月下星群 〜孤高の昴

          其の三  月の雫


            



 足元からは虫の声、頭上からは時々途切れながらも月光が降りそそぐ。海に近いがための風が揺らすのか、時折木々の梢や茂みがうねるように波打つようにざわめく音もするが、特にどうということもない静かな林だ。海図になかったくらいで、人が住んでいる気配もない小さな島だが、それでも"けもの道"だろうか、木と木の間隔が少しでも空いているところを選んで道なりに進むと、少し開けたところが先にある。下生えや雑草がまばらな緑の絨毯を敷いたそこに、
"………。"
 ルフィが立っていた。首を前に大きく傾けてただ立ち尽くしている背中が見えた。木立ちの天蓋が途切れたので随分な距離を得たと感じて立ち止まったのだろう。背中は結構見慣れている。舳先の羊頭に乗っかって前方を眺めている背中。ここ一番の対決時に、仲間と敵との間に立ちはだかる背中。さほど大きくも強靭でもなさそうなのに、その身が呑んだ強かなゴムの特性と同様、仲間にとってはたいそう頼もしい背中である。………が、
"…っ。"
 月の光が思いの外に強くて、夜だというのにいつものようにかぶって来ていた麦ワラ帽子の下、濃い陰が邪魔になって顔はまるで見えない。だが…時折、肩が引きつけるように上がっては降りしているところを見ると、
"………。"
 これは顔を合わせない方がいいなと感じた。何に限らず開けっ広げな彼がわざわざ離れた場所を選んだほどのこと、土足で踏み込んで良いことではないと思ったから。船へ引き返そうと踵を返しかけたところ、
「…っ。」
 日頃は気配には疎い奴なくせして、小さく顎を上げ、肩越しに振り返って来た。何かしらの物思いを中座されて我に返ったような仕草にも似ていたが、
「あ…。」
 こちらを確かめた視線をこちらから逆に辿ったその顔には、誤間化しようのない川が光っている。慌てて乱暴に拭ったその手に何かついていたのか、
「つ…っ!」
 うつむいて…今度はゴシゴシとムキになってこすり始める。
「ほら、何か目に入ったんだ。見せてみろ。」
 見かねて、木立ちから離れて歩み寄ると、無言のまま抵抗を見せる。腕を突っぱねるようにして"寄るな"と態度で示されて、だが、本気での拒絶ではないなと気がついた。小さな子供が駄々をこねるような、小さな小さな抵抗だった。目が痛いという思わぬアクシデントが加わって、混乱してもいるのだろう。押し戻そうと突き出された腕を、
「ほら…。」
 有無をも言わせず掴み取り、そのまま引き寄せる。頭の後ろをごつい手で帽子ごと鷲掴みにし、こちらの胸元へ顔を伏せさせて、
「どんな顔でいるのか、俺には見えてねぇからよ。…そうだな、声も聞こえねぇ。まだ半分ほど頭が寝てっからよ。」
 帽子のツバで隠れて見えないのは事実だ。こっちの言いたいことが通じたのかどうだか、
「………。」
 抵抗がやんで、その代わりに…同じ両手がこちらのシャツの胸元をぎゅうっと掴んで来たのだった。

            ◇

 何も"強い人間は泣いてはいけない、泣くなんて弱虫だけがすることだ"とまでは思わない。途轍もなく感動した時や、身のうち裡に沸き立った歯痒さや怒りを、だが、ぶつける対象もないくらいどうしようもなくなった時に、人は心的ストレスを体外に発散するために泣くか笑うのだそうで。苦笑いが出来る余裕があればいいが、激情の反動がどうしても抑えられないのなら、例えばとっても嬉しいとか、口惜しくて口惜しくて泣くのは構わないとも思う。そう、何かを諦めてしまった自分への同情や感傷の涙でないのなら。再び歩き出すための気持ちの整理(リセット)に必要なら。

「………。」
 どのくらい、そうしていたか。やっと何とか落ち着いたらしく、それでもまだ顔を上げられないのか、じっとそのままでいる。こちらも何も言わないし、何も聞かない。相手の背景には関心が薄いというのか、詮索をしないのはお互い様な"いつもの事"だが、今はこのまま立ち去りがたくて、そのまま同じ夜陰の中にいる。気まずいという空気はもう無いが、口を開く切っ掛けが見えなくて黙っていると、
「…十年前に一生分、泣いた筈なのにな。」
 胸板に直接吐息が当たった短い呟き。だが、何となくの輪郭が掴めて、ゾロは感慨深げに目許を細める。まだ子供だった彼が海賊王になるんだと決めた切っ掛けではないかという予測が立ったから。本人がそれを語ったことは一度も無い。ただ、ウソップの縁故がいるという繋がりがあって、断片的に漏れ聞いたことを繋げばある程度は把握出来る。彼を庇って左腕を無くした、侠気(おとこぎ)あふれる大海賊のことだと。
「ただの夢なのに、また悔しくなったんだ。」
 正直者なのは良いとして、言葉が足りないことも多い彼だが、寝室からこっちの経緯を一つずつ拾い上げるように追って来たゾロには省かれた部分も容易に判った。この彼がこっそりこぼした涙の切っ掛けは、その男の夢を…子供の頃の夢を見たからなのだろうと。恐らく、海へ落ちたことが刺激になって、そんな古いことをまざまざとリアルに思い出しでもしたのだろう。夢のドラマ性はそれを見た人間が構築する。脳裡をよぎったほんの一片の素材に、それと関連するもの感じたものを連想し、その時の心理状態や価値観が演出をし、それらによって物語が織り出される。それが寝て見る夢だ。(これはホント。だから、何の夢かという"お題"にはあんまり神経質になる必要はない。)
「悔しくって腹が立って、辛くって哀しくて、何が始まりだか判んなくなって、それがまた悔しくてさ。」
 昔、自分を助けてくれたシャンクス。ルフィが"度胸の証しだ"と左目の下に自分で傷をつけた時、驚きの素振りさえ見せず、そんなもんは本物の勇気じゃないと請け合わなかった。そのくせ、小さな子供を"友達だから"と本気で庇い、左腕を失ってしまったのに、それでもいつも通り笑ってた。
〈安いもんだ、腕の一本くらい。無事で良かった。〉
 仲間は大切な宝物。ルフィがそう心に刻んだのも、彼が身をもって示した教えのせいだろう。
"………。"
 そして、ゾロにも似た想いの持ち合わせがある。子供の頃のほんの一年ほどだけ一緒にいて、あまりにもあっけなく急逝した親友。凛とした態度がやたら偉そうに見えて小憎ったらしくて。だけど強いのは事実だから悔しくて。世界一の剣豪になりたいものがこんな突端
とっぱなで躓つまづいててどうするんだと、自分にさえも腹が立って年中怒っていたような気がする。天狗になってたところへの初めての"壁"だった彼女と出会って、だが、ゾロの剣術の腕は間違いなく飛躍的に伸びもした。そんな彼女にも絶望と背中合わせなくらいに大きな苦悩があるのだと知った時、やっと生身の人間だと実感し、一緒に凌ぎを削ってく好敵手だと認め合えたのに。ある日突然、形も姿もない"死"が音もなく舞い降りて来て、二人分に大きくなった筈の夢ごと彼女を連れ去ってしまったのだ。
"………。"
 別に答えをくれと思っていたルフィではなかったろうが、
「…ああ、そうだよな。」
つい…口を衝いていた。
「どうしようもないってのが一番堪えるよな。当たりどころが無いから、悔しいのも哀しいのも限きりがない。」
 もう取り返しがつかないことをそうだと認めるのは、一種の"敗北宣言"のようなもの。どんなに意固地になってもそれらは悪あがきに過ぎず、最後には認めるしかないと判っているから尚更に、全ての感情を振り回して怒りや哀切の激情が止まらないのかも知れない。ゾロのそんな呟きに反応して、手の下で軽く押さえられていた帽子が仰向くように動いた。
「? なんで、判るんだ? ゾロ。」
 自分の気持ちをそれは簡潔に代弁してくれたのが、素直に不思議だったのだろう。大きな目が間近からじっと見上げてくる。月光に晒された黒い眸は、頭上に広がる満天の星々の織り出した絶景よりもずっとずっと気分の良い眺めであったらしく、剣豪の口許に柔らかな笑みを誘ったが、
「さあな。」
 説明なんて面倒なことは真っ平だと、いつものように投げ出すズボラさよ。それよりも…分厚い胸板に貼りついていた位置からやっと顔を上げたルフィのその頬に拳の腹を軽くあてがい、
「目はもう痛くないな?」
 静かな声をかける。
「あ…あれ? ホントだ。」
 既とうにゴミも流れ出たらしい。そのまま頬骨の線に沿ってぐいっと擦ってやってから、
「そっちに川が見えてたろ? 顔、洗って来い。」
 涙と洟とでくちゃくちゃで、夜陰の中でなかったらちょ〜っと目も当てられない顔になっている。ああと頷いて駆けて行きかけ、その足が止まって、
「…皆に言うか?」
 こっちを振り返って訊く声は、ちょこっと悪戯っぽい口調。どっちでも良いぞと思っているらしく、もうすっかり持ち直しているなと判る。
「別に。けど、お前が泣いたトコだけ、皆が知らないってのは不公平かもな。」
「そうだっけか?」
 あの伊達男のサンジが、だが、レストランからの別れ際に号泣したらしいことは、あの頃しばし同行していた賞金稼ぎ仲間の弟分のヨサクがうっかり話していたようで。感激屋のウソップは頻繁に涙しているようだし、あの守銭奴冷血女のナミでさえ
(おいおい)…まああの感動の中で泣かない筈はなかろうが。自分だって"鷹の目のミホーク"に力及ばなかったあの時に、悔しくて悔しくて久し振りに涙が出た。だが、思い返せば…この男はまずは泣かない。自分自身にまつわる事態というものにまだ遭遇していないからというのもあろうし、彼にしてみればその"十年前の一件"を越えるような悲劇なんて有り得ないからなのかも。
"そんだけそいつが大事だって事か…。"
そして何より、どんな衝動も全て怒りに変えて突き進む、いたって前向きな彼だからでもあろう。パタパタと川へ駆けてゆく背中を見送って、
"ま、役得ってトコかな。"
 今回は大例外の事態でもあり、元より他へ言って回るようなつもりはなかったし…と、手近な樹に凭れてゾロは夜空を仰いだ。散りばめられた星々と、薄く千切った和紙のような薄雲が時折まとわりつく下弦の月と。油断すると吸い込まれてゆきそうな静けさをたたえた良い夜空だ。自然な仕草で手を載せるのは、腰に差した三本の刀の柄
(つか)。親友に誓った"頂上"へ辿り着くのはまだまだ先だが、前進を続ける意志は揺るぎない。二人分の夢。今はもっと沢山の人たちの人数分の夢になっているのかも知れないと、果たして彼自身は気づいているのだろうか。………と、
「うわぁっ!」
 船長さんの素っ頓狂な声がしたから、反射的に身を起こす。
「どうしたっ。」
 刀の鯉口を片手で切りながらその方向へ駆けつけると…川の中に尻餅をついたような恰好でへたり込んでいるルフィで、川でも"悪魔の実の呪い"は発動するのだろうか。それでは風呂にも入れんぞ?こらこら 冗談はともかく…周囲を油断なく見回したが、危害を加えて来そうな人も獣も付近にはいない。一体何が起こったのかと怪訝そうな顔になる剣豪へ、
「これ踏んだ。」
「…踏んだ?」
「うん。」
 ルフィが指を差して示したのは、すぐ傍らの浅瀬に伸びた2メートル近い大きな魚だ。恐らく…ルフィが無造作に川の流れの中へ踏み込んだ丁度その真下に居合わせたのだろう。何でもなかった訳ではないが、緊迫するという方向の事態ではなかったと来て、ゾロもついつい気が抜けたような声になる。
「…出合い頭ってやつだろうな。」
 う〜ん、それはまた…間の悪いこと。
「喰えんのかな、これ。」
「そりゃあ喰えるだろうさ。サメでもワニでも料理しちまうぜ、奴ならな。」
 誰が…とまで言わなくても言葉少なで充分通じる仲間内。共通の理解が増えるごとに、知らず知らずに蓄積されてゆく連携のようなもの。孤高の一匹狼だった自分にもそういうものが根付いているのがくすぐったくて、内心でついつい苦笑ってしまうゾロである。
「さて・と。」
 戻るとするか…という引き返すようなゾロの仕草に促され、巨魚を小脇に抱えて立ち上がったルフィは、
「で、ゾロ。どっちから来たのか判るか?」
「………。」
 おいおい、おいおい。昨日の今日…どころか、さっきの今だぞ、お二人さん。


           4

 時々樹上に文字通り"伸び上がって"方向を確かめながら…という方法でようやっと浜まで戻る。船に近づくと、頭上の船端から縄ばしごが勝手に降って来た。見上げると、
「お帰りくん。」
 辺りの薄闇に輪郭が滲みかけている黒スーツに、月光に照らし出された金色の髪。船端からこちらを見下ろして、少しばかり手を上げ、ホタルのようにぽうっと光る煙草の火をちょちょいと振って見せる。
「あ、サンジ。」
 さっき話題に上ったコック殿が、やはり起き出していたらしい。甲板へ上がるとさっそく踏んで捕まえた魚を見せるルフィで、
「でっかい鱒マスだなぁ。こんな暖ったかい島にいるとは珍しい。」
 さ〜すがは専門家で、種類と生態圏まであっさり出て来るから凄い。ちなみに、鱒は鮭の仲間で、普段は海で生活し、産卵のために川を逆上る。
「喰えんのか? これ。」
「ああ。ムニエルや香草焼き、カツレツにしてタルタルソースで食べても良いし、奉書包みにして蒸し焼きにしても美味いぞ。」
 しかも…このサンジの超一流の腕にかかったなら、どんな御馳走になることやら。ああ、筆者も喉が鳴ってしまいます。おいおい
「氷室に放り込んどいてくれ。明日の朝にでも捌くから。」
 判ったと明るく返事をし、調理場のある中央のキャビンへ向かう船長を見やりつつ、
「…方向音痴を二人、あんな林ん中へ野放しにするのは心配だったんだがな。」
 顔の向きは動かしていないが、声の大きさからいって、傍らに居残った剣豪さんに向けての話しかけだろう。"ん?"という顔をこちらへ向けるゾロへ、まだそっぽを向いた格好のまま、
「まあ、いざとなったら林を切り開いてでも出て来る野郎たちだし、デートの邪魔しちゃ悪いと思って、ここで待ってたんだがな。」
「誰がデートだ、誰がっ。」
「おっ、図星差されて怒ったか?」
「お前な〜っ。」
 低く唸って凄む顔の真ん前に、煙草を持っていない方の手をかざし、
「夜中なんだから静かにしろよ。ナミさんが起きてくるぜ。女性には美貌を保つために充分な睡眠が必要なんだ。それを夜中に叩き起こすなんて、俺の主義じゃねぇ。」
 相変わらず気障なことを言って、笑って見せる余裕がこれまた憎い。とはいえ…実際に叩いているのは所謂"減らず口"だが、その実、こんな夜更けに用もないのに起き出して彼らの帰りを待っていたとは、この彼もまた、無関心を装いつつ、そのくせ結構仲間を思いやってる人であるらしい。空には下弦の月が目映い。明日も恐らく良い天気だろう。まだまだ続く波乱に満ちた彼らの航海の中にあっては、こんなささやかな出来事なぞ、ほんのひとコマとして呑み込まれてしまうに違いない。ルフィがキャビンから出てくるのを見やって、
「さて、そろそろ寝た方が良いな。」
「ああ。」
 もう今から…いやいやもっとずぅっと以前から、まるで何にもなかったかのように、潮騒と夜風とが単調な囁きを繰り返す凪の夜。瀬に浮かぶ船も再び寝静まり、一幅の風景画となって黙り込む。また明日ネ、おやすみなさい…。

         〜Fine〜



 *どっちかというと『月夜見』パターンっぽいのですが、
  オチが付いたのでこっちに入れました。
  (いや、そういうのが目印なつもりはないんですが。)
  ルフィって泣かないなぁ、
  こういう形でも底が知れない強さを表してんのかなぁ、
 (ゾロがミホークに斬られた時は、
  さすがにちょっぴり悔し涙を浮かべてましたが…。)
  でもそれが強い証しだっていうのはちょっとなぁ…とか、
  そういえば彼のプライベートにからむ現在進行形のエピソードは
  全然出て来ないもんなぁ、
  それじゃあ善悪の天秤を蹴飛ばしてまで感情移入する彼は
  見られないよなぁ…とか、
  そんなこんな思って立ち上げたテーマが
  "もしもルフィが泣くようなことがあったとしたら"だったんですが、
  ああ、何かやっぱり似合わない。
  こんな繊細な過敏さはないかしらねぇ、やっぱり。
  追い詰められたり悔しかったり、
  悲しい涙は見てる方も辛いからイヤだけど、
  畜生っ、今度こそ負けないからなっ…という"悔し涙"は
  別に構わないと思う筆者です。



 *…というのが、書き上げた時の感慨ですが、
  今では懐かしいコメントですねぇ。
  船長さんがちゃんと"船長"たらんとしていますもの。
  それが今や、ルフィさん、結構ぼろぼろ泣いてるし。(わはは。)
  ゾロさんもまだまだノーマルで、
  せいぜい胸を貸してやるぜくらいのノリですしね。
  今だったら、涙をぬぐってやって、
  ついでにキッスくらいしかねんので、
  たった3ヶ月とはいえ時の流れって恐ろしい…。(UP 01.9.19.)


    
←BACKTOP**