葛 湯

 

          



 腕力は自慢出来ないが、胆力も少々まだまだ心もとなく自信がないが。それでも体力はある方だと思っていた。小中学生時代に"使いっ走り"として悪ガキたちから追い回されたことが思わぬ形で功を奏して、とんでもないダッシュ力を身につけたくらいだからして、足腰は柔軟で瞬発力があるし。高校に上がってからは…表立っては内緒ながら、アメリカンフットボールというハードなスポーツの公式試合に、ほぼぶっつけ本番という恐ろしい起用のされ方をし続けて。それでも一応は遜色が無い活躍を見せてもいるほどで。これもまた、昔の"パシリ"時代にこづかれ続けたせいで"打たれ強くなってた"からなのかなとか、そういう思い出し方をするとあんまり有り難い蓄積ではないけれど。とりあえず、そういう覚えがあったから、少しくらいの無茶も大丈夫だって、もしかして思い切り過信していたのかもしれない。



『(ぴー…っ)…あ、進さんのお宅ですか? 小早川といいます。あのあの、今日の約束なんですけど。ごめんなさい、行けなくなりました。こんなぎりぎりの連絡になってしまってすいません。会いたかったけど、あの…なんかちょっと出掛けられなくて。また連絡しますね? それじゃあ。………ごめんなさいです。』



「………。」
 ベッドの上、布団の中で携帯電話の送信ボタンを押しながら、ついつい溜め息が洩れた。今日は金曜で、新学期が始まったばかりなせいか、さして行事もなく。それでも破天荒な先輩は

『偵察に行くぞっ!』

なんて、こんな妙な時期だというのに張り切っていたりしたのだが。それで持って行くものの用意をしていた彼の指示で、何処に何が埋もれているのやらな部室のあちこちを掘り返し、バズーカの疑似砲弾だの爆竹だのという…何処まで本気だか恐ろしげなものを揃えていたらば。かんしゃく玉に何の弾みでか火が点いて、パニックを起こした自分たちの大騒ぎを静めようと、悪魔のような先輩さんが消火栓からの一斉放水をしてくれて。
"…風邪、か。"
 火事にならなかったのは幸いだし、そんなにもひどく濡れた訳ではない。ただ。先輩方が此処は良いからと言ってくれたにもかかわらず、とっとと着替えず、後片付けを優先してしまったせいで、昨夜から何だか熱っぽくなり。今朝起き出して台所で顔を合わせた母から、問答無用で自室へのUターンを命じられた。共働きで母も急には休めない身。それなのに、

『本多センセーに診てもらいましょうね。』
『良いよぉ、薬飲んで寝てるから。』
『ダメですよ。熱が高すぎる。肺炎とかこじらせてたらどうするの。』
『じゃあ一人で行くから、だから母さんは…。』
『何言ってるの。こんな重病人を一人でふらふらと歩かせられますか。』

 そんな押し問答の末、タクシーで往復することを約束させられ、
『お昼はテーブルのところにレトルトのおかゆと果物を置いてきますからね? いい? ちゃんと食べなさいね? それと、具合が悪くなったら必ず連絡するのよ? 我慢してこじらせたらもっと辛くなるのよ? 判った?』
 過保護というのではないのだが、やはり随分と久し振りの発熱だからだろう。これ以上いると遅刻するという寸前まで粘って、額に貼る冷却シートだの体温計だのを枕元にまで運んでくれて。掛かり付けの医者まで乗って行くタクシーを呼んでから、やっと出勤していった母だった。それからすぐにタクシーがやって来て。お医者にも連絡をしてあったらしくてすぐに診てもらえて、
『風邪ですね』
と、あっさり診断された。暖かくしてとにかく休みなさい。汗をかいたら寝間着は着替えて、くれぐれも冷やさないようにね。食欲が落ちるかもしれないが、ちゃんと口にしなさいね? 治るためのお薬を飲むためにと思えば、何かしら入るはずだからね? 小さい時からお世話になっているお医者様は、小さいままなセナだとつい思ってしまうらしく。噛んで含めるように注意事項を並べて処方箋を書いてくれたし、看護婦さんも…幼いセナが熱に浮かされて顔を赤くしている様がなんとも可哀想に見えたのか、隣りの薬局へわざわざ走ってくれて、しかも帰るタクシーまで呼んでくれたほどである。
"…そんなに重症なんだろうか。"
 医療関係者が患者を不安にしてどうするよ。
(笑) それはともかく。自宅に戻って、コートや何やをかなぐるように脱ぎ去って。たいそうな時間をかけてパジャマを着ると、ベッドに転がり、億劫そうにもそもそと布団の中へもぐり込む。丁度枕元になる机の上へ、据え置きの電話の子機がやはり運ばれてあって。それを見て思い出したように、床に丸まってたコートの袖を引っ張り寄せて、ポケットから携帯電話を掴み出す。メールの着信があって、開いてみると まもりから。特に待ち合わせて一緒に登校している訳ではないのだが、それにしては…委員会がない日でも早く出るセナに合わせてくれていたような。なかなか来ないから心配したのかなと思いつつ画面を見やれば、

   【おばさんから聞きました。
    部活は早くにしまうから、学校から帰ったら様子を見に行くからね。
    テレビ観てたりしないで安静にしているのよ?】

 母からのみならず彼女からも、水も漏らさぬという見守られ方をしているなと、何だか ほやりと暖かくなる。本当のお姉さんでもこうまで心配してはくれなかろう。お返事した方が良いのかな。でも、そんなことしてないで寝てなさいって怒られちゃうかもなと、電気毛布の温もりに…とろとろしながら瞼を降ろしたその瞬間。

   『………あっ!!』

 よくぞ思い出した。今日は蛭魔先輩が出掛けるから…という訳でもないのだが、練習は軽くで上がれるからと、逢えますよという約束をしていたのだ。他校のエース、王城ホワイトナイツのラインバッカー、進清十郎と。それで慌てて電話をかけた。携帯電話は持っていない彼だから自宅の方へ。だが、時計を見て胸が辛くなった。もう10時を回っている。とうに学校へ出掛けている筈で、ああこれではもう彼には届かない。行けないという事実を伝えられない。そうこう思っていると呼び出し音がほんの3回ほどで切れた。どうやら家の人もいないらしくて、留守番電話になっている。何も言わないで切るのも失礼かと、
"…一度家へ帰るのかもしれないし。"
 いや、それはなかろうと。コートを羽織ればさほど目立たないからと、放課後の逢瀬はやはり制服のままだった事を思い出したが、それでもと、先のメッセージを残して切ったセナだったという訳で。

   "……………進さん。"

 手の中の電話がまるで彼の一部ででもあるかのように。まじっと見つめる。すっぽかしたことになるのかな。真面目で実直、融通の利かないトコもある人だから、寒いのにずっと待ってやしないだろうか。
"…夕方までに少しでもマシになったら、泥門の駅まで行ってみようかな。"
 ああでも、まもりが様子を見に来る。出掛けるなんてとんでもないと止めるに違いない。ああもう、馬鹿だな。健康管理なんて、基本中の基本じゃないか。スポーツしてるなら、まずは気をつけなきゃいけないことなのに。もしも進さんがずっと待ってたのが原因で風邪とか引いたらボクのせいだ。どうしよう、どうしよう。…なんか暑いな。お薬、効いて来たのかな。眠くなって来た…みた…い。


   ――― 進さん。…ねえ。…………………………逢いたいな。









            ◇



   ――― ………あ。


 何だろ。何で目が覚めたんだろ。えとえと、あ、そうだ。玄関のチャイム。ああ、何か暑い。一杯汗かいたな。口の中、ちょっと酸っぱい。お水もほしいし、出てみよっか。コート羽織ったら大丈夫だよな。…おとと。あれ? ちょっと寝ぼけてるのかな。力が入んないのかな。真っ直ぐ歩きにくいや。…わぁ、廊下、寒い。んと、下に降りなきゃ………って、あわっ!




 何だか宙を飛んだような気がする。階段を踏み外したというよりも、バランスを崩して前へ、下へ倒れ込んだという感じで。一気に一番下、壁にバンッてぶつかってそのまま倒れ込むかと思ったんだけれど。………そういった衝撃はなかなかやって来なくって。

   "…あれぇ?"

 何かに凭れている。っていうか、体の前面を何かに押し付けられている。背中と、頭の後ろを固定され、誰かの腕にくるみ込むように抱えられていると気がつくのに、しばしの"間"が必要だった。抱えられている? 誰に?

   "えと…。"

 頭や背中を支えているのは大きな手。目の前にあるのはコートの襟元。すっきりしたおとがいの線の下に、引き締まった首条が続いてて、シャツの中に吸い込まれてて。

   "このシャツ、見たことある。"

 制服以外では、トレーナーとか襟のない首回りの楽な服が多いのに、一度だけ私服でシャツを着ていたことがあった人。ゆっくりと顔を上げ、相手のお顔を見上げながら、


   「……………進さん?」

   「ああ。」


 当然事のような単調な声を返す彼ではあったが………なんで? と小首を傾げたセナである。そうだよねぇ。何でまた、それもこんなタイミング良く。



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