは?
(笑) 毛並みに埋まりそうになっている真っ赤な首輪には、楕円形の金のプレートが下がっている。それに気づいた進さんが、セナの後方からスルリと手を伸ばして摘まみ上げ、刻印がある面を指先に平らになるように載っけた。
「あ…電話番号ですよ、これ。それと、KING。キング?」
 刻印を読んだ途端に仔犬が"あんっ"とお返事をしたから、これはこの子のお名前だろう。小さいのに随分と偉そうなお名前で、セナは何とか立ち上がり、パーカーのポケットに手を突っ込むと携帯電話を取り出した。
「かけてみましょうか? 迷子なら心配してらっしゃるでしょうし。」
 そんなセナを追うように、まだ遊ぼうようと仔犬も後足で立ち上がっている。前足をトレパンへと引っ掛けて"あんっあんっvv"と弾むように吠えた声に、

  「………、おーい、キング〜っ。」

 どこかからの呼び声とが重なった。
「あ。」
 キングというのはこの子のお名前。ということは。飼い主さんが探しに来たということか。ボタンを押しかかってた携帯をポケットに戻したセナが、そうと声をかけようとして見上げた先の進さんは、だが、

  「…?」

 傍目には日頃の無表情との差が分かりにくいかもしれないが、眉をわずかに寄せ、何だか怪訝そうなお顔。
「どうかしたんですか?」
 こちらもまた怪訝そうな…というか心配そうなお顔になったセナくんの手元から、小さな仔犬が回れ右。彼らが走って来た土手を逆走してゆき、がささっと草むらに飛び込んで行って数刻後、
「わっ、こらキング。」
 そんなお声が弾けるように土手下から聞こえた。

  「お前〜〜〜。リード外した途端に脱走とは良い度胸してるじゃないか。
   俺は進みたいに
   片手でセナくんみたいな光速の脚力自慢を捕まえられるような
   "化けもん"じゃないんだからな。」

   ………はい?

「???」
 あれれ? この言い回しって? それに、このお声って聞き覚えがあるような。キョトンとしていたセナくんの傍らから…さすがは機敏なラインバッカーさん、そ〜れは素早く軽快にそちらへと足を運んでいて。
「誰が"化けもん"だ。」
 草の柵越し、その向こうへと声をかけた途端に、
「どひゃあ〜〜っ!」
 相手が慌てふためいたらしいリアクション。おやおやあれれ?

  "この合いの手って…。"

 今度こそセナくんにも重々と覚えがある。日頃から寡黙でどこか口の重い進さんが、唯一、打てば響くという感じの即妙なリアクションを返して軽快な応酬が出来るお友達。しかも、自分の名前と"光速の脚力自慢"という特徴を結びつけられるのは限られた人だけだから…。
「あ、まさか。」
 膝の辺りまで伸びた草むらに分け入って、足元にちょこまかと跳ね回るキングを引き連れて戻って来た進さんが、その二の腕を掴んで土手の上のジョギングコースまで引っ張り上げた相手はやはり、

  「桜庭さん?」
  「やあ、セナくん。こんにちは。」

 ついのこととして出たらしき、営業用スマイルが痛々しい。………何でこんなところに沸いて出るんだ、アイドルさん。





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