月下星群
 〜孤高の昴

          其の六  沙漠
 


        



 丸一日、昏々と眠り続けたルフィは、ナミがゾロと看取り役を交替しに来た二日目の朝、
「…あれ?」
 怪訝そうな顔をして目を覚まし、そのまま…ハッとした顔になった。というのも、
「ど、どうした、ナミ。どっか痛いのか?」
 滅多に泣かない気丈な彼女が目を合わせた途端に大粒の涙を見せたものだから、はっきり言って大狼狽したらしい。そんな暢気な?反応に、
「バカっっ!」
 ついついナミも大声を出す。丁度ルピカが来ていたところでその騒動が聞こえて来たため、彼女の応対をしていたサンジも、ハシゴを巻き上げていたウソップも、ナミと交替したばかりで朝寝にと自分たちの部屋へ向いかけていたゾロも、素晴らしい反射で部屋へと取って返している。
「ルフィっ!」
「こんの野郎っっ! 心配かけやがって!」
「お兄ちゃんっ!」
「一体どこをほっつき歩いてやがったっ。」
おいおい
「な、なんだなんだっ?!」
 何を詰め寄られているのか、いまだ、理解に到達していないらしく、枕の上で頭だけ後ずさりをする。
「何だよっ、俺が何したって言うんだ?」
「何もしちゃいないわよ。だから、みんな心配して…。」
 泣いて良いのか笑った方が良いのか、それさえ判らなくなるほど、皆が一斉に喜んだ朝だった。


  ――― 寝ている間も"本人"には違いなかったが、
       やっぱり起きて動いて笑っているルフィが一番だから。


 ……………で。
「それが良く覚えてないんだ。」
 一体どうやって助かったのか。皆が一番聞きたかったのはそこだった。悪魔の実の能力者である彼が、あの嵐の海から自力で浮かび上がって来られる筈はない。ベッドの端にちょこんと腰掛けさせてもらっているルピカが小さな手で時々頭を撫でてくれるのに嬉しそうに目を細め、だが、ルフィは正直なところを吐露した。
「気が付いたら此処にいたんだもんな。だから、てっきり皆で引き上げてくれたんだって思ってた。」
 それを言われるとちょっと耳が痛いが、本人に悪気はなかろう。一番手前、丸椅子に座ったままのナミが、
「あんたを助けてくれたのは、あたしたちには見覚えのない男の人だったわよ?」
「見覚えのない男?」
「ああ。お前の名前を知ってたぞ? 久し振りに会えて嬉しかったってさ。またの機会があるだろから、そん時は話をしようやって。」
 ドアの手前の壁に凭れてそう告げたゾロに続いて、
「背の高い、筋肉質のごっつい兄さんだったぜ。黒くて腰までありそうな長い髪の毛を後ろんトコでしばってて、あ、けど、一房ほどだけ生え際の縁から前に垂らしてたかな…。」
 ウソップが詳細を付け足すと、途端にガバッと起きようとしたルフィで…当然のことながら周囲から何本もの腕が伸びて来た。
「馬鹿っっ!」
「起き上がるんじゃねぇっ!」
「あんた、お腹に穴が開いてたのよっ?! 抜糸が済むまでは起きちゃ駄目なのっ!」
 皆から容赦なく押さえつけられて、だが、ルフィは心ここにあらずという呈でいる。
「ベンだ。ベン=ベックマンだ。シャンクスの船の副船長だった…。」
 わざわざ助けてくれて、自分のことを見知っていて、そんな容姿風体で…といえば、彼しか思い浮かばない。
「そっか、やっぱりそのシャンクスって人の関係者だったのか。」
 世間は広いようで狭い。オマケに…良く良く考えてみると、みんなしてルフィの経歴を一番良く知らない。だから、どこで彼の知人が現れても不思議はない…のかも知れない。妙な感心の仕方をしているウソップをよそに、ルフィはどこか考え込んでいるような…そう、珍しくも切羽詰ったという顔でいる。
「一人な筈はない。ずっとずっとシャンクスの片腕で、傍にいた男だ。」
 ということは、もしかしたら…シャンクスもすぐ傍らにいたのかも? そばのテーブルの上に置かれた麦ワラ帽子。その本来の持ち主である大海賊。
「…ルフィ?」
 いつにない、思いつめたかのように真摯な様子のルフィに、ナミやルピカがきょとんとし、
"………。"
 ゾロがふと真顔になって眉を寄せる。それを視野の端に見やりつつ、
「会いたかったのか?」
 サンジがそうと訊いている。感情や何や、何も含まぬ調子で示されたそんな一言に、
「う〜ん。まあ、そんな間近にいたんなら話くらいはしたかったさ。礼だって言いたかったし。」
 ルフィも我に返ったのだろう。いつものあっけらかんとした口調に戻っていて、
「けど、もういい。ベンが言ってた通り、機会はあるだろから、そん時に話はすればいい。」
「………そっか。」
 繰り返して念を押す必要もなかろう。サンジもそれ以上は訊かなかった。


            ◇


「…どうした?」
 もともと、あまり他人には関心が沸かない。仲間となった皆には多少は目も向くが、それだって主には戦闘中に危険な目に遭ってはいないかという場合だけで、干渉は最低限。それは皆の側とて同じことなようだったが、本人の好きにすれば良いじゃないかという不干渉から、自分が構われたくはないからというものまで、理由はそれぞれにばらばらで。だが…上甲板の船端にいつものように陣取った自分のすぐ傍を、舳先に向かいかけて通りかかった彼奴は、あまりにも浮かない顔をしているように見えた。それも…もしかして今の自分と同じくらいに。つい声をかけると、こちらに初めて気がついたというような顔をし、隣りに座り込み、付け足しのような笑い方をして見せる。
「なに。一番肝心なことだのに、よそのおっさんに横取りされたんで、ちょっち腹が立ってるだけだよ。」
 何がどうと具体的な言い方ではなかったにもかかわらず、あまりに分かりやすすぎて、自分の腹の底を透かし見られたような気さえした。ルフィの生還で、やっと全てにひと段落ついて、船内はちょっとした放心状態、どこか閑居な空気に支配されている。うんっと撓やかな背中を伸ばしながら、サンジは訊いて来た。
「そんなにいい男なのかね、シャンクスっておっさんは。」
「らしいぜ。」
 即答すると、
「はっきり言いやがるな、クソ野郎。」
 唇の端を持ち上げるように笑って、煙草を咥え、慣れた手つきで火をつける。頭上真上へ最初の紫煙を吹き出したのは気を遣ってのことなのか。そういえば、この船で唯一の喫煙者だが、マナーは守っているらしい。それはともかく。
「大体、不公平じゃねぇか。先に会ってんだから、それだけで一番って立場が刷り込まれてる。お前でさえ太刀打ち出来ん相手に、一番後からの付き合いな俺が敵う筈なかろうが。」
 口調こそ淡々としているものの、言ってることは、
「妬いてるようにしか聞こえんぞ。」
 つい"くつくつ…"と喉の奥を鳴らすようにして笑うゾロだ。日頃あれほど女に敏感でフェミニストを気取ってる奴にそれはなかろう…と思いもしたから、余計に可笑しかった。普段の調子から言えば、この段階でゾロの言いようにサンジがムカッと怒って、ちょっとした口喧嘩に発展しもするのだが、
「…そりゃあ困ったな。」
 意外なことに…今日のシェフ殿は冷静だ。手元の煙草を見、指先でとんとんと弾いて灰を落とす仕草も、どこか機械的ながら、たいそう落ち着いたものだった。
「男にそれはないか?」
 重ねて訊くと、
「いんや、ガキの駄々こねと一緒だからさ。一番の友達じゃなきゃイヤだ…ってな。いい年齢
トシした野郎が駄々こねてどうするさ。」
 どこか真顔でそんなことを言い出す。
"………。"
 考えすぎだろうか。何かしら…こちらへ含むものを帯びているように聞こえるのは。ニヤニヤと笑って言う彼だったなら、はっきり揶揄だと知れてこちらも判り易く怒ることが出来るのだが、妙に静かな真顔に近いのがこちらの感情へブレーキをかける。彼自身の本心とも、揶揄とも、どうとも解釈出来て。きっとそれは覚えがあるからそう聞こえるのだろうと、誰よりも自分で一番判っていて。
<ねぇ、お兄ちゃん。>
<んー?>
<しゃんくすって誰? お友達?>
<ああ。俺がルピカくらいん時に逢った大海賊だ。>
 ついさっき、少女へとルフィが話していた声をドア越しに聞いた。
<お兄ちゃんを連れて来てくれた、あの大っきい人?>
<いいや。それはベンっていう人でシャンクスじゃあない。>
<逢いたい?>
<………。>
 先を聞きたくなくてその場から足早に逃げた。そう、逃げ出したゾロだ。一体、何から逃げたのだろう。敗北からか? 何の何への敗北だ? 判っているのに、解からない。自分の心の淵の奥底。何が渦巻いているのか、それがちらりと覗いたような気がしたから逃げたのだ。自分の弱さ。敗北を認めざるを得ない弱さと、そこから目を背ける自分の卑屈さと。
"…思ってたより、きついよな。"
 いつの間にこうまで食
まれていたやら。孤高の強さと引き換えに、自ら欲した未来の海賊王の傍らという居場所。爽快で心地が良く、暖かな場所でありはするが、時に侭ならぬ波をかぶりもする場だ。それも、選りにも選って"自分の心"という海から。
"………。"
誰かと共に居るというのは、人を強くしもするが、それと同時に、独りでいるよりずっと強くあらねばならないのだと、改めて感じ入った剣豪だった。



        



「退屈だなぁ。」
「駄々こねるんじゃないの。」
 昼下がりにルピカとウソップが連れて来た村の医者にも診てもらい、一応は大事をとって、抜糸する日まで医療室代わりのこの部屋で寝かされることとなったルフィだが、大人しくとか行儀良くとかいう言葉にはまるきり縁のない彼のこと。まだ半日ほどしか経ってはいないのに、もう退屈の虫が疼きだしたらしい。
「だってよぉ。ゾロなんか大傷縫ったその日に歩き回ってたじゃないか。」
 それも自分で縫ってたよね、確か。後から"全治2年"と診断された大怪我抱えて、走り回るわ、刀振り回して戦うわ、両手両足縛られたまま後ろざまに海に飛び込むわ、空を飛んできた船に体当たりされるわ、空の彼方へ吹っ飛ばされるわ…えとえっと、まだあったかな? というくらい、今のところの『ONE PIECE』史上、特殊体質でない人間たちの中で、一番の無茶苦茶をやった人である。(しかも、それからさして日もおかずに、同じようなことをまたしてもやらかした懲りない人でもある。聞いた話じゃあ、ミスター・1との戦いでも大怪我したっていうし。あなた一人の体じゃないのよ? もっといたわって下さい。) 冗談はともかく、
おいおい
「化け物同士の間の常識なんて持ち出されても、あたしは聞く耳持ちません。」
 ナミがすげない言い方をしたのへぴったり呼応するかのように、
「言ってくれんじゃねぇかよ。」
 そのご本人からの応じがあって、サンジに頼まれたのだろう、茶器一式を乗せたトレイを運んできたゾロがドアを開けて入って来た。トレイとやかんで両手が塞がっていてノックが出来なかったらしい。…じゃあ、ドアはどうやって開けたんだ、あんた。
「あら、いたの。」
 恐持てのする戦闘隊長を相手に、こちらもけろりとしているから、さすが海賊…というか、相変わらず桁の違う人たちの会話である。受け取った茶器をサイドテーブルに載せ、ナミは手際よく3人分のお茶を入れ始める。ほのかに立ち上る芳しい香りが、キャビンの中を暖かく和ませた。
「そろそろ出航の準備に入らなくちゃね。」
「ああ。サンジが物資の調達を始めるとよ。それと、ルピカの爺ちゃんが要るものがあったら何でも言ってくれって。」
 すかさずのように、
「肉な、肉一杯。」
 いつものリクエストが入って、ナミもゾロも苦笑混じりに"はいはい、判った判った"という顔をする。いつもの空気、いつもの会話。あれほどのことがあったにもかかわらず、三人が三人とも、日頃となんら変わりのない声を、言葉を交わしている。とはいえ、
「さて。じゃあ、あたし、先にご飯食べてくるわ。その間、よろしくね。」
「ああ。」
 容態という点では、後は時間が癒してくれるだろうという状態で、もう殆ど心配は要らないのだが、怪我人本人がなかなか用心を必要とする輩なため、きっちり見張りをつけておく必要があったりする。ほんの一瞬でも目を離すと、勝手に起き出して何をしでかすやら。だからこそのきっちりとした"手渡し方式"の交代であり、そういう扱われ方をされていると、サスガに判るらしくて、
「ちぇ〜。」
 部屋から出てゆくナミに聞こえるようにわざとらしい声を立てて、ルフィは拗ねて見せた。どこか子供じみた振る舞いはいつものこと。それへとくつくつと笑いつつ、凭れていた壁からかっちりとした背中を浮かしたゾロは、さっきまでナミが座っていた丸椅子へ入れ替わるように腰を降ろす。
「ま、とっとと治すこった。好き勝手をしたけりゃな。」
「う………。」
 先程も例に挙げたが、人間離れした回復力をしている男に言われても、そうは真似が出来るわけでなし、成程ここは唸るしかないのかも。
「………。」
 先程までは、ナミを相手に"退屈だ"としきりにぼやいていたルフィだったが、傍らにいるのがこの剣豪だと少々気分が変わるらしい。じっと相手の顔を見やり、
「………。」
 だが、何を言うでもなく、ただ黙ったままでいる。そんな彼の様子へ、
「?」
 少しばかり怪訝そうな顔になったゾロが、だが、ふと目許口許を和ませて、クスンと息をつくように笑った。そんな彼が手を伸ばしてくると、それだけで先を予測してか、船長殿はもうはやばやとどこかご満悦という表情になる。伸ばされた大きめな手は、ルフィのぱさぱさとした黒い髪へ差し入れられ、厳つさに似合わぬやさしい、だが、大きな動きで、犬の毛並みでも撫でるように掻き回された。以心伝心。…こういうことへも使って良い言葉なのかなぁ?
"こういうとこ、子供っていうより動物的だよな。"
 お気に入りの温みと感触、お気に入りの匂い、お気に入りの声。どうやらゾロは、ルフィの好みにおけるその体感三大要素を見事にクリアしているらしく、ついでに言うと、何かと"ツーカー"なことも手伝って、今やルフィ本人のみならず、仲間内からも"ルフィのお気に入り"という見識を持たれているらしい。それはともかく。
「俺ってやっぱ運が良いよな。」
「ああ?」
 いきなりなことを言い出したルフィであり、ゾロの手が止まった。
「だってよ、いくら何でももうダメかって思ったんだぜ、今度ばかりは。だのに、こうして助かってる。皆のところへちゃんと帰って来れてる。俺、あんまり"運命"とか"神様"っての、信じてないんだけどよ、運がいいからこう運んだんだなぁってさ。」
 彼にしては殊勝なことを口にする。確かに、今回のこの運びは彼の意識や行動が為した顛末ではない。とはいえ、今当人が自分で言ったように、自分の未来は自分の手で掴み、切り開くもんだというのが自論らしいルフィであり、だからこその無鉄砲や猪突猛進でもあるのだろうに、こんな他力本願めいたことを口にするとは珍しい。
"…まあ、運と運命とは微妙に違うからなぁ。"
 運も実力のうちと、そういう解釈もある。神様からもたらされたものではなく、これもまた各々個人の素養の一つ。判断・決断したりした結果の巡り合わせが運んできた"気運"ならば、何かしら嗅ぎ取ってその決断を下した本人の才が働いたものだとする考え方で、ルフィの運の良さは恐らくそういうところから齎されているに違いない。
「そうだな。お前、物凄く運がいい奴なんだろな。」
何せ、俺たちまでまとめて何かと恩恵をこうむってるし。ゾロは内心でそうと呟いた。彼と道行きを同じくしてからというもの、確かに余計な騒動やら悶着やらにも散々巻き込まれてきたが、それらに翻弄された後の自分たちは、途轍もない前進を遂げていたりする。
「だろう?」
 ゾロが感じたほどの奥深いところまで、果たしてルフィの方ではちゃんと判っているのやら。…恐らくは通じていなかろうが、そこは日頃から言葉が足りない者同士。何も微に入り細に入りを正して均すほどのこともあるまいと、双方が"ま・いっか"を持ってきて帳尻を合わせる大雑把さよ。
「………。」
 額の少し上、前髪を梳きかけて留まったままで置かれていた、ゾロの大きな手。重みも温みも好きだから、特に何とも思わずにいるルフィではあったが、
"………。"
 会話に気を取られて手を止めていた剣豪殿ではなかったらしい。運の強いルフィ。だが、だからと言って本人だってそれに頼ってはいない。無茶は時に、今回のような危険極まりない事態も招く。それでなくとも彼らの居る大海の上は、何もしなくとも危険が一杯な場所だというのに、何をも省みない行動や行為を臆しもせずに選ぶルフィ。自分も昔は選んでいたものだのに、誰かが、それも、大切な者がそんな飛び出し方をするのを見ている側の立場に立つと、それがいかに手痛いものかが良く判る。敵に斬られるより痛くて、不甲斐ない。そんな無茶や無謀へ説教出来る立場ではないし、第一、そうしたいのではない。そう、制止したいのではない。フォローなら幾らでもしてやるから、いつものように胸を張り、眸を煌かせて駆け出してくれれば良い。何でも自由に、彼の気の済むように、選んで行動してほしいと、それは常に思うこと。とはいえ、黙ってもおれないむず痒い何かが胸の奥にくすぶっている。気持ちは解かるけれど、そんな行為を、危険へ飛び込む彼を判りたくはない、肯定して褒めてはやれない、そんなむず痒さが、この胸の裡
うちには同居してもいる。
"………。"
 成功や勝利へ"届くかもしれない"というそんなわずかな可能性に、怯みもせず飛びつこうとする果敢さ。なぜ、彼はいつもいつもそう動けるのか。身を守る本能が欠落しているのか? ただでさえ、海に拒まれているというハンデキャップがあるのに? いや、そうではなくて、果敢でいなければ到達出来ないからだ。自分もまた、普通でいては世界一の大剣豪にはなれないと思っている。それと同じようなものとして"理解"は出来る。しかも、彼の目指す高みは"海賊王"という至高の地位。戦闘能力のみならず、様々なものを掻いくぐり、試され、乗り越えねば到達出来ない頂上だろう、大剣豪より過酷な道行きなのだ。だからこそ、仲間を宝物だと言いながら、だが、自分の目指すものを決して忘れない高い志向性が、彼を突き動かすのかもしれない。そして、そんな彼であるのは、幼い頃に強烈な印象を与えられ、彼の思考や信念全ての手本となった人物が居るから…。
「………っ。」
 想いがそこへ至った途端、身体が衝き動かされていた。さんざん振り回されてきた存在。眼前にかざすたびに、頭上へ取り出すごとに、自分の卑小さや恐れや、未熟さ、醜さを突きつけられるような気分になる名前。振り払いたくともそれは不可能。彼の意思や気持ちと同じく、それは彼の持ち物であり、自分が自由に出来るものではないからだ。
「ゾロ?」
 ルフィが驚いたような声を出す。さすがに身体のことを思いやってか、大して力は込められてはいないが、それでもきつく抱きすくめられたから。名前を呼びかけても返事はない。馴染んだ匂いが、温みが間近になって、ふと…ルフィは小さく微笑った。
「…どっこも行かねぇよ。」
「………なんで判った。」
 言った覚えはないし、今だって…怪我で弱った彼をいたわっているとしか見えないはずだのに。何故、彼には…自分が思ったそのままが即座に判ったのかが解からない。
「そりゃあ判るさ。俺とお前、どんだけ一緒にいるよ。」
「大した長さじゃねぇぞ。」
「そっか? けど、判るもんはしょうがねぇさ。」
 どこか愉快そうな、屈託の無い声だ。
「俺がどっこも行けねぇように、何かに攫われちまわないように、しっかり掴まえときてぇんだろ?」
 微笑って言う。何だか癪だが、それと…もしかしたら細かいところに何かしらの齟齬があるかもとも思ったが、この際だ、
「ああ、そうだよ。」
 投げ出すように認めると、
「…ありがとな。」
「………?」
 何故ここで礼なのか。正直、判りかねて言葉を継げないゾロは、腕を緩めて覗き込んだ自分の胸元で、穏やかな、そして少々嬉しそうなルフィの笑みと出くわした。
「凄っげぇ嬉しい。天下の剣豪がそんな大事にしてくれんだもんな。それも、他の誰でもなく俺だから、だろ? 逃げんなって、どこへも行くんじゃねぇよってキツク言やぁ済むもんを、さ。」
 無邪気に笑って、
「ホント、ごめんな。一杯心配させたんだな。もうやんねぇって約束は出来ねぇけど、無茶して、ごめん。」
「………。」
「どっこも行かない。ホントに。な? ゾロ。」
 つまらない鞘当てなど知りもしない彼のこと、恐らくは偽りのない正直な気持ちだろう。先に死んだり、仲間たちを心配させたり、そういう形で"何処へも行かない"と。だが、それはあくまでも"今現在の"だ。先々で、そう、たとえば明日にでも例のシャンクスとかいう男が現れたなら? ルフィはそれは嬉しげに、自分たちの手を振り切って駆け寄るのかもしれない。それがいけないことではない。彼らしい態度だし、何も自分たちを否定するわけでもなかろう。けれど、まともに呑むには苦すぎる事実になるに違いない。
"心までは束縛出来ない、か。"
 当たり前なこと、判りきっていること。それが何故だか、苦々しい響きに思えたゾロである。



            ◇


海には道はない。
厳密に言えば"航路"というものがあるのだろうが、
轍の後が残っている訳でなし、
先人の旅路も自分たちの軌跡も、海は黙って飲み込んでゆく。
様々な出来事や沢山の想いを、
最初からなかったかのように均して、音もなく飲み込んでゆく。
風にもまれて一夜にして姿を変える、まるで沙漠のようだなと、
海のただ中なのにそんなイメージが沸いた。
ならば、さしずめ、ここは沙漠のオアシスか。
死と背中合わせの厳しい世界に取り囲まれていながら、
汲めども尽きぬ泉の豊かな潤いと、やさしい風の吹く木陰。
そんな場所にいるという安心感からだろうか、
砂地にするするといくらでも吸い込まれて行く水滴
しずくのように、
何かが身の内から止めどなくほとびているような気がする。
生きている証しのような何かが、今は際限なくあふれている。
"尽きて滅びなければ良いのだが…。"
渇いて飢えて、それが沙漠だ。
平気だと意地を張れるうちは良いが、
渇えは人を獣にも魔物にもする。

未消化な何かが胸の奥底でちりちりとしていて気になるが、
何がどうとは自分も知らない。
ただ、今はこれで良いと感じている。

  〜Fine〜   01.6.28.〜10.12.


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 *珍しくというか久し振りというか、ちょっと男前な船長さんです。
  『アルバトロス』のネタかもなとか思ったんですが、
  皆で何かに立ち向かうという趣向ではないし、
  そこはかとなく"ゾロル"っぽいので『月夜見』に予告を出してました。
  そして今は『月下星群』じゃないかなとか思ってますです。

 *何か、痛い話は嫌いだと公言している割に先の『雨』に続いて怪我ネタ三昧してますが、
  書いた時期が違いますのでどうかご容赦を。
  (それを言ったら、こっちだって夏の間、放っぽり出してたんですけどもね。日付が凄い。)
  UPするのをドンドコ順送りにずらしていたら、
  クロコダイル戦で“腹を抉られて”しまった船長さんで。
  ちっちっ、かぶってしまってますじゃないのよ。
  ちゃんとWJ読んでないからなぁ。
とほほ
  当然のことながら、そっちでも4ヶ月ぶりに無事に帰って来てくれて良かったです。
  (って言うか、すっかり決着ついてしまいましたね。アラバスタ篇。)

 *ちょこっと余談ですが、
  ウチのサンジくんは原作よりちょっと大人…というかジジイかも知れない。
おいおい
  
ゾロが面倒がって言葉を尽くさずに放り出してるものを、
  こらこら、脱いだものはちゃんと畳まなきゃ…と手を出してるというか。
  だから…本誌の方でちょっと情けなかったりすると、そっちが本物だけに辛いです。

 *これでストック分は全て終了です。(影法師の残りは書き下ろし部分ですし。)
  半年の間に、人の考え方って随分と変わるんだと、我が身を持って体験しております。
  またこういうちょっとばかり真面目?なお話も書くと思いますので、
  どうかビックリなさらず、微笑ましいわねと見守って下さいませです。