Little AngelPretty devil 〜ルイヒル年の差パラレル 番外編

    “妖野沼 綺譚”
 



          




 何とも陰気な場所である。水場のほとりなればこその湿気の多さに、季節柄のねっとりと生暖かい気温が加わって、しかも周囲を鬱蒼とした木立ちに囲まれているのが壁になるのか風もなく。とうに陽も落ち、夜陰の満ちるばかりな時間帯だというのに、何とも不快な温気がむっちりと垂れ込めていて。地表の大気には水の気配が うんとこ強いものの、肝心な池には泥地が続くばかりで水たまりさえなく。群雲に包まれてゆく月の影さえ その何処にも映さぬまま、じくじくとしたぬかるみだけが岸辺に沿って広がっていて、今や“沼”と化している。

  ――― 京の都の鬼門の場末。綾篠宮
(あやしののみや)という旧家の跡地。

 あまりに不気味な佇まいなものだから、昼間でも人がなかなか通りかからず、追い剥ぎさえ避けて通るとか。何でも昔々には、宮を冠するほどに名のあった貴族の本家があって、情緒ゆかしき庭の一部として愛でていたものの。悲恋の果てだか政治の上での派閥争いの末にだか、お家は没落、家族は離散。ご当主ご本人も自害なさったのどうのという、忌まわしいばかりの噂だけがこびりついており。沼畔
(ほとり)の一角には、回廊の柵さえ腐り落ちつつも何とか形だけが残っている、すっかり煤けてくたびれ切ったお堂には、日によっては恨みの人魂が青白い炎を揺らして徘徊するとかしないとか。そんなところから周辺に住まわる方々からは、転がる石が乾いた骨に見えるほどに荒涼とした“化野(あだしの)”の向こうを張る訳ではないながら、綾篠ではなく“妖野(あやしの)の沼”だと呼ばれているのだとかいう話。そんな怪しき陰気の吹きだまりにも、天からの施し、無表情な月光は降りおりて。

   ……………。

 温気の重き呪縛を清
(さや)かに祓って貫き通すように、蒼く冷たい月光が雲間から静かな刃を下げ降ろし。古(いにし)えの栄華の残骸の、何とも禍々(まがまが)しき陰塊を、そこから弾き出したいかのように、せいぜいみすぼらしくも浮かび上がらせている。下手に湿気があるせいで、涸れての風化も出来ぬまま、輪郭だけをいつまでも現世に居残らせ。その中身はもうすっかりと、じくじく腐って脆くなり。恐らくは幼子さえも支え切れない危なげなものと、この何年も誰もが近寄りさえしなんだ筈が。ぼろぼろ腐ってほどけて落ち、もはや外との隔ての役にも立たぬほど、骨組みだけの透垣のようになってしまった板壁の向こう。これも穴だらけな屋根天井から降り落ちる、澄んだ月光に細い肩を照らされて。なんと…誰ぞの人影が、埃のぬかるむ只中へ小さくなってしょんぼりと、たった独りで座っているではないかいな。

  “……………。”

 あまりに小さき可憐な存在が、そこはやはり怖いのだろう、身を竦ませての怯えよう。それでも…小さくとも華やいだ存在感をたたえているは、さすが生命の灯の目映さ、温かさということか。上質の紗だろうか、かつぎ衣をかぶっていても透いて見える豊かな黒髪は月光を受けて青みをおびた艶を見せ、ほっそりとした肢体を包む華やかな錦の衣装が、その金銀の綾に月光を反射させ、季節の花の縫い取りをちかりちかりと煌めかせている。昼日中であらばその彩
(いろど)りの鮮やかさも映えたろう、幾重かの色を重ねられた衣のその袖の手元からは、宝玉から刻み出したかのような小さな白い指先が覗き。その先ががたがたと震えているのだろう我が身を抱いている様が、何とも儚く何とも可憐。どうやら年若い姫御であるらしきその御姿、煤けて薄暗いばかりな陰気の中に、黙っていてもくっきりと冴え映えて。誰かがわざわざと示唆せずとも、ここにおわすと主張してしまうのがまた、場所が場所がなだけに悲しいほどにも痛々しい。何故ならば。こんな夜更けのこんな場所。時間も場所も、片方だけでも十分に、供さえ連れぬ年若き姫御が、たった独りでいるには不審でしかない条件づけで。本人様さえ怯えていなさる様を見るにつけ、これはもうもう、尋常な運びであろう筈はなく。そんな姫御が、

  「………っ!」

 ハッとして思わずのような所作にて顔を上げたのは、静まり返っていた空間のどこかで、ぴちゃりと。微かな微かな水音が、されどいやに大きく響いたから。大きなものが動いたような、ざばりと波の立つような音ではなく。空耳かも知れぬと感じるような、短い、滴の垂れる音。されど、音そのものはよくよく響き、まるでこの身のすぐ間近に落ちて来たようにも聞こえたものだから。怯え切っていらした姫御は、嫋
(たお)やかな所作にてその身を掻き抱いたほどだったのも無理はなく。そこへ、

  《 芭蕉の贄
(にえ)は 何処(いずこ)で おじゃるかのぉ。》

 無理からゆっくりと発声しているがため、語韻が全て猛禽の唸り声のように濁点混じりになっている。何とも不気味な声音での囁きかけが、地の底だろうか、それとも空の上からだろうか、何処やらからこちらへと間違いなく向けられた。その拍子に、
「…っ。」
 頭からかぶっていた かつぎの衣を取り落とし、つややかな黒髪をゆるゆると流れるように揺す振って。声の正体を見つけたいのか、それとも逃げ場を求めているのか。姫御が頼りないながらも立ち上がりかける仕草を見せた。生まれてこの方、一度として逆らったことなぞなかろう親御や家長から、きっちりちゃんと言い含められての諦めとともに此処へと据えられた御身であろうに。それでも…本能的・生理的に、得体の知れないものからは逃れたいとその身が動くのが、生き物全ての自然な習いというもので。だが、
「あ…っ。」
 その場に立ち上がったのとほぼ同時、足元から沸き立ったのは、泥を沸かすような泡立ちの音。ぼこりぼこりと粘着質な泡立ちの気配が沸き立って、それと共に、いかにも生臭い瘴気が勢いよく吹き上がり、

  《 さあさ、やんごとなき公達
(きんだち)を迷わせた、
    花の顔容
(かんばせ)とやらを、妾(わらわ)にもようよう見せておくれな。》

 くつくつと、意地の悪いことへの歪んだ悦びを滲ませた、何とも気色の悪い笑い声を響かせて。脆かった床板を破壊しつつ現れたるは………。


  「…何だ、ただのカッパの なり損ないか。」

   ……………はい?


 確かに…というと、こちらもまたその怪しげな存在から睨まれそうではありますが。月光の蒼白い光を浴びてぬらぬらと、苔だかカビだか水草だか、全身へまとわした不気味な怪物が ざばぁっとばかり。水の上へ張り出した格好になっていたお堂の底から、恐怖感を満載に煽って不気味にも登場したには違いないが、
「芭蕉の物怪
(もののけ)なんて仰々しい呼ばれ方をしていて、しかも人語を解せる高等(こうと)な邪妖。さぞや忌々しき鬼か邪神かと思っておったのにの。こうして見やれば、身の丈もさして大きくはない、ただのカッパではないか。」
 それにしたって一応は“人外”だろう、そんな邪妖のほんの至近に身をおきながら。すらすらと、ともすれば小馬鹿にするようなお言いようを並べたのが。先程までの静寂の中、ただただ怯えて座していらした筈の可憐な姫君だと来ては、


  ――― ははぁ〜ん、と。


 あああ、もう皆様にもネタは割れたにちまいなく。
(うう…。)白玉に刻まれし端麗さを誇った白い手が、片方は頭へ、もう片方は錦を重ねた衣装の胸元へと伸ばされて。ぐっと力強くも双方を引いたその下から、彼女の方もその“正体”が現れる。黒々と豊かに長かった黒髪は、実は見事な“かもじ(カツラ)”であったらしく。手入れの良いつやが月光に青く濡れていたものが、今度はその月そのもののように明るい色合いの、軽やかな金に輝く不思議な髪へと入れ替わる。そして、胸倉から一気に女性の装束を引き剥いだその下には、こちらもあでやかな錦には違いなかったが、直衣(のうし)といって男性の正装。さほどに膨らませないままなそれを、彼の趣味でか ちょいとばかり着崩しているのが いと小粋な。何とも印象的な青年の、瑞々しくも闊達そうな姿が鮮やかにも現れたものだから、

  《 貴様…何奴っ!》

 選りにも選って“カッパ”などと、下級の悪戯者のような扱いで堂々と罵られたこともあってだろう。邪妖が歯咬みしもって問いただせば、
「名乗ったところで判りはすまいよ。お前のような中途半端な眷属にまでは、俺の名前も届いちゃおるまいからの。」
 こちらも堂々とした意気軒昂な物腰は微塵にも揺るがさぬまま。女性のいで立ちでいた、その雰囲気や余燼までもを振り払いたいかのように、日頃の妖しさが想像出来ぬほど勇ましくも胸を張っているのだが、それでも。目許も鼻梁も、両端が持ち上がった口許も。細い線にてわざとに尖らせて描かれたもののような、鋭い印象が強いせいだろう。くくくっと嗤
(わら)った表情が、降りそそぐ青い月光に縁取られ。淀んだ温気の満ちた空間に、唯一の冴えた存在として、何とも妖しく映えている。特に縮めておらずとも女性の振りが通せた薄い肩を、こちらもややムキにそびやかし、
「生け贄を出さぬと村の耕地へ毒水をかぶらせるだと? しかも、権門の姫をわざわざご指名と来たもんだ。」
 人世の事情にいやに詳しい神様があったもんだと、そこら辺りでもう怪しい。何とも滑稽、笑止な企てよと、あざ笑う彼であり、
「何処の水場の眷属の、守り神だか鬼神様だかは知らねぇが。小娘一人を頭から食っちまうとは大した大食い、いやはや恐れ入るねぇ〜♪」
 唄のように節までつけての、囃し立てるようなお言いようへは、

  《 ううう、うるさいっ、うるさいっ!!》

 邪妖の方でもさすがに頭に来たらしく、
《 年端もいかぬ童っぱのくせに、何を偉そうに言の葉をもてあそぶかの。》
 人の形にさも似た体格。身体の両脇へ下げた格好になっていた腕の先から、ポタポタ落ちたる水の滴を。片腕だけ、ぶんっと風を切るほどにも素早く横薙ぎに振って飛ばして見せれば、
「…ほほぉ。」
 遠心力も加わって結構遠くまで飛んだ泥混じりの滴。祠
(ほこら)かお堂かの、まだわずかに残っていた板壁が、それが触れたところだけ一気に“じゅん…”と蒸散して消えた。物を溶かしてしまう強酸の瘴気を操れる邪妖ではあるらしく、
“成程の。土地を腐らす毒水というのは、本当にばら撒けるらしいな。”
 ちょこっと見くびっていたかなと、その点へは苦笑をしたが、だからと言ってそのくらいで怖じけるような術師殿では勿論なく。素早い身ごなしで毒の攻撃を避けたそのまま、まずは懐ろから守り刀を鞘ごと取り出すと、
「日輪の弟御、月夜見の御神様。今ここに、奉る奉る。」
 邪妖への封印滅力をそこへと込めるためにと、咒詞を滔々と紡ぎ始める。なめらかな頬の縁に、軽く伏せられた睫毛の陰が落ち。白い顔には神妙な、されど確固たる意志の込められし、張りのある力強さが漲
(みなぎ)っており。天と大地の精霊たちへの祈りの詞が滔々と紡がれて、

  「…吽っ!」

 満を持し、かっと見開かれし双眸には、何にも屈せぬ強い強い意志の輝きが宿っており。小さな邪霊程度なら、それに睨まれただけであたふたと浮足立ち、恐怖のあまり陽世界にはいられなくなるほどの気魄に満ちた代物で。胸元の手前へ水平に捧げ持っていた守り刀。柄と鞘とを両手で握って、静かに真っ直ぐ左右へと、鯉口を切ったそのまま一気に抜き放てば、

  《 ぐ…っ!》

 陰体には直視も苦痛の、聖なる御光。どんなに鋭い集中にても、ああまで短時間のうちに此処までの生気を集められる術師は今世にそうはいないというから、
《 こやつ…。》
 確かに。大上段に構えての見下ろすような尊大な物言いも、彼には相応しい振るまいなのかもと、今更になって多少は認めてしまいかけてしまった毒水の邪妖であったものの。そんな弱気でどうするか。自分は陰体。意志の力が気力がそのまま、自分の存在を支えている身だ。萎えれば姿さえ留めてはおれなくなるところだが、今度
(こたび)の呪法を見事に果たしてしまえば、それを核にしてこの陽界にも踏みとどまれる。濃厚にして無防備な、様々な精気に満ちたる陽世界。此処に長く居られる良い機会。このまま邪妖としての力をも高める糧を、存分に得られるだろうこの好機、何があろうと逃してなるものかと。
《 来やっ!》
 挑発するよに声高に叫んだ邪妖へと向けて、こちらもまるきり容赦なく。鍔のない守り刀を逆手に握ると、大きく振りかぶったそのまま、一気に相手へ斬りつける。ただの刀であったれば、汚泥の塊り、わざとに崩れて逃げも出来、逆に相手の肢体へ絡みつけもしたところだったが、

  《 …っ、がぁっっ!》

 ざっくりと。肩から胸元へ深々と、守り刀の切っ先が突き入って。そこから引けば引いた勢いのまま、その身が裂けた。血こそ吹き出したりしなかったものの、泥の形をまとめていた咒の楔が緩んだか。裂いたところからぼとぼとと、月光に濡れた汚泥がとめどなく、板張りの床へと落ち続けるではないか。
「どこぞかの半端な術師に招かれし、式神もどきの陰体なのだろう? その身がこんなに脆いのは、そやつの力量が大したものではないからだ。」
 世界がまだ混沌としていた頃からというほどの、古くからの由緒正しき血統を持たない陰体が、この陽世界にひょいと出て来て行動しようとするからには、そこはやはりそれなりの策が要る。殻を持つが意志は弱いような陽体に憑衣するか、殻代わりの“寄り代”を得るか。それとは別の手もあって。陽体である人間に呼ばれし場合は、契約を結んで仮の殻を得ることが出来る。その殻は、陽世界の住人である召喚師がやはり術によって用意するのだが、
「お前自身の力もまた、大したものではないから。だから…こうまで簡単に綻んでしまうのだよ。」
《 だ、黙れっ!》
 慌てて自分の手を伸ばし、両の腕を回して自分を抱いて、胸板を丸ごと縛りつけるようにして、何とか ほとびを止めようとする。それで両手が塞がってしまったあたりがやはり、何とも呆気ない相手であったようだと、呆れ半分、苦笑をしかかった蛭魔だったが、

  《 この、生意気な童っぱがっっ!!》

 これもある種の隙ではあったのだろう。いきなり…首がずるりと伸びた。泥人形の首を引き抜こうとするかの如くに。今にもそこから抜け落ちそうなほど、胴との連なりが細くなりはしたけれど。そこは最後の意気地を張ったか、頭であるらしき泥の塊が一気にすぐ間際まで飛んで来て、
「…っ!」
 そこが口なのか、がばりと大きく横に裂けた割れ目。この時代にはまだせいぜい灯籠くらいしかなかっただろうが…竹ひごの胴へ紙を貼った提灯が真横に裂けた図を思っていただくと判りやすかろう。そんな格好にて術師の青年に躍りかかった泥の首、瞬時のこととて抗いようもなかった蛭魔の薄い肩口へ、選りにも選って深々と咬みついたものだから、
「…チッ!」
 これは抜かったと。苦痛以上の口惜しさから、蛭魔は金茶の眸を思わず眇めた。ただの咬みつきならば錦の厚みもあって大したダメージではなかったが、その錦の直衣から焦げるような饐えた匂いが立ち始めている。さっき板壁を蒸散させた毒酸を、口から放っている邪妖であるに違いなく、
「離せっっ!」
 相手は首だけの塊、胴との連なりを断ち切るほどにも暴れれば、そうなることを恐れて引くかとも思ったのだが、さすがに向こうも必死なのだろう。文字通り食らいついたまま、何があろうと離すものかと思ってだろう、よくよく見やれば…自分の吐き出す酸で自分の泥の体までもを溶かしながらも、離れずにいる執念深さが恐ろしい。このままでいれば、やがては肩からじわじわと酸が染みて来る。火傷で済めばまだいいが、腕が半身がごっそりと腐り落ちてしまったら?
「離せよっ!」
 さっきまでの余裕が焦燥に変わる。今夜は単独行動ゆえに、助けはない。こんな輩でも手間の要る陽世界に身をおく相手ではあったのに。それを甘く見ていたもんだから、お仕置き代わりに自らへと降りかかった大きな代償、所謂“天罰”だろうかと、唇を潰すほどにも強く強く咬みしめたその時だ。

  ――― 夜陰を裂いたは銀色の疾風。

 どんっと。思わぬ衝撃がこちらへも響いたのへ、新手の敵かと身が竦んだものの、

  「ホンットに身勝手で強情な奴だよな、お前はよっ。」

 聞き覚えのありすぎる低めの声が、沼側の背後から投げつけられて、
「お館様っ!」
 これはこちら側のどこやらか。岸の方から近づきながら、必死でかけられた幼い声で。この組み合わせだというだけで、あらかたの状況がすぐさま読めた、切れ者の本領を発揮の術師殿。
「眞
(まこと)の名を なぜ呼ばんかったっ。」
「うるせぇなっ。俺に、指図してんじゃねぇよっ!」
 式神の分際でと、何故だか続けられずに…唇を咬む。今夜の邪妖封滅の仕儀は、実を言えばほんの退屈しのぎの悪戯のつもりで思いついた代物だったので。蜥蜴の総帥、自分に忠実な式神である葉柱を、わざわざ呼びつけはしなかった蛭魔であり。ちょっくら散歩と偽って出掛けた彼だったのへ、こちらもさすがは術師見習い、何となく不安を覚えた書生の瀬那が、丁度訪ねて来た葉柱に加勢を頼んだか。いやいや彼には進という頼もしい憑神がいるから。どうしましょうかと相談でも持ちかけ、セナから不安を除いてやりたがった進が、葉柱を呼んで心当たりを片っ端から当たって回ったか。

  《 …か、加勢か?》

 いきなりの状況の変化には、邪妖もまた気の動転を隠し切れず、怯んだような声を出す。先程のどんっという衝撃は、葉柱が沼へと膝上まで浸かりながらも背後から近寄って投げた、何かの丈夫な蔓であり。それ自体が意志ある生き物ででもあるものか、先へと括ってあった分銅が、投げつけられて当たった邪妖の首から肩へ、勝手にするする縦横に絡みついてゆく。そのくせ、葉柱がその雄々しき腕へとからげるようにして思い切り引っ張ると、今度は素直に絞られて、
《 ぐあっ!》
 邪妖の動きを何とか封じることが出来た模様。身を拘束されたことでこちらへの就縛に集中出来なくなってか、相手の顎の力が緩んだ隙をつき、
「この…っ。」
 大きく暴れて身を捩ると、今度こそ何とか自力で肩に食い込んでいた牙を払い飛ばし、汚泥の邪妖から身を離せた蛭魔だったものの、

  《 があぁぁっっっ!!!》

 尚も牙を剥き、何とか腕を伸ばそうともがく相手だとあって。咄嗟の反応、向かうよりもまずはその身を背後へと避けていた。さして広さはないお堂跡。すぐにも背後の壁へと背中が当たって、それ以上は遠ざかれない。そんな彼の所作をどう見たのか、
「この、やろがっ!」
 それまでも。ぐいぐいと力任せに蔓を引いては、邪妖を彼から引き離そうとしていた葉柱が、何と…、

  「哈っ!」

 その蔓の自分が握っていた端の方をいきなりこちらへと投げつけたではないか。邪妖を縛り、しかも前進を阻んでいたものを。力尽きたか諦めたのか、いやそれにしても、こちらへと投げるのは何とも不可解。理解を越えた行動に、
「…っ?!」
 さしもの策士、蛭魔でさえ。訳が分からず唖然としたその直後。

  ――― …っ!

 中空を飛んで来た蔓は、やはりそのものに意志でもあるかのように動き出すと、叩きつけられた先、蛭魔の肢体を背後の壁へと張り付け始めた。
「な…っ!」
 一体何の真似だと。目前にいる邪妖の肩の向こう、月光の下に上背のあるその姿を晒した蜥蜴の総帥を睨んだ…蛭魔の視界の中を。一気に。今度は葉柱本人が翔んで来たから、

  「………っ!!」

 その間にいた邪妖は、その瞬間まで何の脅威でもなくなっていた蛭魔だったというのも、何とも彼らしい豪気なことで。蔓が緩んだことで今だとばかり、眼前の蛭魔へ再び掴みかからんとした汚泥の邪妖は、だが。疾風
(はやて)のように翔んできた蜥蜴の総帥の屈強な腕に、その首元を背後から、がっしと羽交い締めにされてしまったから。
《 …なっ。》
 思わぬ拘束にもがくのを、離すものかと葉柱も抱え込み。しかもしかも何を思ったか、まずは蔓の途中を引きちぎり、邪妖の身から除いてしまうと。脆くなっていた足元の床板を、わざとに沓
(くつ)の踵でがっつがつと強く踏みしだいてしまったから。
「な…っ!」
 ただでさえギシギシと悲鳴を上げていた床板は、あっと言う間に砕け散り、葉柱と邪妖とを真下の沼へとあっさり落下させる。唖然としたままそれを目の当たりにした蛭魔へは、やっとのこと、お堂の上へと辿り着いたセナが、小さな肩を上下させ、師匠の身へと絡まった蔓を引き剥がそうと手をかけたのだが、
「堅い〜〜〜。」
 それが使い手からの厳命だったのか、蛭魔の痩躯を壁に縫い止め、離れようとしない蔓。それごとが頑丈な楯でもあって、さっきの邪妖が掴みかかっていたとしても、これではもう、言葉のそのまま歯も立たなかったに違いない。
「俺はいいからっ! あいつをっ!」
 足元にばしゃばしゃと、争ってのものだろう激しい水音が立っていたが、それが…気がつけば、どんどんと遠ざかってはいないだろうか。沼という泥地に落ちれば、相手の側の優勢有利が復活するかも。ここ一帯に垂れ込めた瘴気もまた、あの邪妖が自分の身を守る要素として放っていたものかも知れず。一刻も早く加勢をせねばと地団駄を踏みかねない金髪の術師の耳へ、
「セナ。」
 惚れ惚れとするような深みのある声がした。たった一声でセナをそこから退避させ、蔓…ではなく、板壁そのものへと手をかけて。ていっと一息で蛭魔を縫いつけたそのまんま、壁を大きく抜いてしまった強力者。支えを失い、とうとう屋根が落ちかかるのを避けながら。もう一方の腕にはセナを抱え、外へと飛び出した黒髪の雄々しき憑神であり、
「待て、進っ! まだ葉柱がっ!」
 妖しき沼の只中の、泥の面
(おもて)が霞むほどにも垂れ込めた瘴気の中に、まだあの従者がいる。泥を蹴立てる音がするし、深みへ行けば水の溜まりもあるのかも。彼には不利な状況下、置いてはいけないと声をかけるが、

  「一目散に戻れと言われた。」
  「な…っ!」

 進の手短な言いようへ、反対側へと抱えられたセナが言葉を付け足す。
「葉柱様は、絶対にお館様を沼に入れるなと仰有ったんです。あの沼の毒素も瘴気も、人が耐えられる限度を遥かに超えているから。奴を倒してしまわぬ限り、誰とて近寄らせてはならないと。」
 そうこうと話す間にも、進の速足は風を切るほどに加速を増しており、
「良いから離せっ! 俺は、瘴気からの防御の咒だって知っているっ!」
 何とかもがくが抜け出せない。進の腕だけでなく、板壁へと自分を縫い止めた蔓の力も物凄いものがあって、僅かな身じろぎさえ出来ないほどで。
「離せって、こらっ!」
 何とか叫ぶが聞き入れてはもらえず、沼の水の匂いさえあっと言う間に彼方へ遠のいてしまい、

   ――― ……………っ!

 その名前を叫びたかったが、何故だろうか、喉が詰まった。声が凍った。その気配を修羅場へ置き去りに、引き離されてしまうこの身が、ただただ狂おしいほど辛かった蛭魔であった。








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