黒い瞳の…

        

 どうにも寝覚めが悪かった。ホームへすべり込んで来た地下鉄車輛の、むっとするガソリン臭を孕んだ埃まみれの風がまともに顔に当たって、ますます眉間の皺が深くなる。風に叩かれてその長身の体に張り付いたスーツが、そのまま一気にガスを染ませたような気がして鬱陶しい。人々の交わす朝の挨拶まで忌ま忌ましく聞こえる。
"何が良い朝
グッモーニンだよっ。"
 生まれ育った町のある、R市警の刑事部窃盗課に配属されて早2年。キャリア的にはまだまだ新米に毛の生えたようなものだが、持ち前のタフさと鍛え抜かれて引き締まった体躯、更には幼い頃からの修養で身につけた数々の武道を生かし、犯人検挙数は課内でダントツ。誰からも"ホープ"と称される敏腕刑事、それがこのロロノア=ゾロである。(季節柄、トレンチコートは着ていません。
おいおい)管轄内の婦警や女性事務官たちからもこっそり人気があって、地域の住民の皆様たちにも受けは良い。身辺もきれいで友人も多く、欠点があるとするなら少々融通が利かない朴念仁なところくらいかなという、将来有望なバリバリのエリートだが、それがすこぶる不機嫌そうに署までの道を歩いている。顔見知りのスタンドショップの新聞売りのおじさんが小首を傾げ、すれ違いざま肩をぶつけた気の強そうな若者が、だが、その身から立ちのぼるような気魄に怯えて、たじたじと後ずさりして逃げたほどだから、いかに恐ろしい不機嫌さ加減かは推して知るべしというところ。
"………。"
 事の起こりは昨夜に逆上る。窃盗団が裏通りの電器店を襲撃していると報告があり、現場に駆けつけた警官たちの中、指揮者としてその場に居合わせたゾロは、ふと目につく逃げ方をした少年を追った。目につくという言い方は少々不適切で、野次馬の一人だったそのままたいそう自然に引いた身を、さっと翻した様子がいやに場慣れした見事さだったのが、ゾロには却って目線を誘う代物として映ったのだ。はしこく逃げる小さめの背中を追って、下町の細い路地をスーツの裾を翻すようにして、軽快に駆けて駆けて追い詰めたフェンス際。壁に羽交い締めにし、検挙しようと手錠を出したその耳へ、
〈…ゾロ?〉
 届いた声に覚えがあった。軽やかに弾んでくすぐったい、ちょっぴり舌っ足らずな声。
〈え?〉
 どこぞのパブのそれだろう、粗末な裏口の傍へ乱雑に積まれた段ボール箱や木箱を照らして、眠たげな瞬きのような点滅を繰り返す街灯の下、相手の顔をのぞき込む。ざんばらなぱさぱさの黒い髪に大きな眸。どこかで見たことがあるような…と感じたゾロの表情が急速に変化して、
〈お前っ!〉
 小さな驚きに弾かれる。一方、こちらを見据えていた相手は、自分を押さえていた手が緩んだその刹那、何を思ったか体ごと振り向くと、そのまま"するり"と抱きついてきた。シャツ越しでも判る細い腕が首条へからみつき、そして、
〈…っ!〉
 耳元に甘い吐息を吹きかけて来たものだから、びっくりして身を剥がしたゾロであり、
〈ま、待て…っ!〉
 その隙をついて、少年は軽々とフェンスを乗り越え、まんまと夜の帳
(とばり)の中へ逃走してしまったのである。そんな間の抜けた顛末で取り逃がしたことも勿論腹立たしいが、それ以上に、ゾロとしては気になることがある。
"あれは…。"
 見間違える筈がない。物心ついた頃からずっと、まるで実の弟のように一緒に育てられた人物だ。今でも時折、実家の両親が何かにつけて思い出しては口にする、かわいいかわいい坊やだった少年。
「Hey、guy!」
 不意に声をかけて来た者があり、だが、覚えがないので無視すると、タッと目の前に飛び降りて来る。街路に沿って連なっていた塀の上にいたのだろう。
「つれないね。昨夜はあんなに構ってくれたのに。」
「…っ!」
 その声と内容にハッとして、足元の石畳ばかりを睨んでいた顔を上げる。履き慣らしたスニーカーに、浅い色合いのブルージーンズ。赤系統の格子柄の綿シャツに合皮のブルゾンを重ね着た細っこい身体。そして…すっかりと上げ切らぬ高さにあったのは、頭の後ろへ両腕を回した童顔も懐かしい、幼馴染みの顔ではないか。
「ルフィ…。」
「久し振りだな、ゾロ。」
 屈託のない笑顔がすいっと近寄って来て、小声で、
「刑事だなんて、かっちょいいじゃん。」
 そうと付け足す。往来で公言されては何かと困る職種だ。気を遣ってくれたらしい。だが、ゾロとしてはそれどころじゃない。
「お前、昨夜は…。」
「そうそう、昨夜。」
 ゾロの言葉の先を引ったくり、ルフィは宙で指先を振って見せた。
「なんか勘違いされてんじゃないかって思ってさ。そんで自分から来たってワケ。」
「勘違い?」
「窃盗グループの一人じゃないかって疑ってない?」
「…違うのか?」
「そうだったらこんな風に警察の近くになんか顔出さねぇよ。」
 何が可笑しいのか、殊更に明るく笑って見せる彼だった。


 とりあえずは署に向かい、一旦刑事部屋に顔を出して、上司への昨夜の顛末の報告を手短に済ませ、夜詰めの当番からの引き継ぎもそこそこに急いで出て来たゾロを、ルフィはちゃんと待っていた。
「あの近所にタマリにしてるパーラーがあるんだ。そこでダチと会ってたらあの騒ぎだろ? しかも逃げ出した連中は俺と似たような年格好の奴らだ。間違えられちゃあかなわないって思ったからその場から離れようとしたら、目の聡い刑事が見逃さないで追っかけて来たってわけ。」
 歩きながら、彼が昨夜見せた態度の一部始終を説明してくれる。そこまで語ったところで、何かしら思い出したらしく、プッと吹き出すと、
「相変わらず耳が弱いんだからな。笑っちまったぜ。」
「ルフィ〜〜〜っ!」
 小さかった頃にも悪戯しては追い回される切っ掛けにしていたゾロの弱点だ。どこか生真面目で大人びたところが多かったゾロが、唯一子供らしくはしゃぐのは、いつもこの少年が相手の時だけだった。天真爛漫で、いつもいつも明るく御機嫌な顔で笑っていたルフィ。周囲の人々まで、ついついつられて微笑まずにはおれないほど、愛らしくて無邪気だった男の子。それがそのまま数年経ったらこうなったという姿格好で目の前にいる。大きな人懐っこい眸も、見ているだけで和んでしまう屈託のない笑い方も、印象としてはまるきり変わっておらず、そのくせ、ひょろりと長い腕や脚がああもうそういう年頃だもんなと感じさせる。
「ここだ。」
 辿り着いたのは、ダウンタウンの場末近くに建つ、少しばかり古ぼけたアパートメント。エントランスですれ違う住民たちが明るく会釈をし、ルフィも気さくに応じている。
「入んなよ。」
「いいのか?」
「どうせ誰もいないさ。一人暮らしだから。」
 セメントが打ちっぱなしにされた埃っぽい階段を上がって、3階の一番手前。鍵を回してドアに手をかけたルフィだったが、開いた途端に、
「ルフィっ! てめぇ、よくもナミさんの伝言を握り潰しやがったなっ!」
 いきなりの怒号が飛んで来たため、後に続きかけていたゾロは少なからず驚いた。いやに堂に入ったがなり方で、だが、
「なんだ、サンジか。」
 ルフィ本人は至ってけろりとしていて慣れた様子でいる。この勢いにすっかり馴染むほどの仲だということか。男の怒号はまだ続いて、
「なんだじゃねぇよっ! ナミさんから伝言預かってたっていうじゃねぇかっ!」
「あ…忘れてた。今朝一番に迎えに来てって…。」
「今何時だと思ってんだ、ああ?」
「あはは、悪りぃ悪りぃ。」
 屈託のない、つまりは実のない謝り方をするルフィに、唸り出しそうな顔で睨みを利かせている男。闇色のダークスーツに細めのネクタイも黒。それらが吸いついて見えるような痩躯で、だが、意外と年は若そうだ。服装の陰のようなイメージとは対照的に、たいそう色が白く、癖のないハニーブロンドの髪を撫でつけずに長く流していて、左の目なぞは前髪に覆われて見えないほど。
「…あん?」
 見るとはなしに観察する客に気づいてか、少しばかり胡散臭そうな顔になる。
「ああ、俺の幼なじみなんだ。昨夜、偶然会ってさ。」
 そうは言ったがお互いを紹介しようとはしないルフィであり、こっちにもあっちにも共通点が無さ過ぎるからか、それとも知り合いになっては不味かろうとどちらかに気を遣ったか。
「ふ〜ん。」
 それほどジロジロ眺めたつもりはなかったが、こちらを睨
ねめつけるようにしてから、
「ともかく。今度こんな抜けた真似しやがったらタダじゃおかねぇからな。」
「うん。ごめんな、サンジ。」
 ややもすると剣呑なやり取りを最後に、男は部屋から出て行った。こんな半端な時間に年端も行かぬ少年の家に入り込んでいたりする辺り、どこか得体の知れない男である。
「ごめん、ビックリさせちゃったな。」
「いや…。」
「入ってくれよ。散らかってるけど。コーヒーでいいよな?」
 散らかってるというほど家具はない部屋だ。元からの据えつけだったらしい、古びた冷蔵庫と流し台しかないキッチン。次の部屋にはいきなり隅の窓辺にベッドがあって、応接セット用の小さなテーブルと粗末な丸椅子が3脚ほど。壁にはこれも作り付けらしいクロゼットがはめ込まれていて、それら以外の家具はない、いかにも殺風景な場所だ。
「親父さんは? エースはどうしたんだ?」
「エースは武者修行でカナダを横断中。たまに手紙がくるぜ。親父は、太平洋かな? 相変わらず、船から船だ。」
 思えば大雑把な一家だった。父親は船乗りで、年の離れた兄は武道マニア。いつも誰もいない家。そんなせいで、ルフィはすぐお隣りのゾロの家にいる時間の方が長かった。無邪気で愛らしい彼は、ゾロの両親から無愛想な息子よりも可愛がられていて、父親の乗る船の基地港
(ベース)が変わるから引っ越すことになった時なぞは、良ければ大人になるまでウチで預かろうと、両親たちがぎりぎりまで粘ったのを覚えている。
「…何だよ。」
 コーヒーを出し、向かい合って座って…。何だか妙にニコニコと嬉しそうなルフィだと気がついた。こっちは昨夜の遭遇から今朝までのずっと、キツネにつままれたような、それでいてどこか歯痒く腹立たしい想いでいたというのに。声をかけると"えへへ…"と笑って、
「うん、だってさ。ゾロが凄くカッコいいんだもの。」
「はあ?」
「俺、小さい頃からゾロはきっと凄んげぇカッコよくなるって思ってたんだ。背も高いし、身体も鍛えててかっちりしてるし、目もちょっと吊り上がってて切れ長でキツイとこが男らしいし、顔立ちだって男臭いし。性格だって、寡黙っていうのかな、余計なことは言わなくてさ。そのくせホントはやさしいの、照れ臭いから隠してんだよな。」
「…ルフィ。」
 何をズラズラと並べてくれてんだよと面映ゆくなったゾロへ、
「何から何まで俺と正反対だったから、これは絶対カッコよくなるんだろうなって思ってた。そしたら、その通りの男前になって現れたんだもの。だから、も一回会いたくなって、警察の近くで待ってたってワケ。」
 どこまでが本気で、どこからが冗談なのやら。ゾロとしては掴み難くて思わずのため息が出るばかり。
「お前、ホントに窃盗団とは関係ないんだろうな。」
「しつっこいな。そうだったら家にまで呼んでねぇってば。なんかあったらヤサ入れされちまうじゃないか。」
 そうは言っても、例えば…蓮っ葉な物言いが何だか気になる。汚らしいまでのブロークンではないが、ゾロの周囲の人々はまずは使わない乱暴な言葉遣い。小さかった頃の彼があまりに無邪気だったその印象が拭えないせいか、よほどの何かがあって、それで人格まで影響を受けてすっかり変わってしまったのではなかろうかと、そこまでの裏読みをしてしまったほどだ。
「ルフィ…。」
「あ、ちょっと待って。」
 携帯電話が鳴った。
「ああ、うん。俺。…あ、今はちょっと。後で掛けるな。」
 手短に伝えて電源を切ると苦笑する。
「これでも人気者なんだぜ。」
 にかっと笑った笑顔の底には、確かにあのお日様みたいな面影があった。

            ◇

〈また会おうな。今度は食事でもしながらさ。〉
 会えなかった十年近く。自分が進学し、その学校を出て今の職に就くまでに色々あったように、ルフィの側にだって色々があったろう。今時の腕白。そういう解釈をすれば、あのどこか蓮っ葉で行儀の悪そうな様子だってそうそう極端な変貌というものでもない。ただ、
"………。"
 やっぱり何かが引っ掛かる。やんちゃで誰からも好かれて、お日様のようだった彼だが、どうしてだろう、ゾロには…どこか別のイメージも浮かんで来て仕方がない。水の面に写った月影のように、手を触れればたちまち散って見えなくなるもどかしいイメージ。はっきりとは思い出せないのだが、それがあるから、今の彼というあの顔が、やはり何かを含んだものに思えたのかもしれない。
「…という訳で、早急に対策を講じ、一日も早い検挙を目指して…。」
 あの夜、取り逃がした窃盗団は、新興勢力らしくてメンバーの誰一人として捕まってはいない。素晴らしいチームワークで幹部たちが警官たちを引っ張り回し、その隙に配下の少年たちが盗品を抱えて散り散りに逃げ果
おおす。そうと解説された鮮やかな逃走ぶりというのが、あの夜のルフィの猫のような身ごなしをゾロの脳裏に思い起こさせたが、
"…まさか、な。"
 そんなことがある筈がないと、目を伏せて失笑する。瞼の底には、何故だか…最初の再会で薄暗がりの中で見た、何かしら企んでいるかのような悪戯っぽい含みを帯びていた方のルフィの顔が、浮かんで消えた。


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