Rain,rain
 


          



 今年の夏は何だかとうとう、夏らしい灼熱とはあまり縁がないまま、もう8月も終わろうかという頃合いとなってしまった。すっきりと晴れた日が少なかったせいもあるんだろうなと、今日も今日とて重苦しいグレーの雲が垂れ込めた空を窓の外にちらりと見やり、
"………。"
 何を思うでなく、だが。テーブルに広げていたノートパソコンの、マウスにもキーにも触れぬまま、大窓の外に広がる、豊かな緑の茂みやら芝草やらをぼんやりと眺めやる。盛夏を過ぎても初夏のままの配置配色の緑が瑞々しく、一見涼しげで爽やかではあるものの、夏の花たちはとうとう咲かなかったし、バラの幾つかは蕾が育たず、秋の開花が危ぶまれてもいる。…いや、そこまで細かいところへ憂いている彼ではないのだが、それでも…その表情は何だか力なくて。いつものような油断のない力みのようなもの、眼差しや気配の中にあまり感じられないままでいる。
"実際、かったるいよな。"
 秋の国民体育大会に出場するとか、新春明けてからその全国選手権大会があるサッカー部のように、その種目の属する協会主催の大会形式などにもよるが、泥門高校の最高学年生は、おおよそ、夏休みを限
きりにクラブ活動への参加も終しまいとなる。特に籍から除名される訳でもないが、受験を控える身であることから"引退"扱いとされ、活動に直接タッチすることは出来なくなる…のだが、
"まあ、あそこは"たまり"でもあるからな。"
 …まあねぇ。出入りは続けるんじゃなかろうかと、後輩さんたちも違和感なく受け止めて下さることとは思いますが。
"………。"
 それでも、もう当分は。あの、緑の風が吹き抜けるフィールドに、クレーコートならば土埃の霞が立つ"聖地"の上に立つことはなくなってしまったのだなと。少なくとも次の学校へと進級するまでは"おあずけ"なのだなと。そうと思うと何となく。気が滅入るというか、何というのか。
"………。"
 血が泡立つような…それでいて爽快な、緊迫感と高揚感の中に、この身を置くことはないのだなと。それを思うと何となく、何に向かい合っても覇気やら士気やらググンと下がって、そこはかとなくも やるせなくなるし、雨催
もよいの空も一際恨めしく見えてしまう。この休みの初めに参加した合宿で選りすぐりの面子による布陣にて、最後に思う存分駆け回れたのがせめてもの"いい思い出"になったというところか。
"………どこが選りすぐりの面子だったんだよ。"
 素直じゃないねぇ、相変わらず。
(笑) そんなところへ、
「坊っちゃま。」
 不意にかけられた声に我に返って、刳り貫きになった戸口あたりへと目をやれば、
「根をお詰めにならず、お茶になさいませ。」
 ゆっくりとワゴンを押して来た加藤さんであり、ああもうそんな時間かと気がついた。
「…ああ。」
 どうにも気が滅入るままなものだから、資料整理の作業までが捗らないでいるのを察してくれたらしい。ぱたんとモニター部を伏せて、テーブルの端へと避けたPC。代わりに並べられた優美な白磁の茶器から立ち上るは、芳
かぐわしきダージリンの香。日頃は飲み食いするものへそんなに凝ったりこだわったりしないのだが、
「…やっぱり旨いや♪」
 唇へ一口含んだだけで自然と口許がほころんでしまうほど、味にも香りにも深みがあって、ついつい気分も和んでしまう。一体どういうコツがあるやら、芳醇なコクが絶品の、それはそれは美味しい紅茶を淹れてくれる人。
"爺ちゃんや親父が帰ってくる訳だよなぁ。"
 理事長様や会長様辺りは、ホントだったら…よほどのことでもない限り、家人の求めくらいの理由ではこの自宅にまではなかなか帰っては来ないものが、せめて半年に一度くらいはこの美味しいお茶を飲まなくてはと、冗談抜きに"加藤さんの紅茶目当て"に必ず帰郷するほどの名人級。
「おかげで他では飲めないもんな。あんまり不味くて。」
 にんまりと笑った坊っちゃまからのお褒めのお言葉に、
「いたみいります。」
 柔らかな会釈とともに微笑を返す温厚そうな執事さん。豪奢で荘厳、立派な佇まいであるにもかかわらず、お子様たちが大きくなられた今では…ご家族それぞれがそれぞれの活動の場に離れて暮らすこのお屋敷。半端な広さではなく、作りにもあちこち凝った部分が多い、扱いの厄介な大邸宅を、だが…いつどなたが不意にお帰りになられても快適に過ごせるようにと保っていてくれているのが、この加藤さんのお仕事であり。殊に、現在唯一、日本に居残っている末っ子の、身の回りのお世話から様々な"我儘"へのフォローまで、何でもかんでもきっちりこなせる、それはそれは器用な人でもあって。だから…という順番では決してないのだが、彼からの信望も、もしかすると親御様たち以上に厚いそれを保持しているのかもしれない、奥の深い人だったりするのだが。
「…そうそう、そうでした。」
 そんな加藤さんが、ふと不意に。何かを思い出したような声を出した。
「坊っちゃま。キングをお見かけになられませんでしたか?」
「…キング?」
 彼の先のお誕生日に、年の離れたお姉様がプレゼントにと下さった、やんちゃでお元気なシェットランドシープドッグの仔犬。小型のコリーのような体型と毛並みだが、尖ったお顔はコリーよりもやや真ん丸で、小さな手足の愛らしい子。駆け回る運動量はウェリッシュコーギー並みなのに、たかたか駆けると白基調のつややかな毛並みがふさふさと風になびいて、見栄えの優美さ愛らしさはパピヨンをも凌ぐ、小型犬の中ではポピュラーな人気を誇る…と、ついつい愛犬雑誌のようなご説明を並べてしまったが、
「確か、昼飯を食った後に遊んだんだけれども…。」
 なかなか手が進まないでいた資料整理を思い出し、急ぐ代物ではないけれど、手が空いているのなら…とそちらに着手することにしたために、
「それからは見かけてないなぁ。」
 心当たりはないよと正直なところを応じると、
「さようでございますか。」
 それは困ったと、加藤さんが遠慮がちに眉を寄せる。
「なんだか怪しい雲行きですので、降り出す前に上へ上げておかないと…。」
「…あ、そうか。」
 加藤さんの心配の理由が、ここで坊っちゃまにも伝わった様子。くくっと苦笑し、
「あいつ、雨が好きだからなぁ。」
 有名な唱歌の歌詞のように雪に喜んで庭を駆け回るどころではない。雨の中を駆け回るのも大好きという、困った性癖のある子で、あの長い毛足をびしゃびしゃのぼとぼとにしたままに、喜び勇んで居間に飛び込んで来た前科はもはや数え切れないほどだとか。絨毯にソファーに小卓、肘掛け椅子…と、一応は一級品揃いの調度品たちで固められたリビングルームで。高価なものだというだけでなく、それぞれに家人たちの思い出も染み込んだ大切な品々だけに、そうそう傷むような扱いをする訳にもいかない。ご主人様想いの加藤さんにしてみれば、ご家族の皆様のお気持ちだって大切な財産だという意識も強い。言葉の通じない相手ならばせめてもの予防策を取らねばと思ったらしいのではあるが、いかんせん、相手はそ〜れはお元気な子なので、その行動を把握しておくだけでもなかなか難しい…と来て、
「降って来る前に捕まえとかないとな。」
 協力するよと、ソファーから立ち上がった金髪の坊っちゃまの視野の中、

  "………おっ。"

 窓を閉めていたその向こう、庭の突き当たりを示す鉄の柵に向かって。一直線に掛けてゆく白っぽい塊が見えた。物凄い素早さだったが、そこは…アメフトというスポーツを嗜む身。少々暗さが増した空の下。芝草の上へ がささっと飛び出し、すぐさま次の茂みへ飛び込んだ"それ"が、今話題に上がっていたやんちゃ者、シェルティのキングくんだときっちり見て取って、
「キングっ!」
 勢いよく大窓を開け放ち、それはよく通る声を掛けたのだが…返事がない。普段なら彼の姿を察知したそれだけで"遊んでくれるんだっ"とばかりに解釈し、声を掛けるまでもなく素早い反射で取って返して、弾丸もかくやという勢いにて手元へ飛び込んで来る筈なのに。距離があったならあったで、先触れ代わりに はしゃいだお声で"あんおんっ"と必ずお返事をしてくる筈なのに。うんともすんとも反応がない。
「???」
 ほんのさっきまで機嫌よく遊んでいたのにな、あれで結構 気難しいところもある子だから、何か気に入らなくて またぞろ臍を曲げているのかなと。思いはしても理由にまでは…やはり心当たりがないものだから、怪訝そうな顔になる坊っちゃまで。常なら"そうかい、そうかい、勝手にしろ"と放っておくところだが、ぽちっと頬に当たった水滴に気づいて、
"う〜ん。"
 そうも行かないかと、ポーチに出してあった庭ばきに履き代える。張り出した庇の先から庭へと連ねられた飛石のグレーを深色へと塗り潰しつつ、ぽつりぽつりと始まった雨脚は加速をつけて早くなっており、しかも雨粒の方も大きなものに変わりつつある。かなりの勢力を保ったままに、結構な勢いで降りながら移動して来た雨雲の到来であるらしく。そして…そういう驟雨(スコール)ばりの大雨が大好きな、いたって変わり者なワンちゃんでもあるので、これは早いところ捕獲しないとえらいことになる。
「キング〜、どこ行った〜? 帰って来〜い。」
 傘までは要らないかと、それでも小走りに、彼が飛び込んだ先の茂みの方へと分け入れば、その先から"あんっあんっ"という聞き慣れた声が。普段着のシャツやGパンが濡れ始めたのへ眉を寄せつつ、そちらへと注意を向けた彼だったが、
"………ん?"
 この勢いは尋常な鳴き方じゃあないなと、近づくにつれ、そんなことへも気がついた。自分の盛んな鳴き声の勢いに、その小さな体が後ずさりしそうなほど懸命に吠えている彼だと分かる。とはいうものの、不審者に対するそれのような、威嚇的、もしくは攻撃的な声音でもないような。
"???"
 一体何がどうしたのやら。依然として状況への合点がいかないままな坊っちゃまだったが、ただ…何となく判ったのは。さっき物凄い勢いで視野の端から端を駆け抜けていったキングだったのは、この先にある何かに向かって一目散に駆け寄った彼だということ。しかも、今現在のこの屋敷の住人たちの中では一番気の合う"遊び相手"のこの自分よりも、関心や興味を惹かれる対象である、ということになる。
「キング。」
 腰高な茂みが両側に沿う小道を足早に進んで、いよいよ遮るものが薄くなった鳴き声へと近づいて。柵に沿うように並べられたツツジの茂みの向こうにいるらしいと、その位置を把握したのとほぼ同時、彼が目標にした"対象"も柵の向こうに見えて来た。真っ黒で細長い鉄製の槍が居並んでいるような、ちょいと無粋な柵の向こう。誰かが立っているのが見通せる。こちらからも知っている人物だ。なんだ、それでかと得心がいったものの。何だか悄然としているような、悪い言い方で…幽霊みたいにぼんやりと突っ立っているなと小首を傾げたこちらの彼の表情が、だが、


   ――― ………え?


 はっとしたように強ばって、それから。不審げに眉が寄せられて。
"一体…。"
 どうしたんだろうかと、思いながらも足の運びは止まらなくって。そして、近づいて近づいて気がついた。まるで彼こそがこの雨雲を連れて来たかのように。もしくは、懸命に振り払おうと逃げて来たかのように。髪から顔から服の裾から、滴が垂れ落ちるほど、全身が濡れている。
「お前…。」
 一体どうしたのか、何があったのかと、訊きたいことが一気に…先を争って口から飛び出そうと仕掛かったのを、全部まとめて飲み下し、
「表へ回れっ!」
 柵に…彼に近づきながら、正門のある方を指さして見せる。
「おいっ、聞こえてんのか? 向こうだ、あっちに行くんだ。」
 柵を挟んですぐ間近になっても、ぼんやりとした顔のままで動こうとしない彼であり、もしかしてこちらが見えているのかどうかも怪しい様子。
"…チッ。"
 舌打ちをすると、足元で吠え続けているキングとついつい顔を見合わせて、
"しょうがねぇな。"
 肩を落とすように溜息をついてから、
「そこを動くな? そっち行くから…いいなっ!」
 反応のない相手に言い聞かせるように怒鳴って見せ、大急ぎで柵沿いに…自分の方が正門の方へと向かうことにしたのは、この屋敷の現在の主人代行、蛭魔妖一くんである。そして、やはり…聞こえているやらいないやら、
「………。」
 目の焦点さえ定まらない様子で、無表情なまま立ち尽くしていた…桜庭春人くんであったりするのである。





TOPNEXT→***