エマージェンシー・スクランブル?
 


        1


「…んだとぉ?」
 ふと、耳についたのはその一言だった。低くうねりながら語尾がひょいっと跳ね上がるような語調。相手が言を左右にして逃げることを許さない、まるでニシキヘビがトグロを広げながら鎌首を追っ立てるような言い回し。そんな威嚇的な話し方をしなさそうなキャラクターな筈だ…とまでは決して言えないが、そんな挑発的な一言を彼が投げかけた相手が相手だったから、
「…っ?!」
 ビビは尚のこと自分の耳を疑い、その大きな瞳を見開いてしまったのだ。
「そんな分からず屋だとは思わなかったぜっ!」
「そっちこそ。もぉお、愛想が尽きたっ! これまでだなっ!」
 毎度お馴染みのパターンで、補給のために立ち寄った隠れ島の港町。ここには海軍や世界政府筋の公的施設や派出所はなく、その割には随分とにぎわっている明るい土地で。
〈なんでも丘の上に温泉が湧いてるらしいわよ? それも飲泉どころじゃない、本格的な"スパ"ってやつ。〉
 欧州で"温泉"というと、大概が冷泉で、しかも飲むためのものが結構多い。その昔、ローマ風呂が伝染病の温床になってしまったことを切っ掛けに、大衆共同浴場というものが衰退し、沐浴という習慣も廃れたその上、日本ほど縦横無尽に火山帯がある訳でなし、そうそうあちこちでぼこぼこと、人が大勢つかれるほどの鉱泉が沸いて出るものでもない…という訳で、日本人が"温泉"といえば思い浮かべる大きなお風呂、所謂"スパ"は、欧州ではよほど設備が整っているところでないとお目にはかかれない。話が随分と逸れたが…ナミが仕入れた情報によれば、この島にはその"スパ"があるということで、それを目当ての観光客や湯治客が多いらしい。そこで、午後にもその施設で合流して一汗流しましょうよという話がついていて、午前中に必要な買い物を済ませようと町へ繰り出したのが、サンジにビビにウソップと、ルフィとゾロという合計5人。ナミはあと少しで書き上がる海図にかかっていたため、自分から船番を申し出ており不在であった。………で、
「…ルフィさん? Mr.ブシドー?」
 選りにも選って、クルーたちの中でも一番に仲が良く一番に互いを信頼し合っているというその間柄が誰の目にも明らかな二人が、きつく睨みつけ合いながら、先の罵倒句を投げつけ合っていたのだから、これは到底信じられるものではなくて。ビビはたいそう驚きながらも、彼らの傍らへと取り急ぎ向かうことにした。ほんのついさっきまで…買い物も終わって、おとぎ話の絵本に出てくるような町並みと古びた石畳も味わいのある広場の一隅へテーブルを並べたカフェで、一休みとばかりに自分ともども彼らもまた息抜きをしていた筈だった。それが、何がどうして、こうまで激しく罵り合うようなことになってしまったのか。
「お願いだから、やめてっ!」
 射すくめるような鋭い眸と眸で睨み合い、今にも掴み合いの喧嘩に発展するのではなかろうかというほど、恐ろしいまでの本気の気迫に満ちた彼らであり、ビビはとりあえず、近かった方のルフィの腕に取りすがった。
「こんな場所で騒ぎを起こすなんて…一体どうしたの?」
 二人の顔を交互に見やる。ビビが言うのももっともな話で、彼らの雰囲気に怖いもの見たさだろう野次馬たちが集まりかかっていて、人垣らしきものが出来かけてもいた。そんな周囲のムードと、真摯な顔で制止にと割って入った彼女とに、多少は気勢が削がれたらしい二人だったが、
「勝手にしやがれっ。」
「ああ、言われんでもねぇよっ!」
 ふんっと鼻息も荒く、そんな言葉を投げつけ合うから、心情的にはちっとも収まってはいないらしい。そして…見事なまでにきっぱりと背中を向け合ったそのまま、右と左へそれぞれが立ち去ろうと歩き始めたから、
「あ、ちょっと待ってっ! ルフィさんっ、Mr.ブシドーっ。」
 ビビは慌てて二人を呼び止めようと声を掛けた。だが、まるで聞こえてはいない様子で、双方とも足早に立ち去って行くではないか。ぴんと伸ばされた背中が、何者からの言葉であろうときっぱりと拒絶しているかに見えて。それより何より、自分の身は一つしかないため、一体どちらを追えば良いのかという躊躇が彼女の足をその場に釘付けにする。
「どうしたんだよ、ビビ。」
 彼らの様子に今頃気づいたか、それとも…気がついてはいたが深くは考えていなかったか、残りの連れたちがやっと傍らまでやって来てそんな声をかける。集まりかかっていた見物の衆たちは散りかけていて、それでもビビは声をひそめた。
「ウソップさん、どうしたら…やっぱり追った方が良いのかしら?」
 戸惑いに眉を顰めてしまう彼女へ、
「放っときゃいいんだよ、ビビちゃん。」
 かけられたのは狙撃手の声ではなく、
「サンジさん。」
 別な方向から歩みを運んで来たコック殿だ。柔らかな金の髪が、陽射しを受けてその輪郭を淡く滲ませている。潮風に流れたその裾を、指先でピッと頬へと避けながら、
「ただの喧嘩だ。あいつらがどんだけ仲が良いかは知ってんだろう? こういうこともたまにはあるが、すぐに仲直りするさ。」
 サンジもまた大して驚いてはおらず、平生の顔でいる様子。だが、
"そうかしら。いつもの口喧嘩とは全然違ったわ。むしろ…。"
 ビビだってそのくらいは知っている。どこか無邪気でまるで子供な船長と、そんな彼と一番気が合い、お気に入りとまでされている相棒の剣豪と。始終一緒にいるせいでか、他愛のない口喧嘩もしょっちゅうやっているようだし、笑い話のような悶着だって幾つとなく巻き起こしてもいた二人だ。勿論のこと、ただの子供じみた"仲良し"という訳ではなく、無茶をするルフィを時折叱ったりもしているゾロの姿は結構目にしているし、逆に、そんなゾロが悠然と戦う様を、手出しを一切せずに見守ることもあるルフィの姿だって知っている。ただ、今さっきの二人の様子からビビが思い出したのは、どういう訳だか…あの凄まじい大喧嘩なのだ。
「そうだよな。たまにゃあ虫の居所が悪いってことだってあらぁな。」
 呑気そうな言葉を連ねるウソップに、違う違うと首を振って見せながら、
「あなた方は見てないからそんなことが言えるんです。」
 ビビはそうと言ってのけた。彼女がこの一団に加わることとなった町、ウィスキー・ピーク。誤解からとはいえ、ルフィとゾロが本気で相手を叩きのめそうという喧嘩を繰り広げたことがあった。いや、あれは喧嘩というより既に"戦い"だったかも。ルフィは岩をも砕く本気の拳を振るっていたし、ゾロはゾロで、刀を3本とも抜いて構え、本気の印である黒手ぬぐいを頭にきりりと巻いてもいた。全力本気で戦うぞという態勢を双方が見せていた、後にも先にもただ一度の本気での衝突だった。…原因は凄んごく馬鹿々々しかったけれどもね。それを彷彿とさせるほどの勢いというか、気勢があって、それで何だか落ち着けないビビなのだ。
「彼らは、他でもないあの二人同士であっても、殺しかねない本気の喧嘩だってしちゃうんですよ? 今の言い争いはそれと同じくらい真剣なものだったわ。」
 とはいえ、丁度その大騒ぎの間中、呑気にもぐうぐうと寝入っていたこの二人であり、今回もまたまた、
「ああ、そういやナミから前に聞いたことがあるが。」
「でも、ナミさんが割って入って制
めたって言ってたよな。」
 実に呑気そうな見解を並べるものだから、
「………っ。」
 彼らが言いたいことはビビにも判った。その時も、そして今もまた、女性が大人しやかに"お願いやめて"と割って入ってすんなり収まったと思っているらしいと。そして、実際はといえば…そんな絵に描いたような、ドラマ仕立ての美しい代物ではなかった事実も知っているビビとしては、だが、そこまでの詳細はとてもではないが口には出来なかった。…だってナミさんに悪いじゃないよ。本人は案外気にしないかもしんないけども。
あはは そんなこんなという心の葛藤に、唇を歪めると、くっと顔を上げ、
「判りました。私一人で何とかします。」
 そう言って、ゾロが立ち去った方へと駆け出す彼女だ。さすがは責任感の強い皇女様。今動かねばと思った以上、協力の有る無しにばかり頼ってはいないで行動に移るところは相変わらずの大胆さである。そんな彼女を見送る格好で、
「…う〜ん。」
 まだどこか何が何やらという状態で取り残されたサンジとウソップだったが、そこはさすがに機転を利かせるのは素早い人たち。
「仕方ねぇなぁ。お前はビビちゃんと一緒にゾロのクソ野郎を追っかけろ。」
「え? 何でだよ」
「だ〜〜〜っ、ちったぁ頭使えって。ビビちゃんはただ女の子だってだけじゃない、命を狙われてる身だぞ? 本当に彼女が言うような喧嘩で、ゾロに戻る気がなかったらどうすんだよ。一人で船まで帰って来させんのか?」
「あ、そうか。」
 そりゃあ確かに放ってはおけんと、ウソップは慌てて駆け出した。それを見送ったサンジは、新しい煙草に火を点けつつ、
"ま、そこまで言うなら、危険な賭けにはなるが、むしろビビちゃん一人の方が、良いのかもな。"
 は? そりゃまた一体どういうことで?
"あの馬鹿も…ゾロの野郎もそのくらいの理屈は判ろうから、本意は別にあっても、彼女を送ってかないとって思ってくれるやも知れん。そういう形で奴ごと船まで連れ帰れるかも知れんというこったよ。"
 あ、そうか。ごめん、筆者もウソップと同レベルだったわ。
「さてと…。」
 こっちはこっちで…と振り返り、人込みの中に消えかかっている麦ワラ帽子を追うことにしたサンジだった。

  


TOPNEXT⇒***