そんなものより大切


        1

  
「馬鹿野郎っっ!」(おおおっとっ)

 珍しいことに、今話は怒号で幕が上がった。

 「「「「「???」」」」」

 遅ればせながら、辺りの風景なんぞをお伝えするならば、青い海は柔らかにうねりながら小さなキャラベルをゆったりと進めていて、潮風も爽やかな穏やかな日和の中。クルーたちそれぞれも、適度に忙しく、適度にのんびりとしていた昼下がりのことだ。昼食に使った食器の後片付けとおやつの下ごしらえが済んだ金髪のシェフ殿は、厨房のあるキャビンから出て来て、やや伏し目がちに紙巻き煙草の先へ火を点けていた。みかん色の髪をした女航海士は、主甲板にがらくた貴重な装備用資材を広げていた狙撃手へ、シャワーの出が悪いんだけど調べておいてくれないかとちゃきちゃきと手際のいい説明をしているところであり、後甲板では愛らしいトナカイドクターと麗しき皇女様がテーブルの上へ植物の図録を広げていて、皇女の故郷に分布する薬草についての考察を展開させようとしかかっていたところ。その傍らには乗用カルガモのカルーがいて、彼らの会話に参加したいかのように大きな真ん丸の眸をクリクリと瞬かせていた。………で、残りの二人の乗員が上甲板に居たのは、皆も承知のいつものセオリー。別に他の面子の出入りが禁止になってしまう訳でもないのだが、殊更に仲のいい船長と戦闘隊長の寛ぎの空間に、用向きもないのにわざわざ割り込む野暮はしたくないだけの話。そんな"インペリアル・スィート"から…もとえ
(笑)上甲板から聞こえた怒号であり、よく通るその声の主は、同じトーンの荒っぽい怒声を続けた。

「いいっ加減にしろよな、まったくよっ! そんなもんの巻き添えで、いちいちはまってんじゃねぇよっ!」
「んだと、この野郎っ! "そんなもん"とは何だ、"そんなもん"とはっ!」
「"そんなもん"でなきゃ何だってんだっ! 命と引き換えにされちゃ堪んねぇって言ってんだっ!」
「馬鹿野郎っ! これは俺の宝なんだぞ!」
「判っとるわっ、そんくらいっっ!」

 それ以上の応酬はなかった。というのが、息の続く限り一気にまくし立てたまま、どちらも引く気配のないままに思い切り睨み合っていた二人だったものが、
「………。」
 思い切りいからせていた肩をため息と共にすとんと定位置に落とし、ふいっとそっぽを向くと、キャビンへと向かったゾロであったからで。とはいえ、不機嫌そうな表情なままなところを見ると、いつものように"しょうがないなぁ"とか"敵わないなぁ"とかいう方向へ苦笑混じりにその矛先を収めた彼ではないらしい。主甲板へと降りながら、何かを邪険に払い除けるような仕草で頭を振るったゾロの、短い緑の髪の先から飛んだ海水の飛沫が、陽射しを弾いてちかりと光った。
「………。」
 甲板に居残ったルフィはと言えば、やはりずぶ濡れのまま羊頭に向き直った…が、
「………。」
 しばらくじっと睨んでみてから、
「…うう"。」
 小さく唸ってその場にどっかと腰を下ろして胡座をかいた。


  …………………………………………………………………………。


 シャワーを浴びに下階層へ降りるつもりらしい剣豪が、キャビンの扉の向こうへと消えて………幾刻か。
「何だったの、一体。」
 位置的に状況の全てが見えていたろうシェフ殿のところへ、残りのクルーたちが素早く集まっている。相変わらず、妙なところでチームワークに長けた人たちであることよ。
(笑)そして、
「何って…。」
 圧倒されたように厨房前の手摺りに背を預けて、詰め寄る皆様に少々戸惑って見せるシェフ殿であり、そんな彼の肩の向こうには、確かに上甲板がよ〜く見通せる。今は、胡座をかいたままな船長殿の小さな背中だけがちょこなんとあるだけだが、
「聞こえてた通りですよ、ナミさん。ただの喧嘩ですって。」
「ただの?」
 怪訝に感じたのはナミだけではない。
「そんな調子ではなかったような気がしましたが。」
 ビビもまた、心配そうに眉間を曇らせている。
「Mr.ブシドーは、ルフィさんにだけは世界一温厚な人なのに。」
 楚々としつつも思い切りのいいご発言で、
「…言うわね、あんたも。」
 馴染んだもんだ、まったく。
(笑) それはともかく。彼女らの言いたいことはサンジにも判るのか、
「まあ、ただのってのは違いますかね。どうやら海に落っこちたらしいんですよ、ルフィが。」
 そうと付け足したから、
「え…?」
「…あら。」
「おいおい。」
 途端にナミとビビが顔を見合わせ、ウソップが大きく眸を見張る。
「でもでも、ゾロが助けたんだろ? なあ、サンジ。」
 足元近くから、シェフ殿のズボンをくんくんと引いて聞くのはチョッパーだ。小さな船医殿を見下ろすと、安心させるような笑い方をして、
「ああ。相変わらず"すかさずに"ってタイミングだったぜ。」
 サンジはそうと答えてやった。何しろ我らが船長には"悪魔の実"により途轍もない能力を得たのと引き換えに、海から呪われた身になってしまったという多大なハンデキャップがある。海に落ちれば全身から力を奪われて、身動きひとつ出来ないままに海底まで沈んでいってしまうのだ。チョッパーが殊更に心配そうな顔になったのは、彼もまた同じく"悪魔の実の能力者"だからだろうか。サンジからの答えにホッとして、
「そだよな。だって、ゾロはルフィと凄っごく仲良しだもんな。いっつもちゃんと助けてるんだもんな。」
 仲間に加わってまだ日が浅いチョッパーとしては、最初の内はルフィが海へ落ちたと知るや、大変だ大変だと一人バタバタ慌てていたもので。それが何とか落ち着いたのは、ちゃんと船長専属のレスキュー役がいるのだと判ったからだ。
「でも…まあ、ねぇ。」
 せっかく安心させたは良かったが。その傍らで…少々複雑な事情背景を考慮したのだろう、ナミがどこかややこしい声を出した。
「あいつが怒鳴ったのも、まあ判らなくはないかもね。」
「何でだ?」
「だって、今日で三日連続だし、今朝も一度落ちてたし。」
 おおお…。よくもまあ、げんなりと呆れもせず付き合って来たもんだよなと、褒められて良いほどの出動を繰り返したレスキューさんであるらしい。
「しかも、原因は…。」
「ええ。あの帽子です。」
 ナミの言いたいことが重々判るサンジが、頷きながら言ってのけた。
「本来、そうそう簡単に落ちる奴じゃあない。それこそ、あのゴムの技や反射神経が働いて、どんな唐突な波や風にも振り落とされはしない奴だ。」
 いくら底無しの能天気で、尚且つ"仲間の助けがなければ生きてけない自信がある"と公言したことさえあるルフィでも、自分の身を守る最低限の判断は出来ようし、海へ出るというのがどういうことかくらいは重々判っていた筈だ。海賊王になるという遠大な野望を果たすためには、苛酷な世界でまず生き延びねば始まらない。よって、海に呪われた身をどう処すか、勝手に呼吸が出来ているのと同じくらいの反射として、しっかり身につけてもいよう。………ただ、
「あの帽子だけはね。」
 訳知り顔で"うんうん"と頷く仲間たちに、チョッパーは青い鼻をひくひくと震わせて、どこか怪訝そうな顔をする。
"…帽子?"
 柵の隙間から見やった上甲板。ぶわっと吹きつけた風にあおられて頭から浮きかけた麦ワラ帽子を、それは素早く伸びた手が"はしっ"と押さえたのが丁度見えた。そして、
"………帽子。"
 ついつい…鼻の先からつつつっと至近を見上げるようにして、小さな蹄で自分の赤い山高帽子の縁をつまんだチョッパーである。



        2

 結局、三時のティータイムに、どちらもキッチンへ姿を見せなかった二人である。まあ、おやつの時間はもともと皆して好き勝手に過ごしており、キッチンまでわざわざ来る方が珍しいのだが。
「おい、チョッパー。お前も一緒するか?」
 トレイの上へ茶器一式と銘々皿にナイフとサーバー、そして今日の特選デザートである"オレンジのムース・シャルロット風"を1ホール。しっかり準備してお外へお出掛けしようとしていたサンジが声をかけて来る。
「うっと。どこ行くんだ?」
「船長殿へ宅配さね。ちなみに他への配達は済んでる。ナミさんとビビちゃんはレディスルームだぜ。」
 ウソップは眼下の主甲板にいるのが見下ろせて、傍らの樽の上に、埃と陽射し徐けにだろう、蓋付きのトレイがちゃんと運ばれてある。
「…ゾロは?」
「さてな。奴は甘い菓子は好かんのだそうだ。飯以外には特に何か食いたいって性分でもないらしいし。」
 そう言ってから肩を竦めてキッチンを後にするサンジに気づくと、チョッパーもその後にわたわたと続いた。船医殿が訊いたのはゾロの分の処遇ではなく彼の居場所だったのだが、上甲板へ登ってみてサンジが何を省略したかが改めて判った。そこには剣豪の姿はない。さっきの喧嘩が尾を引いて、まだルフィとは顔を合わせたくないのだろうか。
「へい、お待ち。おやつだぞ。」
 上甲板の真ん中辺り。板敷きの上へ直に座り込み、ぼんやりしていた彼であるらしく、サンジの声にハッとして顔を上げた。いかにも"虚を突かれたような"という感のある態度であり、今の今までずっとずっと"ぼ〜〜〜っ"としていたルフィだったらしいというのが、それはよく判った。
「今日のはオレンジムースだ。ナミさん提供のみかんのジュースを使ってあるから、とびきり美味しいぞ?」
 サンジがトレイを適当な辺りへ置いて、ちょうど葉の開いた紅茶を茶器へと注ぎ分ける。それから、見事な橙色も鮮やかに、クッキー生地の器にくるりと包まれたオレンジムースを切り分けるのへと取り掛かるその傍ら、
「あのな、ルフィ。」
「んん?」
 船長殿の隣にチョコンと腰を下ろしたトナカイドクターは、
「なんでゾロを怒らせたんだ?」
 本人にズバリと訊いてみた。ビビの言いようではないが、余っ程のことでもなければ、ルフィの言動でゾロがああまで頭に来ることはまずない。確かに…突拍子もない事を言ったりしでかしたりする困ったキャプテンで、まだまだ慣れないチョッパーなぞは、いちいち泡を食っては"どうしよう、どうしよう"とわたわたするばかりだったりするのだが、他のクルーたちはさすがは付き合いが長いせいでか落ち着いたもの。落ち着きが過ぎて"自業自得なんだから自分で何とかしな"と素っ気なかったり冷たかったりする中にあって、やれやれと腰を上げていつもいつもフォローに回るのが、あの…どこか恐持てがして一番冷ややかなまでに素っ気なさそうに見える剣豪殿なのである。
「海へ落っこちたのをちゃんと助けてくれたんだろ? だのに、何でゾロはあんなに怒ってたんだ?」
 いい加減にしろと言ってはいたが、性懲りもないことへ痺れを切らしてとうとう怒った…というような怒り方ではなかったと思う。何かもう一つ。別な理由もあったような、だからこそ頭に来たというような怒り方だった気がする。大きな眸をきょろんと瞬かせ、小首を傾げて訊いてきたチョッパーに、
「………。」
 ルフィは少しばかり俯いたが、
「この帽子のせいで怒ったんだと思う。」
「…帽子?」
 さっき、ナミやサンジも皆も納得していたフレーズ。ドラムの猛吹雪の中でもかぶっていた麦ワラ帽子。どんな時も肌身離さずにいる、ルフィの宝物。随分と年季の入った、相当くたびれた代物で、
「さっき俺が落ちたのは、これが飛ばされそうになったのを追っかけたからで。そいで、そんなに大事なものなら、いっそどこか鍵のかかる箱にでも入れておけば良いのにって言うから、そうじゃなくて、俺の見聞きするもんとこいつもいつも一緒でなきゃいけないんだって、そう言ったら急に怒り出したんだ。」
 拙い言い方で説明をし、慣れた仕草で片手で取ったそれを膝の上に見下ろして、ふうと小さな溜息を一つ。彼にしてみても"なんで?"という部分には…正直言ってまだ理解が追いついていない。なんでいきなり、ああまで怒鳴るほど怒り出したゾロなのだろうか。この帽子をそれは大切にしている自分だと、ちゃんと知ってる彼なのに。グランドラインに突入したドタバタの真っ只中。どうしても飛ばされるだろうなと危ぶんで、何も言わず、後ろ向きに手渡したのへ、すかさず手が伸びてて預かっててくれたゾロだったのに。
「失
くしたら困るだろうって、そう言ってくれたのに、ルフィが聞かなかったからじゃないのか?」
 舌っ足らずな幼い声が言うのへ、
「だって、この帽子は大切なんだ。俺の、俺だけの宝なんだ。だから、いつも傍になきゃいけないんだ。」
 ルフィは真剣な顔を上げて見せる。聞きようによっては何だか理屈がおかしくて、サンジとしては突っ込みを入れたくもなったが、ここは…我慢を決め込んだ。一方、
「そっか、宝か。」
 ルフィの言葉に誘われて、やっぱり自然とその縁をつまんだ山高帽子。チョッパーにとっても、大好きな人からの、生まれて初めてもらったプレゼントであるこの赤い帽子は、何にも代え難い大切な宝物で。肌身離さず一心同体、いつもいつも身につけていたいと思ってやまない、それはそれは大事な帽子だ。そんなお揃いの要素だったせいか、
「そだな。大切なもの、悪く言われたら腹が立つよな。」
「だろう?」
 同志を得たとばかり、鼻息も荒く頷き合う二人だが、
「おいおい、待て待て。」
 ムースを切り分けながら苦笑混じりに聞いていたサンジが、思わぬ方向へ逸れそうな話の行方に気づいて、慌てたように口を挟んでくる。
「俺もウソップからの又聞きなんで、もしかしたら何か聞き漏らしてるのかも知れんがな。その帽子をお前に預けた人ってのは、確か、ずっとガキだったお前の命を助けた人だって聞いてる。そんな人が、お前が命を落としてまでその帽子を守ったって聞いて喜ぶのか? そりゃあ、大切にしてくれるのは嬉しいかも知れないが、優先順位は違うんじゃねぇのか?」
 あまりお節介を焼くのもなぁと、ホントは放っておくつもりでいたのだが、お子様たちの妙な気の合いようが、ついつい彼を焦らせた辺り…実は気のいいシェフ殿で。
「お前にとって大切なもんだってのは俺も知ってる。奴だってそんくらい重々知ってるからこそ、お前じゃなく帽子の方だけが落ちたのを拾いにだって飛び込んでやってる。」
 今日は違ったが、そういう日も、実はたまにある。
「けどな。帽子は帽子だ。人より大切ってこたあ、まずはない。」
 まして、奴にとってのお前は別格だし…とまでわざわざ言うのはさすがに野暮なので、その点だけは控えたサンジだったが、
「………。」
 ルフィは手渡されたムースを、だが、甲板の上へ置いたまま、少々考え込んでいる様子。そもそも、ルフィはかつてサンジにこんな啖呵を切ってもいる。

  『生かしてもらっておいて死ぬなんてのは、弱い奴のすることだっ!』

 命を盾にするのは、それが例え"自己犠牲"であれ、ある意味で努力や忍耐の放棄であり、一種の潰走だ。どんな窮地であろうと、まだ何か方法があるはずで、まだ幾らかは我慢も利くはずで、必死で生き延びるという方向へ執着しなければ、助けてもらった恩に報いることにはならない。まあ、今回のはそういう切羽詰まった場面ではないのだが、ならば尚更に、せっかく助けてもらった命を代替品にされては、助けた側の立場が無いのではなかろうか。そんなつもりで助けたんじゃない筈だと、いつぞやサンジに怒声を浴びせたルフィが、そんなことも判らないのは本末転倒ではないのだろうか。自分たちは皆、多かれ少なかれ、そういった体験を実際に乗り越えて永らえて来た、似たところのある者たちだ。大切な人の命を失ったり奪われたり。夢を犠牲に庇われたり守られたり。それでも生きろと、その分を引き継いでしぶとく雄々しく生きろと自に課した強者たちである筈で。
"………。"
 そういった小理屈を、だが、実際には並べずに、その代わりのように"にやっ"と笑って、
「無茶にも限度があるって言うが、身の程知らずにも無茶苦茶レベルの高い奴へと一人で戦いを挑んでみたり、立っているのが不思議なくらいの大怪我抱えながら戦ったりするような無茶は…。」
 例えを並べてみたサンジからして途中で気がついたらしく、
「それ、ゾロの奴がもうやらかしてる無茶じゃねぇのか?」
「…まあな。」
 ルフィからの突っ込みに、口の端に咥えていた煙草もついつい下を向く。庇い甲斐のない人だ。
(笑)
「確かに、あいつや、そう…俺だってとんでもねぇ無茶はするわな。他人のことは言えねぇさ。………ただ。」
 びしっと立てた人差し指を、船長殿の眉間目がけて指し示し、
「それが雌雄を決するような、もしくは誇りを賭けた戦いでなら、その無茶で命落としてもどっかで納得いくがな。帽子と引き換えに"うっかり"で死なれちゃあ…そんな身勝手されちゃあ、俺だって怒るぜ? キャプテンさんよ。」
 そうと言ってのけたシェフ殿には、
「………うん。」
 今度こそはルフィも何かしら感じ入ったらしくって。やや俯いて、無表情のまま、
「………。」
 しばしの無言が続いた後で、
「…その、ちょっと…ゾロと話して来るわ。」

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