Albatross on the figurehead 〜羊頭の上のアホウドリ


   
散髪・フルコース


        




 昼下がりの上甲板は、穏やかな陽射しとさやさやと吹き抜ける潮風によって、お昼寝好きな剣豪でなくともついついうつらうつらしてしまいそうなほど、それは心地いい空間と化していた。そこへとパタパタやって来た足音に、誰がどんなに揺すろうが怒鳴ろうが、まるきり微動だにせず眠り続ける筈な剣士殿の眉が、はっきり"ひくり"と動いて、
「なあ、ゾロ。」
 掛けられた短い声にぱちっと眸を開ける。そこに立っていたのは、珍しく帽子をかぶっていない船長さんであり、
「ん? お、髪の毛、切ったか。」
 短くなったと言ってもほんの1センチかそこらだのに、何ですぐ判るんでしょうね、この人。甲板で切ってたとはいえ、その間中、此処で間違いなく寝てたのに。ルフィはこくんと頷いて見せると、
「うん。そんで、ナミが風呂入って来いって。ゾロと一緒に入って、頭、洗ってもらえって。」
「そっか。」
 散髪時のいつものコースであるらしく、船端から身を起こすと立ち上がる剣豪殿で、腰の三本の刀をまとめて手に持つと、
「これを置いて、ついでにボイラーを確かめて来るから、お前は着替え持って先に行ってろ。」
「判った。」


 船内の風呂場はそう広くはなく、丁度ワンルームマンション辺りのユニットバスほどの仕様だろうか。
おいおい 狭い脱衣場の洗面台の上、元は蓋付きの浅くて広い行李だった乱れ箱に着替えを置いて、シャツのボタンを外していると、通路からのドアが開いてゾロが入って来た。
「ウソップが気を利かせて焚いといてくれたらしいぞ。」
 ボイラーは既に点いていたらしい。戸口近くで靴を脱いでから、服を脱いでいるルフィの傍らを抜けると、シャワーのノズルを上の据具から外し、湯を出して温度を確かめる。
「こんなもんかな。」
 低い方の据具に浴槽の方へ湯が注がれるように向けてセットし、脱衣場の方を振り返ると、実に手際よく素っ裸になったルフィが入って来るところだった。
「…お前ね。」
「んん? なんだ?」
 天真爛漫で無邪気なお子様。男同士なんだからと、照れもないのだろう。まあ、確かにそうなんだが、
"せめてタオルくらい巻いてほしいんだが…。"
 間近になったすべすべな肌がちょっとばかり眩しくて、却ってこっちが目のやり場に困ると感じながら
ほほう、入れ替わるように脱衣場に出ると、ズボンの裾を膝までめくり、ついでにはめ込みのクロゼットからバスタオルを一枚取り出した。
「ほら、巻いとけ。」
「なんでだ?」
「いつも言ってるだろが。俺が手伝うのは頭を洗うとこだけだから、その間中、素っ裸でいると風邪をひくって。」
「あ、そうだっけ。」
 いつものことならしくて、手渡されたバスタオルを細身の身体にくるくるっと巻きつけるのが…また下手くそで。
「…ほら、貸してみ。」
 結局、裸体と向かい合い、肌襦袢でも着せるように腹の少し上辺りからタオルを巻いてやるゾロである。
"今度、町に着いたらバスローブでも買ってやった方が良いのかもな。"
 目の毒ですもんね。
ぷくく 準備が整い、さて洗髪。浴槽の縁へ、中へと跨いでから腰掛けさせて、シャワーの方へと頭を下げさせる。
「掛けるぞ?」
「おう。」
 シャワーノズルを手にし、まずは髪全体を濡らしてゆく。腰に巻いたタオルの膝辺りが濡れてしまうのは仕方がない。次にノズルを戻すとシャンプーのボトルを手にし、頭へ直接2、3度振ってやる。
「ひゃっっ!」
 地肌に染みて来たシャンプーの冷たい感触にだろう、肩をすくめて小さな声を上げた船長さんで。それへと声を立てずに笑ったゾロが、
「洗うぞ?」
 合図の声を掛けると、
「おう。」
 両手で耳を塞ぎ、頭を小さく上下させて頷いて見せる。ゾロの手は大きくて、それでも出来るだけのやさしい動きでわしわしと掻き回すと、たちまちルフィの真黒い髪を全部覆い尽くすほど泡が一杯立った。そのまま指先を立てるようにして地肌全体を撫でてやる。
「…どした。」
 ぴくぴくっと小さな肩が震えたのに気がついた。最初の頃は息を止めていて、そのくせ何の合図も決めていず、ルフィが引っ繰り返りかけたこともあったが
おいおい、今ではもう慣れたからそういうことはない筈で、
「んん、気持ち良いなって。」
 そういえば、何でもない時にも時々"頭を撫でてくれろ"とまとわりついて来ることがある。どうやらこの船長、子供並みにくすぐったがりであるらしく、そのくせ、この剣豪の重みのある大きな手で頭を撫でてもらうのは、どうしようもなく大好きでたまらないらしい。そんな訳で、時折震える小さな背中の小さな貝がら骨は、見ていると何となく煽情的で、
「…ゾロ、まだか?」
「あ、すまんすまん。」
 ついつい見とれてしまい、普段より長く洗っていたようだ。
「流すぞ?」
「おう。」
 シャワーを当てて、泡を流す。指通りが良くなったのはシャンプーの成分のせいだけではなくて、ナミが言っていたように彼の髪質がもともとは健康的でなめらかなそれだから。湯が透き通り、ぬめりがなくなるまで良ーく流して、
"えっと…。"
 さっきボイラー室から出て来たところで捕まったナミから、リンスも使わせろと言われている。日頃放ったらかしているのだから、この日くらいは集中して手入れしてやらないとと言っていた。他への指図なら鼻先であしらって聞かない真似も出来るのだが、事がこの船長さんにまつわる、しかも世話焼きのものともなると、ああ成程と妙に納得してしまう彼であるから、根は彼女と同類だということか。鏡の前の棚から手に取ったのは、女性陣が使っているトリートメント剤。蓋を取るとパール系の光沢を帯びたとろりとしたゲル状のクリームが入っていて、指先でのひと掬い分を手のひらに延ばすと、
「あ、それ、ビビと同じ匂いになるやつだ。」
 前かがみになったままだのに匂いで分かったらしく、ルフィがそんな事を言う。
「? そうなのか?」
「うん。ナミは猫っ毛だから、それの後に別のを重ねて使ってるんだって。」
「変なこと、詳しいな、お前。」
「こないだ聞いたんだ。二人とも良い匂いがするからさ。そしたら教えてくれた。」
 トリートメントを延ばした手を櫛のようにして、濡れた髪の中、縦横無尽に梳いてゆくと、花とも果実ともつかない甘い香りがバスルームに広がった。(後で確かめたらスィート・バニラの香りだそうな。)
「よし、流すぞ?」
「おう。」
 再びシャワーを当てて、ぬめりがなくなるまで流す。これで洗髪は終了で、少し長めのタオルで髪を包み込んで、くるくるっとターバンのように巻いてやり、
「じゃあ、後は体洗って出て来いや。」
 頭と上体を起こしたルフィへそう言うゾロだが、
「ナミは身体も洗ってもらえって言ってたぞ?」
 そういやそうでしたね。あっさりと言われた途端、
「身体って…。」
 な、何を意識してるんでしょうか、このお兄さんたら。口ごもったその上に、少々顔が赤くなってますが…こんな大きな図体で、一体何にたじろいでいるのやら。
ぷくくのぷ♪
"子供だ、子供。こいつは子供。"
 目を閉じて、胸の裡でそんなフレーズを何度も何度もお念仏のように唱えること数刻。(子供というフレーズは"おサルさん"でも可かも知れない。
おいおい)そうすることで"よしっ"と気持ちの切り替えが出来た剣豪であるらしく、そのついでに何か思いついたらしい。
"えっと…。"
 トリートメント剤を取り出した同じ棚から陶器の壷を降ろすと、中から大きめのビー玉をつまみ出す。淡い翠色のビー玉はバスバブルキューブというもので、
「なんだ? それ。あめ玉か?」
 おいおい、風呂場にあめ玉を置いてどうするんだね。
「こうすんだよ。」
 言ったかと思うや、ゾロはバブルキューブをぽいっと湯船へ放り込んだ。すると、少しだけ溜まっていた湯の中で緑のあめ玉はゆるゆると溶け始め、シャワーをカランに切り替えると、カランから滝のように落ちて来る湯の真下で泡がムクムクと盛り上がり始めた。
「わぁ〜っ。」
 嬉しそうに驚いているところを見ると、ルフィは今の今まで使ったことがなかったらしい。良い匂いのする泡に侵略されつつある湯船の様子に、歓声を上げつつも立ち尽くしている小さな船長さんに苦笑し、ボディスポンジを手に取ると、
「ほら、腕からだ。出しな。」
「おうっ。」
 なんだか妙に勇ましい入浴風景である。


 泡のお風呂で大いにはしゃぐお子様を、結局は…うなじや首回りから腕に背中に胸に腹に脚と、文字通り"頭の先から爪先まで"の一通りをしっかりと洗ってやって、
「おしっ、これで終わりだ。あとはシャワーで泡を落とせな。耳の後ろとか膝の裏とかも、忘れんなよ?」
「うん。」
 ホント、面倒見の良いお兄さんであることよ。剣士や剣豪がお呼びでない世の中になったら"保父さん"としてやってけそうかも。
あっはっは 可愛いおサルさんの洗濯に、シャツもズボンもずぶ濡れとなり、
"俺も入るか。"
 一応、こんなことにもなろうかと着替えは持って来てある。これもやはり毎月の蓄積というやつであろうか。濡れものを脱ぐのだからと脱衣場へは戻らず、その場で腕を胸の前で交差させ、一気に引き抜くようにしてシャツを脱いでいると、
「…ん?」
 その無防備になった脇腹にぺとっと小さな手が触れて来て。
「どした?」
 言わずもがな、手の持ち主はルフィである。もう泡は落としたらしく、髪の水気も大分飛んだので頭に載っけていたバスタオルも外した、全くの裸んぼの彼であり、少しだけもぞもぞと手を動かしてから、
「くすぐったくないんだ、ゾロ。」
 訊くものだから、ああと気づいて頷いて見せる。
「まあな。」
 あっさりとしたそんな応じへ、ルフィは"うう〜ん"と腕を組んでまでして唸って見せ、
「こんだけ鍛えたら何が来たって平気なんだな。」
 まあ、くすぐり攻撃なんて仕掛けてくる敵は滅多にいなかろうが。今更なことへ感心するルフィの、まだ濡れて頬や額に張りついている髪を指で梳き上げてやり、
「いくら鍛えたって足んねぇよ。」
 ゾロは静かな声でそんな事を言った。
「? 何でだ?」
「とんでもない無茶をする奴がいるからな。もっともっと鍛えとかにゃあ、この先どんな大っきな敵に出会うことやら。」
 そういや、大クジラのラブーンに喧嘩を売ったのなんかは、はっきり言ってルフィが悪い。穏便にこそこそっと通り抜けられもしたろうに、余計なちょっかいを出したからあんな騒ぎになってしまったのだ。いや、これは単に"大きい"というだけで出した例えであって、あの大クジラは全然"敵"ではなかった相手なのだが。
おいおい 冗談はさておき、実際問題としても、名を上げれば上げるほど、立ち向かう運びとなる敵のレベルもどんどんアップし続ける。自分の実力を上げるためなのは勿論だが、仲間たちを、そして何よりこの小さな船長を守るため、いくら強くなったって足りないというのはゾロの切実な想いなのだ。だが、
「んと、ゴメンな。ゾロの傷、俺が増やさしてるよなもんなんだ。」
 ルフィとしては、実に素直にゾロの言葉を受け止めたらしい。ちょこっとばかり項垂れた彼の様子に、
"可愛い奴だよなぁ、何につけ。"
 あなたの洩らすその一言が、一番説得力があって甘く聞こえるのは、筆者の曲解とか深読みのせいかしら? 日頃は凛とばかりに気が張って雄々しく鋭い目許や口許を、それはやさしく和ませて、
「気にすんじゃねぇよ、傷が出来んのはまた別の話だ。それより早く身体拭いて服を着な。風邪引くぞ?」
「うんっ。」
 浴室の外へと向かう小さな背中を見送りながら、
「ちゃんと頭拭けよ? そこら濡らしまくるとナミとコックがうるさいぞ?」
「おうっ。」
 小さな王様、髪や肌からほかほかと湯気を立て、ご機嫌な様子で脱衣場の方へ出て行った。


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