月下星群 〜孤高の昴

          其の六  沙漠
 

        


 海辺の小さな村を襲った巨龍。だが、それは"悪魔の実"で龍に変化出来るようになった男の仕業だった。住人たちを蹂躙し、それだけならまだしも…人の姿でいる時に言いくるめるようにして連れ出した幼い少女ルピカを人質に取ったやり方が許せなくて、退治というよりは"通行の邪魔だから…"と対決に出向いた彼らだったが、相手にも弱点である海まで誘い出したものの、最後の最後に選りにも選って"相討ち"という格好になっての鳧がついてしまった。


「いたかーっ!」
「…いや、姿が見えねぇ。」
 嵐も去り、それは晴れやかに夜が明けた翌日。岩礁に囲まれた結構深い入り江中を調べて回ったが、やはりどこにも姿はない。悪魔の実を食べると、人ならぬ能力を得るのと引き換えに海から嫌われてカナヅチになる。海に落ちたが最後、体中から力を奪われ、もがくことさえかなわぬまま海底深く沈んでしまう。
「ゾロ、いいかげん、一度上がれ。」
 自他共に"船長の腹心"とまで見なされている剣豪は、彼を守り切れなかったことへよほど責任を感じてか、それとも…もしかしたらまだ"現在"がつながっているかもしれない"あの瞬間"から手を離したくないからとでも言いたいのか、昨夜からずっと休みなく海の中を捜している。沈んでいるものなら海底だと、呼吸の続く限り、深く深く潜り続けている。だが、いくらずば抜けて強靭な体をした彼であれ、限度というものがあろう。
「お前までイッちまったらどうすんだ。」
「…っ。」
 相手の言いように、一瞬、かっと頭に血が昇ったが、振り仰いだ船端にあの少女の姿も見えて、怒鳴り返しかけた何かを呑み込んだゾロだった。ルフィがらしくもなく気を遣って守った少女。仲が良かったはずの大きなお兄ちゃんたちが痛い言葉で罵り合うのを傍で聞くのは辛かろう。どうせ具体的な語句が出かかっていた訳ではない。ルピカの傍ら、心なしか目線が泳いでいたサンジを見て、彼もまた本意からの言いようではないらしいと判ったし。反対側の入り江はナミとボートで漕ぎ出して、ウソップがやはり潜って探していたが、そちらは浅瀬だ。居たならすぐにも見つかったろう。日頃の何倍にもなったような重い体を引っ張り上げるようにして甲板に戻ると、ルピカが大事そうに麦ワラ帽子を両の手で抱えていた。この海賊団のトレードマーク。持ち主の何にも換え難い宝物だった帽子。
"………。"
 最後に見た顔は…いつものように自分の名を大声で叫んだ彼は、それははっきり"にっ"と笑っていた。丁度荒れ狂っていた嵐の中、闇をでたらめに切り裂いていた稲光に負けないくらい、自信満々な顔だった。そういえばローグタウンでの処刑騒動の時も、蛮刀で今にも首を撥ねられそうだったあの非常事態にも関わらず、思いっきり笑って見せた奴だった。死を恐れぬというよりも、あばよと言うつもりだったというよりも、上出来だったろうという会心の笑み。あんな笑い方しといて、それと同時にこっちにこうまで嘆くタネを押しつけやがって。上等じゃねぇか、無責任野郎が…と無性に腹が立った。絶対見つけてやるんだ。胸倉掴んで、ああいう時は今度からはもっと慌てろとどやしつけてやるんだ。そればっかりを思って海に潜り続けていたゾロだった。



 探す側まで倒れては話にならない。焦る気持ちを落ち着けるためにも、とりあえず一息入れようと、ナミとウソップも甲板に上がって来た。空はあっけらかんと晴れ渡り、磯へと寄せる波の音もそれは静かで、昨夜のあの騒動が丸っきりの他人事だったような顔をしている海だった。まる一晩。単なる行方不明ではなく…沈んだままだとしたなら、常人ならまずは絶望的な時間だ。だが、もしかしたらどこかに打ち上げられているかも知れず、村人たちも他の入り江などを探してくれているとルピカが伝えた。だが、
「…浮いては来ねぇからな。」
 ウソップが呟いたのは、誰もが言いたくはなかった事実。ゾロが短く息を引き、こちらは意味が判らず息を呑むルピカの傍ら、
「…っ、てめぇっ!」
 つい拳を振り上げたサンジにナミがしがみつく。
「やめてっ!」
 どちらの想いも判っているからこそ辛いし悲しい。仲間の誰だって知っていること。言葉という形にすると現実になりそうで怖かったから言わなかったこと。甲板に置かれてあった樽に腰掛け、足元を睨みつけるように俯いたまま、ウソップが言葉を続ける。
「俺だってな、奴が無事だと思いたいさっ。いつだってケロッとした顔で戻って来て、こっちの心配をあっさり裏切ってくれた奴だったし…。けど、けどなっ、けど………。」
 涙がからんでその先が言葉にならないウソップだ。誰もが言いたくはなかった事実。だが、見ない振りをしていても始まらない事実でもある。いつまでどこまで言わないでいられるかの我慢比べをしていたようなものだった。

 ――― 世界一の剣豪?
       良いねぇ。海賊王の仲間なら、そんくらいなってもらわなきゃ俺が困る。

 ――― 俺たち、もう仲間だろ?

 ――― そんなつもりで助けてくれたんじゃねぇ筈だっ!
       生かしてもらって死ぬなんてのは弱い奴のすることだ!

 ――― お前は、俺の、仲間だっっ!

 皆のそれぞれの夢をぴっかぴかに磨き上げ、現実の世界へ"さあ泳ぎ出せよ"と形にしようとしてくれた原動力が不在になった。頼っていた訳ではない。一人でだって歩いて行ける。だけど…飛びっきりの太陽が翳ったら、世界はたちまち薄ら寒くなる。野望にも似た大きな夢への決意も、これだけの面子が肩肘張りつつ結ばれていた固い絆も、あの天真爛漫な笑顔があってのものだった。目に見えるお宝は何一つと持たない、そんな彼自身が皆の、何にも代え難い宝だったのに…。




        



 もうそろそろお昼時。一度家へ帰ります…と、ルピカが言い出した。打ちひしがれた皆に、何だか気後れしているのだろう。無理もない。いくら仲良くなっているとはいえ、こんな小さな少女に今の彼らの背負った空気は余りにも重すぎる。そんな繊細さを痛々しく思ってか、
「送ってくよ。」
 小さなレディにサンジが声をかけ、縄ばしごを下ろそうと船端へ寄った。その時だ。
「…あれは?」
 ふと…顔を上げたルピカが何かを見つけて沖の方を指差した。藍色の水面が陽射しを反射してきらきらと目映いそこには、いつの間にか小さな帆掛け船が一艘浮かんでいた。風がないからか帆は降ろされていて、船尾に二人ほどの男が立って櫓を漕いでいる。
「なんだ?」
 乗っている顔触れといい、船の形といい、村人たちのものではない。それに、
「あの大渦を越えて来たのか?」
 昨夜、巨龍を沈めた淵に逆巻く渦は、時間によって静まるという種のそれではない。それをあのような小さな船で越えて来られるものだろうか。訝しげに皆が見つめる中、
「………。」
 こちらからやや距離を置いて停船すると、キャビンの扉が開いて大男が一人、のっそりと出て来た。男盛りの壮年…という年頃だろうか。恰幅のいい、背の高い男だ。雄牛のような逞しさの上へ、鋭敏そうな冴えをまとった、一目で"切れ者"と判る男だ。だが、その威容よりも何よりも、皆の視線はその彼の懐ろへと釘づけになっていた。
「あ…。」
「…あれは。」


 「ルフィっ!」


 その広い胸元には余裕で収まっている少年の身体を、軽々と、だのに…両腕でがっちりと丁寧に抱えてくれており、
「あ、はしごだ、はしごっ!」
「そうよ、早く降ろしてっ!」
「あ、ああっ!」
 奇妙な一時停止状態から一転して、ばたばたと慌ただしくなったこちらの意図が伝わったらしく、向こうの船も再び動き出し、すぐ間際にて停まった。船端から降ろした縄ばしごを掴むと、その男は体つきの大きさには不似合いなほどの身軽さで昇って来た。
「ルフィっ!」
「お兄ちゃんっ!」
 ナミがルピカが駆け寄ると、二人が覗き込みやすいようにわざわざ腕を下げてくれた。父にでも抱かれた赤子のようにただ眠っているだけだと判って歓喜の涙をこぼす彼女らへ、
「腹に穴が開いていたがな。縫い合わせて、化膿止めを飲ませてあるから大丈夫だ。一週間もしたら抜糸出来るが、一応、ここいらの医者に診せるといい。」
 響きのいい声でそう告げる。
「ありがとうございましたっ! あ、こちらへ…お願いします。」
 常時ベッドの空いている部屋へと案内してゆくナミたちを見送って、他の面子たちも一様に吐息をつく。何がどうなっているのやら、聞きたい事知りたい事は山ほどあったが、まずはほっとした。自分たちまで生き返ったような気がした。凍っていた体内の血がやっと体温を得て、脈打ちながら流れ始めたような感覚。ふと目が合ったウソップへ、サンジがにやっと笑いかけ、それとほぼ同時に…船縁にドサッとぶつかってそのままズルズルと座り込むゾロに、二人して慌てて駆け寄った。
「こいつ…限界だったんだな、やっぱり。」
「…んなんじゃねぇよ。」
「良いから良いから。何だったらお前もベッドまで運んでやろうか? リビングのソファーベッドの方だがよ。」
「ここで良いよ。寝りゃあ治るんだから。」
 いつもの決まり文句だが、今日のは強がりでも何でもなく、本当にただ眠るだけでさっぱり復活出来そうな気がして言ったゾロだったようだ。


 しばらくすると、さっきの男がキャビンから出てきた。ルフィをベッドへと寝かしつけてくれたらしく、そのまま…元来た船縁へ真っ直ぐ向かうから、
「あ、あのっ!」
 黙っていたらそのまま…あまりにも自然に立ち去ってしまいそうな雰囲気があって、それを止めたくて思わずかけたナミの声に、相手の足が止まる。
「?」
 肩越しに振り返られて、
「あの…。」
 だが、何を聞けばいい? 助けてくれた礼は言った。どこの誰なのか、ぶしつけに聞いていいものだろうか? どこで彼を拾い上げてくれたのか、そんなこと今更聞いても仕方がないか? どうしてここに届けてくれたのか…これもやはり訊く意味のないことだろうか? 突然のことで興奮がまだ引かず、珍しく混乱しているナミへ、見かねて助け舟を出すかのように、
「ルフィが起きたら伝えてくれ。」
 男は薄く笑ってそう言った。ちょっと悪戯っぽい温かな笑い方だ。どこかで見た覚えがあるような気がして…それがルフィが何かの拍子に時々見せる笑い方と同じだったと、後になって思い出したナミだった。
「久し振りに会えて嬉しかった。またの機会もあるだろうから、その時はゆっくり話でもしようやってな。」
 船端の手摺りに乗り上がり、あっと言う間もなく眼下に飛び降りている。あわてて見やれば、いつの間にか向きを変えて接つけていたさっきの船に、大した反動も与えずに降りていて、漕ぎ手の腕がよほどいいのだろう、そうは見えないがたいそうな速さで船は立ち去って行ったのだった。
「久し振りって…やっぱ知り合いか?」
 訊かれたのはゾロだったが、
「知らねぇな。あいつ個人の知り合いってのには俺も今んトコ会ったことがねぇ。」
 海軍基地のある町で初めて出会った時、自分と同様、ルフィも既に一人旅の最中だった。コビーという連れが居たことは居たが、彼とは進む先が最初から違っていたし。金棒のアルビタは…知り合いの内に入るんだろうか?
「まさか…あれが"シャンクス"って奴なのかな。」
 ルフィが子供のころに出会い、かなりな影響を受けた大海賊。皆も名前だけは耳に馴染んでいたが、詳細までは語らないルフィだったのでどういう容貌なのか判らないでいた。ただ、
「違うだろう。両腕があったぜ。」
「あ…そうか。」
 ルフィを海王類から庇った折に左腕を失った…と聞いていたから、今の男ではなかろう。


            ◇


 長かった昨夜に比べるとあっという間の午後が過ぎ、夕食を手早く済ませると、ゾロはとあるキャビンを訪ねた。
「なぁに?」
 こちらへと顔を向けてきたナミは、すっかり元通りの闊達そうな顔でいた。それぞれに個性の強い野郎どもの中にあっても存在感で決して負けてはいない、あっけらかんと明るくて気の強そうないつもの顔だ。
「代わるよ、見張り。」
「見張りって…ああ、まあそうかもね。」
ゾロの言いようにくすくすと微笑い、ベッド脇に寄せていた丸椅子から立ち上がる。すれ違うようにドアへと向かう彼女へ、
「明日の朝まで俺が付いてるから、お前はこのまま休め。」
「明日って…そんな長い間、大丈夫なの?」
まだ夕刻。今から明朝までの長さを思って、それは無理なんじゃないかと言いたげな顔をしたナミだが、
「大丈夫だ。午
ひるからたった今まで寝てたから。」
「午からぁ?」
 大仰に驚きつつも、いつでも寝ているこっちの日常を思い出してか、今度は呆れたように肩をすくめ、
「判ったわ。でも…。」
「判ってる。何かあったら呼ぶからよ。」
ホントよ? 寝てても構わないから叩き起こしてよ? と、重々念を押して、実は心配性な母親代わりはやっと食事に出て行った。彼女が座っていた椅子に入れ替わるように腰を降ろし、
"………。"
 あらためてベッドを見やる。寝息も寝顔も寝相も何もかも穏やかに、実に良くまあと呆れるほど安らかに眠っている少年がそこにいる。飽きるほどに見慣れた顔だが、そういえば飽きるほど見ていた覚えはなく、
"…こんな顔だったかな。"
 底抜けの明るさで笑み崩れていたり、はたまた本気の怒りの闘気をまとっていたりと、結構表情豊かなものだから、却ってこういう無心な顔には馴染みが薄い。何の感情も載せない素の顔は、思ったより童顔で、いつも以上に幼く見えた。そして何より、どこか余所余所しくて、丸っきりの方向違いな、明後日の方を見ているような気がした。
"………。"
 本当なら一刻も早く意識を引き戻させて"再会"を果たし、心から安心したいところだが、眠ることで彼の身体が治癒に向けて全精力を集中させている以上、そういう我儘を通すわけにはいかない。そういう自然治癒の仕組みを誰よりも良く良く知っているゾロの言により、他の皆もじっと我慢をしている次第。
"………。"
 ふと、手を伸ばす。無骨な手で、それでも出来るだけそっと額に触れてみた。間違いなくここにいることを確かめるように。ざんばらな額髪の下、温みを帯びた肌に触れ、何となくホッとする。
"………。"
 それはそれは豪胆で、腕に自信の猛者ぞろいなこの船の仲間たちを、しごくあっさりと半分死人のようにしてしまった張本人。これまでにだって様々な無茶をし、追い詰められもし、皆を散々心配させ続けてきた男だが、今回のはちょっと勘弁して欲しかった。彼が生死不明のまま不在だというだけで、こちらはあれほど…全員無事だったというのにあんなにも堪えるとは思わなかった。これまでだって、修羅場の中に離れ離れという事態はよくあった。少数精鋭なればこそ、この場は任せた、おうともさ、先へ行けというような分担は当たり前だったし、誰よりも何よりも信頼してもいた。どんな形であれ…たとえ満身創痍となってでも必ず戻って来て相觀
あいまみえることが出来ると。だが、今回は皆の目前で海へ落ちたのだ。死への呪縛が…呪いが待ち受ける海へだ。それを目の当たりにした瞬間、胸の奥で、誰へともなく、何へともなく叫んでいた。頼むから、そいつだけは連れてかないでくれと。

  <悪りぃ、俺、死んだ。>

 やはり思い出されるのは、いつぞや、処刑台の上で絶体絶命というピンチに立った時、にっかと笑って見せた奴だということだ。死に対する恐怖がないのはご立派だが、残された者は堪ったもんじゃない。
"残された者…か。"
 それこそ勝手な言い草なのかもしれない。彼に頼っている訳では勿論ないし、皆がそれぞれの胸に抱いた野望や展望、希望は、それぞれ自身がその手で果たす種のもの。それは重々判っていても尚、この少年の存在は大きい。自分がここにいることを、何かに向かって進んでいることを理解してくれる、認識してくれている存在。そんなもの要らないと、自分の意思でやっていること、そんな相手はいようがいまいが関係ないと思っていた筈なのに、彼がそこにいてくれるのならば、彼がその存在となってくれるのならば、こんなに甲斐のあることはないと思わせてくれる奴だから。
"………。"
支えの要らない"一人"と、人との縁(えにし)のない"独り"は全然違う。それをあらためて教えてくれた奴だから、昨夜はあんなにも辛く苦しかったし、今は今でこんなにも…ついつい笑みが零れてしまうほど嬉しいのだろう。それを誤魔化すかのように、

"…とっとと目ぇ覚ましやがれ、この大馬鹿野郎が。"

 つい心にもない悪態をついてしまうゾロだった。
 
  


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