雪の降る音



          



「………。」
 ふと。傍らから立ち上がった少年がその温みごと窓辺へと歩みを運ぶ。露で曇ったガラスを小さな手の指先で拭って、
「あ、やっぱり。」
 小さな声を出した。そんな彼の動きを視線で追っていた男の視野の中、肩越しに振り返り、
「雪ですよ。なんだか沢山降ってます。」
 子供の無邪気さ、屈託のなさで笑って見せる彼なのが何とも微笑ましいが、そのまま…窓辺から戻って来ないことへともどかしさを覚えてか、男が続いて立ち上がる。自分へと歩み寄る青年へ窓の外を示しつつ、
「ほら、凄いでしょう?」
 庭と呼べなくもない小さな空間へと出てゆける大窓から望める外には、確かに降りしきる雪。一つ一つが結構大きく、だのに…それらが群れをなして間断無く落ちてくる様はあまりに静かで。
「風がないですし…これは積もるかもですね。」
 少年の言葉に、そういえば先月も何度か降ったな、今年はなかなか厳冬だったという気がする、と。そんなことを思い出しつつ、窓を拭いつつける小さな手をそっと掴んだ。
「…進さん?」
 きょとんとする彼の顔を見下ろして、
「冷たいだろう。」
 短い一言。言われずとも…というような一言だのに、少年は言われて初めて気がついたという顔になり、それから…ふわっと微笑って見せる。
「そうですね。」
 いつもの癖で"すみません"と続けるのへ、小さく笑い、二人してさっきまでいた場所へと戻った。暖かな居間の真ん中、ソファーの上だ。テーブルにはスポーツ誌が広げられ、だが、点(つ)いたままだったテレビの画面には、素人の撮ったホームビデオだろう、時折 被写体が画面の端に寄ったりピントがぼけたりしつつ、小さな男の子が遊んでいる様が延々と追いかけられている。



            ◇



 それはセナの方からの、唐突な申し出だった。

   『あのあの、進さん。ウチへおいでになりませんか?』

 少しは陽も長くなって来た放課後、練習後の短い逢瀬。小早川瀬那くんの通う泥門高校の最寄り駅近くのファミレスの喫茶コーナーにて、お互いにコートを脱いで、店内の暖房へ"ほう"と一息ついてから幾刻か。特に取り立てての話題がなくとも、時々視線を見交わすだけで何だかほこほこしてくるらしい、何とも物静かで微笑ましい二人だったのだが、ココアとコーヒーとをそれぞれがゆっくりと三分の一ずつも味わっただろうかというタイミングに。不意にセナくんが、お向かいに座っている大きなお友達の進清十郎さんへ、そんなことを言い出した。
『?』
 あまりに脈絡が無さ過ぎて、ぱちりと瞬きをすることで"もう少しお話しよ"と促す進さんへ、
『えと、あの。こないだからずっと、ボクの方からばかりお邪魔していて、こないだなんてお泊まりまでさせてもらって。』
 そういえばそうだった。急な成り行きだったとはいえ、豪華な晩餐にご招待されて、立派なお家にお泊まりさせてもらって。(『春立ちぬ』参照)それもそれも、その間中のずっと、大好きな進さんが傍らにいてくれたという、何とも贅沢すぎるオプションつきだったから。
(笑) これは何かお返しをせねばと、彼なりに色々と考えていたのだろう。
『大したことは出来ませんけど、おもてなし頑張りますから♪』
 仄かに頬を赤く染め、今から既に頑張っている意気込みを満々に見せている様子が何とも言えず微笑ましい。そんな様子につい見とれていると、返事がないのをどう解釈したのやら、
『…あ、でも遠いからご迷惑でしょうか?』
 言ってから気がつくんですよね、ああ、ダメだな、ボクってやっぱりうっかり者だと、おろおろしかかるのへ"くすり"と笑い、
『喜んでお邪魔する。』
 テーブル越しに長い腕を伸ばしすと、やわらかな髪をぽふんとなでて、そうとお返事した進だった。





 私立の高校は受験日が早い。大体2月中旬前後に集中していて、今年は泥門の受験日と王城のそれとが偶然にも同じ今週末。前日から準備が始まるために、構内への立ち入りが禁止となる事情も同じとあって、
『じゃあ、そのどっちか。』
 セナがそう言い、なら早い方が良いからと、進が選んだのが金曜日の方。せっかくの休日に、朝っぱらからバタバタするのもさせるのも何だからということで、昼下がりに…と話がまとまり、進清十郎さんは、ただ今、小早川さんチにお呼ばれの最中なのである。
「あ、こっちですよ。」
 来客の押したチャイムへ、その俊足を生かして文字通り"飛ぶように"反応して玄関まですっ飛んで来た少年に苦笑をし。勝手知ったる何とやら…というのも大仰だが、もう二度ほどもお邪魔しているお家なので、セナの私室が2階なのは知っている進だったのだが、そちらへ向かいかけると、廊下を先に進んでいた招待主が声をかけてくる。にこにこと笑う彼のいる方へ方向を修正し、手を延べるようにして示されたのが、一階中央の広々としたリビングルーム。さすがに"豪邸"ばりの広さはないが、それでも…ソファーとローテーブルという応接セットを並べて、大きな画面のテレビを設置しても余裕があるほどの広さは確保されている、温かな居心地のよさをたたえた空間だ。
「ボクの部屋のテレビじゃあ画面が小さいですからね。」
「???」
 きょとんとしたままな進の手から大きなコートを預かって。テレビの傍らからひょいっと彼が取り上げたのが、1本のビデオテープだった。市販されているものであるらしく、写真やロゴ、活字がパッケージに印刷されてあり、

   「………あ。」

 何のビデオなのかに気づいた進が、彼には珍しいくらい判りやすく…ハッと表情を弾かれた。
「それは…。」
「はい。199X年のスーパーボウルのビデオですよ。」
 本場アメリカのフットボールのプロリーグ・NFLは、NFCとAFCという2つのカンファレンスに分かれていて、その双方のリーグを制した覇者がぶつかり合うのが、1月末にある、この"スーパーボウル"である。ハーフタイムには超一流どころの歌手たちがミニコンサートを開くほどのお祭り騒ぎになる、野球の大リーグのチャンピオンシップと並ぶほどの一大イベント。そういった詳細はともかくも、進の驚き具合が予想通りだったのだろう、ますますニコニコするセナであり、
「桜庭さんから訊きました。進さん、ビデオ屋さんとか行くと必ず探してるって。でも注文してももう絶版になっててなかなか見つからないって。」
 そんな希少な代物を、どうしてまた…ここでこれを持ち出すのも何だが、アメフトに関してはほとんど素人も同然な彼が手にしているのか。こんな間近に存在する事自体が信じ難いと、その"お宝"をかざされた光景に言葉もない進へ、
「栗田先輩が持ってらしたんです。」
 小さな天使が舌っ足らずなお声で答える。
「とっても凄い試合だったそうですね。それで先輩もやっぱり頑張って探して探して、ネットオークションとかいっぱい検索してそれで手に入れたんだそうです。」
 そうと説明して、もう一本、こちらは家庭用の普通のテープを取り出して、
「こっちにダビングしましたから、これは進さんに差し上げますね。そいで、これを今日は一緒に見たいなって思ったんです。」
 セナくんなりに考えた、今日の"ご招待"のメインテーマということだろう。さっそくにもソファーに座っていただいて、ビデオをセットし、スイッチオン。映し出されるは鮮やかな緑のフィールドと、彼らにはお馴染みの装具をまとった雄々しい選手たちの試合前の様子。ナレーションも実況も全編が英語だが、ちゃんとゲームが理解出来る身、そんなものには頼らなくて良いから構わない。
「………。」
 無口なお客様の視線と注意が画面に釘付けになったのへ、ややもすると満足そうに"ふふ…"と微笑って、セナはコートをハンガーへかけにと、自分の部屋へそぉっと足を運んだのだった。



            ◇



 ダビングしながら既に一度は観たセナも、この試合の凄さには何度も観たいと思えてしまうものを覚えたらしく。手早く整えたお茶とちょっとしたお菓子の支度を抱えて居間へ戻ると、そのまますぐ、進と同様、画面に視線を奪われてしまった。NFC側・AFC側、両チャンプチームともに攻守のバランスが取れているチームであり、片やが巧みなランの構成で相手陣営に穴を開ければ、片やは緻密なディフェンスですぐさまリターンを奪ってしまうという繰り返しで、正に息をもつかせぬ緊迫した攻防の鬩
せめぎ合い。得点もじりじりと上がり合うシーソーゲームで、セットごとに満場の観客たちがこぼす興奮の溜息が、大きな唸りになって場内一杯に轟くほどだった。特に見ものなのは後半の第4ピリオドの攻防で、連続で見事なランによるダウンを決めて見せた片やのエースらしきランニングバックさんを、相手チームのベテランらしきラインバックさんがこれもまた見事な囲い込みにて仕留めてしまう下りがあって、俺はやったぞ、見たかっ!と雄叫びを上げて吠えるその雄々しさよ。
「…ふわぁ〜。」
 決して力のみでなく、速さや直感、反射神経も動員されるスポーツだし、その前に作戦を組み立てる構成力も必要な、何とも高度なスポーツなのだが、そういったあれやこれやは置いといて。こうやってそのゲームの展開を単なる観戦者として眺めていても伝わってくる、プレイの迫力や巧拙への把握についつい"ぽや〜っ"と酔えるようになった自分がいる。素人には何がなんだか、走り出してくれなきゃどっちの攻撃かも分からないようなスポーツへ、たった1年足らずでこうまで馴染めている自分。
『…あのあの、第4ピリオドだけ、もっかい観ましょうか?』
 ハーフタイムやセットの間なぞをついつい早送りして観ても結構な長さのあったビデオだが、終わった直後にそんな風に言い出したほど。そんなセナの様子には、進も微笑ましげな顔をして、頷いてくれたりした。

   「………?」

 そんな興奮の鑑賞会を終え、ただワクワクしただけじゃあない、進さんと同んなじ感動を堪能しちゃったとウキウキしながら"お三時の用意を"と台所へ立っていったセナを待つ間、巻き戻したテープを取り出しかけていた進の眸が止まったのは、ビデオデッキが収納されたテレビ台の中、無造作に置かれてあった数本のテープへ。ハンディカメラ用の小さなテープカセットで、その背には手書きのタイトルシールが貼られてある。
「進さん、お腹空いてませんか? ホットドッグ作りましたから…。」
 大きなトレイで焼きたておやつとコーヒーを抱えて来たセナが、テレビ台の前に屈んでいたお客様に気づいて声をしぼませる。
「進さん?」
 何してるんですか?と、トレイを置いてそちらに向かい………。
「………あ。」
 彼が手にしていたものへ…え〜っと/////、と。頬を染めてお膝をもぞもぞ。ちょいと眸が泳いだセナだったが、
「…観たいですか?」
 こくりと頷かれては逆らえない。はぁ〜っと肩を落としたセナだったが、こればっかりは困ろうが嫌がろうが気遣いしてやれないとばかり、進が観たがったのは………この家に唯一の"王子様"の成長の記録を綴ったものならしい『セナくんの這い這い』と題された8ミリビデオであったのだった。
(笑)







TOPNEXT→***