微熱 〜 a  slight  fever

  

        


大きな手が気になる。
強くて頼もしくて、とっても温かい手。
重くて無骨で、けれどやさしい手。

気にはなるけど、触れられない。
触れられないから、ますます気になって仕方がない。


「………っ!」
 それはあまりにも唐突・突然で、たまたま居合わせたサンジにでさえ、目の錯覚か気のせいだと当事者たちから言われれば"ああ、そうかもな"と納得出来そうなほど、意外な出来事だった。
「…あ。」
 咄嗟とか反射的としか言いようのないタイミングと素早さで相手の手を払い飛ばした側が、我に返った瞬間、この世の終わりのような顔になって凍りつき、それから無理矢理のように肩で息をし、踵を返すと倒れ込むように甲板下へ通じるキャビンへと駆け込んでしまった。
「………。」
 撥ね除けられた側はと言えば、驚いて息を引いた後、相手の姿が目の前から消えるまで、その表情も姿勢もまるで動かさずにいた。それから、払い飛ばされた自分の手をちらっと見やり、長い吐息を一つ吐き出すと、ぎゅっと唇を引き結んで後甲板へとゆっくり歩みを運んでいった。
"………おいおい、どういうこったよ、こりゃあよぉ。"
 傍で見ている方が呆れるか恥ずかしくなるほど仲が良いんじゃなかったか? いつだってお互いに呼べば答えられる距離にいて、だのにも関わらず、さして確かめ合うこともなく相手を相手本人よりも理解していて。まるで"片翼"同士のように、なくてはならない間柄じゃあなかったのか?
"………。"
 昼下がりの乾いた陽射しが降りそそぐ主甲板。その場に取り残されて、ただ一人の目撃者となってしまったことを恨めしげに噛み締める。一体何がどうしたのか、理解がまったく追いつかない。今日は朝早くに久し振りの港町へ辿り着き、対象別に分かれての買い出しに出ていた。医薬品と日用品の細かいものはナミとビビ、消耗品と備品、備材はウソップ、一番多くて重い食材と燃料は力自慢二人を連れてサンジがあたった訳だが、
"そういえば…。"
 今思うと、町へ降りた辺りから…いやいや今朝早くから、ルフィは既に口数も少なかったような。そうして、買い上げて運んで来た荷物を船へと積み込んでいた最中に、
〈……っ!〉
 ルフィが不意に手を撥ね上げた。木箱の棘が手のひらに引っ掛かったらしく、それを見て、
〈見せてみな。〉
 何げなく伸ばしてきたゾロの手を、
〈…っ!〉
 まるで敵からの不意打ちにでも遭ったかのような反射で、唐突に払い飛ばしたルフィだったのだ。

            ◇

 大きめな町なので行き交う旅行者も多種多様に多く、よっぽど目立つ振る舞いさえしなければ自分たちの正体も周囲にはそうそう判りはすまい。また…海軍関係者はともかく、少なくともバロックワークスからの追っ手たちも、この、人の目が多数ある中ではうかうかとは手が出せまいということで、ナミは宿に泊まると最初から決めていたようで、
「ビビもウソップも宿にするって。サンジくんはどうする?」
「…そうっすねぇ。」
 買い物というイベントは、どんな事態にあるどんな女性であっても、決まって心を浮き立たせ、ワクワクさせるもの。無駄遣いは一切しない、経済観念のしっかりしたナミだが、それでも…可愛らしい小物や流行の服や靴なぞを見て回ったウィンドウ・ショッピングがよほど楽しかったらしく、出掛けた時以上にご機嫌な様子でいた。一緒に感想を述べ合えるビビという同性の相棒が出来たことが、彼女の中の"女の子"という意識をこれまで以上の艶やかなものとして目覚めさせたのかも知れない。その延長のようなやわらかな声で、ナミは言葉を重ねた。
「来なさいよ。たまには"上げ膳据え膳"で過ごすのも、良い羽根伸ばしになるんじゃないの?」
 サンジだけは、海が荒れようが戦闘があろうが変わりなく、三度三度の食事を作るという仕事を毎日毎日こなさねばならない立場にある。食事の下ごしらえがあるからと、前者の大仕事に参加しないでいられるような余裕の頭数ではない海賊団だから、そこは仕方がないのだが。
「それも魅力ですが…うん。今回は留守番しときますよ。」
「あら。どうしたの?」
 意外な答えにナミはキョトンとする。この"大好きなナミさん"からのお誘いを断ったにしては、あんまり残念そうでもないのも意外だった。
「いえね、後の二人も居残るようだし。そうなると、此処の見張りがいないと、せっかく揃えた食材が危なくって。」
 単純な理由ですよんと"にっか"と笑って見せる彼だが、
「………。」
 ナミは少々目許を眇めると、二人の間にあったテーブルの上、手を突いていたその人差し指の先だけを上下させて"とんとん"と天板を軽く小突いて見せた。まるでそこに何かしらの答えが埋まっていることを示唆でもするかのように…。

            ◇

 さて、活気ある港町の一日は早い。あっと言う間に、空と海の境目へ目がけて太陽がそそくさとすべり込み、名残りの残照が水平線近くの雲を茜色に染めている。夜釣りに出る小型のプレジャーボートには白熱灯の、大きな客船にはホテルのような窓々への明かりが灯る。夜陰の深まりと共に、その一つ一つが宝石のように輝きを増すに違いない。手近な船たちから離れて、陸の遠くに目をやれば、街路に沿った街灯だろう、その明かりの連なりがまるで光のモールのように見えた。
"………。"
 もう既に陽も落ちて、いつもの食事の時間だというのに、両方ともがキッチンへ現れない。二人とも相手と顔を合わせたくないらしいのが見え見えで、せっかく腕に縒りをかけて仲直り用にと拵
こしらえた御馳走たちが、出番を待ちくたびれて欠伸を始めてしまったほどだ。
"…しゃあねぇか。"
 どうしてこうまで、らしくもないお節介を焼くかねと、自分に失笑したりするサンジである。彼らの睦まじさには一片も衒
てらいがなく、それが鬱陶しくもあり、だが…何だか羨ましくもあったからなのかも知れない。少なくとも、あの船長が屈託なく笑っているのを見るのは、殊更に気分がいいし。まず向かったのは船倉だ。どっちを優先するかと来れば、女子供というくらいで年少者が先だろう。様々な物資を用途や種類別に格納した倉庫が幾つか並んでいて、この船で一人になりたければそこへ潜り込むしかない。細い通路を挟んで並ぶ幾つかのドア。食料用の貯蔵庫にも、大砲の弾や万一の時のための武具を収めた格納庫にも、掃除用具や洗剤などを詰め込んだ当番庫にもいなかった。次にと手をかけたノブは修理用の備材庫で、ウソップの研究室も兼ねている。当然、今は不在な筈だが、

  ………えく…ひっく…

 扉を薄めに開けると、小さな嗚咽が聞こえて来て、ちょっと面食らう。
「…ルフィ?」
 あれからずっと啜り泣いていたのだろうか。だとしたら、もっと早く様子を見に来りゃ良かったと、少しばかり後悔した。一番下の船倉で窓がないから、当然ながら室内は真っ暗で、扉の左右の壁や棚を手でまさぐって手燭を見つけたサンジは、咥えていた煙草でロウソクに火を灯した。明かりの中にぽうっと浮かんだのは、所狭しと並んだ備材の山や束と、蓋のない幾つかの木箱にごちゃごちゃ放り込まれたガラクタ…もとえ、ウソップの研究における貴重な資材の数々。その内の1つ、蓋のある箱の上に腰掛けて、麦ワラ帽子を前へと傾け、しきりと啜り泣いている小さな影を見つけた。
"…おいおい。参ったな、こりゃ。"
 彼は滅多に泣かないのだ。大切な仲間たちや無力な人々へのどんな非道を目撃しても、どんなに非情な話を聞いても、判りやすく激発しはしない。その悲痛な苛酷さから得た想いは、同情や寂寥という涙ではなく、全て"怒り"という激しい感情へと静かに昇華され、一気に爆発させて相手へ叩きつけられる。また、自身への棘や痛みは、誰に分かつでも無く、笑って受け流すか、本人が見事に飲み込む奴だ。それが…誰の目からも身を隠してのことだとはいえ、数時間もの間、止めどなく涙を零し続けているのだから、これは充分"一大事"だろう。足元に気をつけながら傍まで寄ると、さすがに気配に気づいてか、ゆっくりと顔を上げてこちらを見やる。目許が真っ赤で痛々しくて、ポケットからハンカチを引っ張り出すと、そっと雫を拭ってやった。
「一体何がどうしたんだ? どう見ても昼のあれは…。」
「…お、俺が…悪いんだ。俺、俺、ゾロんこと、叩いちまって………。ゾロは、な、なんにもわるくな…いのに…。」
 引きつけるようにせぐり上げながら話すものだから、ところどころが涙に溺れたり撓
たわんだりしてよく聞き取れない。例えばこれが彼でないにせよ、ただの勘違いとその反省でこうまで泣きじゃくるものだろうか? そんな様子に溜息をついたサンジは、同じ箱の上に並んで腰掛けると、そっと肩を抱くようにして自分へと凭れさせた。
「ん? どうしたよ。何でも良いから話してみなよ。」
 サンジの声は、平生は伸びがある柔軟なそれなのだが、低めると癖のある響きが強まって、胸の奥へスルリと入ってくる。そのまま何でも受け止めてくれるような静かな囁きに、まだ少しばかりしゃくり上げながらもルフィは口を開いた。
「何か、俺、変なんだ。前からもゾロのこと"かっこいいなぁ"って思って見てたけど、この頃は何でだか見てて嬉しくないんだ。苦しかったり胸が痛くなってりして…なんかおかしいんだ。」
 おや…。
「さっきも、触わった瞬間にそこがものすごく熱くなって…。」
「それで…振り払った、か。」
 こくりと頷く。そして、そんな自分の行動に自分でショックを受けたのだろう。こんなことをすればどうなるかと…。
「触わられると苦しくなるのか?」
「うん。あと、傍にいて温ったかいのが判るくらいんなった時とか、も。」
 それを聞いたサンジは…おもむろに、ひょいっとルフィの顎を捉えて軽くこちらを向くように固定する。
「どうだ?」
「え?」
「嫌か? 苦しかったりするか?」
「ん〜ん、しない。」
 あまりの即答に苦笑し、
「だったら尚更、急がにゃなんねぇぞ?」
 少しばかり愉快そうに、やんわりとそう告げた。
「え?」
「奴はお前にとって"特別"だってことだ。俺やナミさんやウソップなんかも、仲間っていう"特別"なのかも知れんがな、奴だけは…ゾロはもう一個別格の"特別"なんだ。判るか?」
「………。」
「特別ってのは、滅多には無いから"特別"って言うんだぜ? しっかり掴まえとかねぇといけない"特別"なんだ。判るだろ?」
「けど…。」
 まだ少し理屈が頭の中で空回りしているのだろう。ここで必要なのは、彼の背中を押すための切り札だけ。
「ゾロのこと、嫌いなのか?」
「…っ!」
 即座に顔を上げ、強く首を横に振る。あまりの判りやすさに目を細め、
「だったら行って来い。奴は甲板にいる。とっとと掴まえて来い。そいで二度と手を離すな。判ったな?」

    


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