1. 映画版ドラえもんの名シーン〜「泣かせ」のパターンに関する考察
既に述べたとおり、映画版ドラえもんは全部で25作。途中までは藤子・F・不二雄氏の手になる原作付きのものであり、氏が亡くなって以降は映画制作スタッフが既存のストーリーを元に作ったオリジナルアニメだ。7、8作目辺りからはストーリーの基本的な形が出来上がり、良い意味でも悪い意味でも完成されている。これ以降は、冒険の舞台こそ違えど、基本的な構成は7作目までに出てきたものの焼き直しと言ってもいいだろう。
こういった事情と、個人的に印象に残っている作品に初期のものが多いということから、ここでは主に初期7作(『のび太の恐竜』『のび太の宇宙開拓史』『のび太の大魔境』『のび太の海底鬼岩城』『のび太の魔界大冒険』『のび太の宇宙小戦争』『のび太と鉄人兵団』)に焦点を絞って考察を進めようと思う。
まず、それぞれの作品から代表的な名シーンを拾い上げてみよう。作品ごとのストーリーは省略して、「泣かせ」に関わる部分の説明のみ付す。
『恐竜』(以下、「のび太の」は割愛)
→のび太が可愛がっていた恐竜ピー助を、過去の世界へと残して去るシーン。訳が分からずに後をついてこようとするピー助に向かって、のび太は涙ながらに「ついてくるな!帰れったら!」。タイムマシンに駆け乗って全力で飛ばす間も、ピー助の声が追いかける。
『宇宙開拓史』
→一緒に冒険した遠い星の少年ロップルたちに別れを告げて、船倉の扉(のび太の部屋の畳裏に繋がっている)へ飛び込むシーン。二つの惑星を繋いでいた次元のねじれが消えかけて、もう二度と出会えないであろう彼らの姿が、遠く近く揺れる。
『大魔境』
→犬の王国を支配する悪大臣に、犬の王子ペコが、「外国人ののび太たちを巻き込むわけには行かない」と、独りで戦いを挑むシーン。ジャイアンはペコの制止に反して付いて行こうとするが、のび太たちには帰れと言う。危険な探検にのび太たちを巻き込んだことに責任を感じていたのだ。結局はのび太たち他のメンバーも加え、全員で戦いへと向かう。
『海底鬼岩城』
→人工知能を持つ海底バギー(通称バギーちゃん)が、敵ボスの大コンピューターに突っ込んで、敵もろとも爆発するシーン。旅の間中言うことを聞かず生意気なバギーだが、優しくしてくれたしずかちゃんの涙に奮い立つ。
『魔界大冒険』
→「もしもボックス」で行った魔法の使える世界で魔王と戦って敗北したのび太とドラえもん。タイムマシンで「もしもボックス」を使う前に遡って一旦は元の世界に戻るが、パラレル・ワールドの友達の危険を救うため、敢えて二人が再び魔法の世界へ赴くシーン。
『宇宙小戦争』
→小人の星の独裁者に対抗する、レジスタンス勢力の地下アジト。蜂起の前夜、名もないギター弾きが、レジスタンスに加担することになったのび太たちに歌を歌ってくれるシーン。武田鉄矢の名曲、『少年期』。
『鉄人兵団』
→ロボット星のスパイロボット・リルルが、人間を奴隷にするという母星の方針に疑問を抱き、タイムマシンで過去に戻って自分たちの祖先に当たるロボットを優しい性質へ改造するシーン。改造完了と同時に、侵略目的で作られたリルルは存在が消滅。消える間際、そばに居たしずかちゃんへ、「もし生まれ変わったら、今度はお友達に…」。
かなり詳細を省いてあるが、見たことのある方は何となく思い出していただけるだろうか。どれも珠玉の名シーンである。今、私はこれを書きながら涙ぐんできた。
さて、これらのシーンをまとめて見返すと、「泣かせ」に効果的と思われるいくつかの基本的要素が浮かび上がってくる。順を追って考察してみよう。
一番大きな要素は、何といっても「別れ」である。『ドラえもん』に限らず古今東西あらゆる物語を通して、別れというテーマは「泣かせ」の横綱といえよう。別れる相手が動物であったり生命の無いものであったり、別れの形が別離であったり消滅や死であったりと、バリエーションは数多いが、基本にあるものは同じ喪失感である。
そもそも映画で泣くためには感情移入が必須だが、別れの悲しさは小さな子供でも分かるし、大人になっても失われない。この点で、他の複雑な涙と別れの涙は一線を画している。群れを作る動物である人間にとって、別れを辛く思う感情というのは、恐らく本能的なものなのだろう。犬や猿のような人間以外の社会的な動物も、よく知った者と別れる時には同じように辛い思いをしているに違いない。飼い主の帰りを待つ犬などを見ていると、そう思う。
次いで分かりやすいのは「自己犠牲」である。自らの存在と引き換えに世界を救うバギー、リルル。危険を顧みず戦うのび太たち。「別れ」と並んで、物語における「泣かせ」の立役者だ。この二枚看板の合わせ技、というシーンも多い。
ただしこの「自己犠牲」、下手に盛り込むと話が説教臭くなるという欠点がある。バギーの自爆シーンは、その欠点を上手く消してあるいい例だ。彼は世界を救うためでなく、「しずかさんを泣かせた!」というごく個人的かつ主観的な怒りに駆られて、後先考えずに敵コンピューターに突っ込むのである。他のメンバーの言うことは聞かず、しかも普段は臆病なバギーであるだけに、この動機と「自己犠牲」の相乗効果が際立つ。何故なら、「自己犠牲」によって流れる涙は、哀れみの涙だからだ。バギーの思いがひたむきであるほど、見るものの哀れみは深くなるように出来ている訳だ
。
「自己犠牲」を描く際に、合いの手として重要なのが「葛藤」「対立」である。代表的なシーンは、リルルの祖先ロボット改造だろう。忠誠を誓った母星の人間奴隷化政策、人間に対する冷たい感情、なのに敵である自分にも優しくしてくれた人間たち…そう言った様々な要素が絡み合い、リルルは迷うのである。迷いの果てに、己の存在を賭けて人間を救う道を選ぶ、その姿に人は涙する。
ペコの後を追うジャイアンにしても、すんなり全員で戦いに乗り込んでは何の感動もない。ペコの「他国の友人を巻き込んではならない」という決意、「皆を危険に巻き込んだ責任を取る」というジャイアンの意地、「怖いけれど勇気を出して一緒に行く」というのび太たちの葛藤があるからこそ泣けるのである。
しかしながら、「葛藤」に感情移入して泣くためには、見るもの自身が葛藤を経験していなくてはならない。泣く泣く他の選択を捨てて、時には誰かと喧嘩をして、一つの道を選ぶ。その辛さを知らなければ、この「泣かせ」は伝わらない。よって、この辺りになると子供よりもその親を狙った「泣かせ」なのかもしれない。
そして「泣かせ」をさらに盛り上げてくれるのが、挿入歌だ。大長編『ドラえもん』には必ず挿入歌があって、これという場面で流れるように出来ている。上で挙げた名シーンの多くは、挿入歌の流れるシーンでもあるのだ。
『少年期』は特にそれ単独でも泣ける名曲だが、他の歌もなかなかどうして侮れない。歌詞がちゃんとそのシーン、その映画のストーリーに絡めて作られており、それがクライマックスをより高める。古典的な手法だが、やはり音楽の力は偉大だと言えよう。
以上を合わせて考えると、泣ける映画の基本パターンが出来上がる。主要キャラクターの一人、或いは何人かが、「葛藤」の末に「自己犠牲」の道を選び、他のキャラクターとの「別れ」を余儀なくされる、というものだ。当然その背景には泣ける挿入歌。
身も蓋も全く無いありきたりな結論だが、応用範囲は限りなく広いはずだ。意図してこれをやれば、多少あざとくはなるが何がしかの涙は誘えるだろう。実際、2003年の『のび太とふしぎ風使い」(※1)では存分に泣かせてもらった。
しかし、製作者の方々には申し訳ないが、やはり初期の作品群に比べると後半は感動が薄いのは否めない。藤子・F・不二夫氏は卓越した構成力の持ち主で、初期の大長編はどれもSF作品として素晴らしい完成度を持っていた。「泣かせ」はあくまでもそのスパイスであり、だからこそあざとさを感じずに思い切り泣けたのだ。
それに、同じ程度に良く出来た作品であっても、以前に似た場面があればどうしても感動は色褪せる。初期以後の作品も、一作一作の出来は良かったのかもしれないが、新鮮味という点で超えられない壁がある。長く続くシリーズ作品では、これは避けがたい宿命であろう。
歳をとって分かったのは、子供よりも大人のほうが「泣かせ」に飢えているということだ。『ショーシャンクの空に』のしっとりとした「泣かせ」もいいが、時には『ドラえもん』のようなストレートな「泣かせ」も悪くない。上記の中にまだ見たことのない作品がある方は、どうぞ試しに見てみて欲しい。個人的には『宇宙開拓史』『海底鬼岩城』『鉄人兵団』が特にお勧めであるが、この辺りは人によって好みが分かれるようなので、思い切って全部というのはいかが?
どうぞ、ハンカチのご用意を忘れずに。
※1 『のび太とふしぎ風使い』
2003年の劇場版映画。原作にある『台風のフー子』を元にしたストーリーで、フー子という名のつむじ風をのび太が可愛がる話。クライマックスでは、巨大台風による世界規模の災害を防ぐため、フー子がその台風に正面からぶつかってゆく。フーコの消滅を危惧して戦いを止めようとしていたのび太だが、結局他に道はないことを悟り、フーコを応援し始める。嵐の中、涙声でフー子に声援を送るのび太が、泣ける。
※2 『のび太の大魔境』に関する部分を一部訂正。ジャイアンの行動の動機が間違っていました。