星想 **Star light Star bright ** 1 Su-jinさま 1500hit Request その日、晴明の顔色が良くないことに気付いたのは俊宏だった。 「安部殿、ご気分が優れぬのではないですか。なにやらお顔色がよろしくないように見受けられます」 「いや、大事ないが」 そう答えた晴明は、朝から体調不良を感じていたため強く否定することも出来ず、蝙蝠を開くとさりげなく顔を隠し話題を変えようと試みた。 「しかし見事な鯛ではないか」 「殿がご友人の重信様より三尾いただきましたので、ぜひ安部殿にもお届けするようにと仰せでした」 「では今宵はこの鯛でささやかな酒宴でも催させていただくとしよう」 「そのお顔色で酒を過ごされますのもいかがかと思いますが」 口うるさい家令の顔に戻った俊宏は鯛を乗せた三方を整えると、退出の旨を告げ下がっていった。 彼は安部に仕える家人ではなく、晴明の唯一の友である博雅を主とする源家の家令であり彼にとっては小姑のようなものでもあった。身分違いの晴明の元に通う主人をもどかしく思っているのは確かだが、そのことについて差し出た口を叩く訳にもいかず常に彼を監視するような眼差しで見ては不快と感じていることを暗に伝えてくる。 悪気がある訳ではない。職務と主に忠実なだけなのだ。 他者には欠片も興味のない晴明に取り、そんな俊宏の動向など気に病むこともないが彼が博雅の腹心であることは確かだしその信頼関係も承知している。だから彼らの間には極力近付かぬようにしているし、それを気付かせることもないよう振る舞っていた。 宮中での仕事が忙しくなり屋敷にも訪問客が多くなったと、博雅の元に使いに出した雀が彼の声でそう告げてきた。せっかくの誘いだが、暫くゆけそうにもないよと、とても気落ちした声で呟くので思わず"かまわぬさ"と答えてしまった。 聞こえるはずなどない。これは彼ではないのだ。 晴明の言葉を受けて、任を解かれた雀は小さな羽を羽ばたかせ空へと戻っていった。雀に与えるつもりの粟が、土器の中で小さな山を築いている。 俊宏が来たのは、それから一刻ほどあとのことだった。 目が覚めたときから全身が怠く、こめかみの辺りが刺すように痛んだ。 先日、払いを頼まれ西京まで出向いたのだが、術の最中に降り出した雨に随分長いこと濡れる羽目になった。その所為であろうか、柔な体ではないと自負するものの限界は当然あると思い知らされるように調子の悪い日が続いた。 もう十日も見ていない友の顔を見たいと思ったのも、病から来る心細さだったのかもしれない。結局、まだ当分会うことの出来ない事実を知らされただけのいまとなっては更に気鬱を煽りなにをする気も失せてくる。 晴明は、己のうちに抱えるその思いが恋であることを疾うに自覚していた。姫ではなく、また叶うはずのない身分の違いを重々承知してはいたが、それで消え去るほど弱い思いではなくなっている。博雅を思えば胸が苦しくなるそれを"恋"と名付けてしまったときから、その心は日増しに強くなるばかりで彼の苦悩を募らせていた。 好いていると、そう告げてしまいたい。屈託なく笑う彼の笑顔を目の当たりにすれば必ずその思いに取り憑かれる。けれど告げることにより離れてしまうという危惧は決して思い過ごしではなく、そうして壊すことを恐れる彼には選ぶことなど出来るはずのない"片恋"であった。 鈍く痛む体を濡れ縁に倒す。 音もなく現れた女房がその身に袿を着せかけながら、床のお支度をいたしましょうと囁くように言ってきたが軽く手で払い必要のない旨を伝える。彼が来るなら、博雅に会えるなら、具合の悪さを指摘され余計な心痛を負わせることのないよう気遣いもする。けれど彼は来ないのだ。また当分の間あの笑顔を見ることはないのだ。 我ながら子供染みた感傷に苦く笑いをこぼしつつ、俊宏の持ってきた鯛を下げるよう告げる。女房は三方を捧げ持つと微かな衣擦れの音とともに下がっていった。縁を歩むその足下から薄く消え去るその姿はまさしく式のものであり、その気配さえなくなると辺りはしんと静まりかえる寂しいばかりの屋敷に戻る。 博雅が訪ねてくるようになってからどれほどの時が過ぎたか。それは思い出すには遠くになりすぎた記憶ではあるが、いつでも噛みしめられる至福の時としていまも続く大切なものだ。 友という存在を生まれて初めて得た。 己の口から"友"と呼ぶことの出来る唯一無二の存在だ。 その友情が仄かな恋心に変わり、冷めることのない熱病へと変わったのはいつのことなのだろう。積もる雪のようなその思いを、自覚したときには手遅れとなっていた。もう、ただの友情では押さえきれない。この胸の中に広がるそれは間違いなく"恋"なのだから。 吹き込む冷たい風に晒されながら、晴明は施しようのない思いをただ抱えていた。 進むことも戻ることも出来ぬと知った、悲しいだけの恋を恨んで。 咳き込む苦しさに目が覚める。 博雅から鯛が届けられた日から既に二日が過ぎているが、崩した体調は元に戻るどころか悪化の一途を辿っているのがよく分かる。一人では身を起こすことも困難になりながら、それでも彼は式を遠ざけ孤独を欲するように過ごしていた。 日は傾きかけ、辺りを茜色に染め上げている。もうじき空には月が昇るのだろう、住処へ帰る鳥の群が遠くの空を横切っていった。 なにをしているのだろう。重く湿った吐息をこぼす。。 己の、ある意味人間くさい行動に苦笑が漏れた。 どうにもならぬことに焦れて駄々をこねる童のようだ。自らに嘲笑を浴びせながら半身を起こすと、久々に呼び寄せた式に身支度を整える手配を命ずる。女房数人の手により顔や髪を整え、装束も隙なく着付けていくといつもの自分を取り戻したような気分になる。 勿論それは気だけであって、立っているだけで揺らぐ視界は病状を伝えてきたし休んでいなければならないという自覚もある。けれどこれ以上腐っていてはやがて本当に根でも生えてきそうだ。やらねばならぬことはいくらもある身として、手始めにたまった文に目を通すことに決め文机の前に寄った。 どこぞの辻に鬼が出たというもの。隣の屋敷から女のすすり泣きが聞こえるというもの。我が妻に物の怪が取り憑いたようだと怯える夫の文、このところ通うようになった姫に捨てた女らしき生成が夜ごと襲ってくるという文。 人の世にある後ろ暗い部分ばかりが書き立てられたその書面に、彼は沸き起こる笑いを納めることが出来なかった。自らの恋すら立ちゆかぬ己に頼る哀れなものどもよ。彼らと、そして自分自身を蔑む言葉を浮かべながら、職務として急を要すると思われるものから順に返事をしたためていく。自らが出向く必要のあるもの、陰陽寮の誰かに頼れと紹介めいた文を加え断るもの、あわせて七通を仕上げるとそれらを式に託し漸く背筋を伸ばす。外は、既に夜も深まる刻限となっていた。 月はない。 墨で塗りつぶしたような漆黒の空に厚い雲がたれ込めているのが分かる。清廉な青い輝きはその雲の影に身を隠しているのだろう。その漆黒の空を見上げながら縁まで出ると、冷たい風が全身を凍えさせるように吹き付けてくる。奥へ入るか、なにか羽織るものがなければ確実に悪化させるだろう体調を思い、暫し逡巡したあと結局そのまま立ち尽くしていた。仕事はある、だから休む訳には行かないのだ。それは分かっているがまるで現実から逃れたがる意識が言うことを聞いてくれない。自虐行為だと思い、足を室内に向けようとするがそれはかなわず、代わりにひどい震えが背筋を駆け抜ける。まずいと思ったときには既に傾いた体を立て直すことも出来ず、固く冷たい縁に叩き付けられるように倒れていた。 なんと無様な。 沈み始める意識の中で、浮かんだ言葉は自らを罵倒するそれであった。なにを求めているのか、分かりすぎるほどに分かるその女々しさを嘲笑いながら、彼は深い闇の中へと消えていくように思考のすべてを停止した。 このまま、浮かび上がらずとも構わないと言うように、すべてを。 暖かななにかに包まれている。 まるで幼い頃の、記憶の中にほんの僅か残された母親に抱かれて眠るようなあの感覚。疾うに潰えたその安らぎがいま、なぜだか自分を包んでいる。 晴明の意識の中に芽生えたその温みはまるで現のことのように、彼の体を抱きしめ暖めてくれるようだった。 「晴明」 名を呼ばれる。 「晴明」 名を、呼ばれる。 「目を覚ましてくれ、晴明。答えよ俺の声に」 不安げな響きに眉を寄せる。その声の持ち主であればいつでも天真爛漫に…まるで童に与えるような言葉だが、純真で誠実、人の本質であるあらゆる意味での純潔を真っ直ぐに貫くようなあの漢でしかないが、耳元に繰り返されるそれはひどく緊迫したもので彼らしさの欠片もない。泣きそうに歪んだ声が幾度も繰り返し名を呼ぶのに違和感を覚えながら、そっと目を開けると果たして目前にいるのは違えようもない彼、源博雅その人であった。 「苦しいのか」 彼の方がよほど苦しげな顔をしている。微かに首を振ると大きな目が眇められ、まるで駄々をこねるように小さな呻きをあげた。温もりが一段と強くなる。 「このように冷たい体をして、お前、ばか」 素肌のまま抱きしめられている。小袖の前を開き、武人の体裁は整った、けれど逞しいと言うにはほど遠い博雅の胸が彼を抱きしめている。そう気付いた晴明は彼の腕を退けようと身動くがそれは博雅が許さず、苦しいほどの力でその拘束を強めてきた。 「なぜこのようなことになった。どうして俺を頼ってはくれなかったのだ。俊宏にお前の具合の良くないことは聞いていたが忙しさに紛れ訪ねることもままならず、ふと気を抜くとお前のことばかりが気にかかり夜も日も案じておったのだ」 「ひろ…まさ」 「ばか、俺になんの気遣いがいる。知らせてくれぬことの方こそ、よほど恨みに思うのだからなっ」 背に回された腕がきつく締め付けてくる。ああ、これはまこと博雅の温もりであったかと、安堵する気持ちすらどこか遠くで感じている。 嬉しい。とても嬉しい。けれど。 「まだ…仕事は片付いておらぬのだろう」 「片付いておらねばなんだという」 「俺は大事ない、戻れ」 「いやだ。そう言うと思うておったが、俺の答えも決まっておるのだ。晴明の病が癒えるまでは離れぬ」 「愚かなことを」 言いながら、必死に巻き付けてくる腕を外そうとすればそうはさせじと力を強める。引き被った袿の中で裸の胸が懸命に抱え込もうとするのを拒みながら、けれど望んだものが目前に晒された事実にも目がくらむ。 「お前はばかだ、博雅」 「ああ、そうだろうさ。俺は俺を賢いとは思わぬ。だがいまの晴明よりはよほどものの正しさというものを理解しておるぞ」 「していない」 「している。晴明、頼む、大人しくしてくれ。俺にお前の身を案じさせてくれ」 「いらぬ」 「…っ、晴明!」 強引に払いのけようと振り上げた腕が博雅の頬を打った。涙で潤み始めた瞳が、いっぱいに見開かれたあと悲しげに歪む。嗚咽が漏れる。 「居ても立ってもいられなくなり、招かれていた大納言様のお屋敷より忍び出て参ったのだ。無理をしてはいまいか、苦しい思いをしてはいまいか、気ばかり急いて漸うここまで辿り着いてみれば案の定お前が縁で倒れている。大事ないという程度なら、なぜに式神を呼び寄せぬ。どうして俺が来たことにも気付かず懇々と眠り続けるのだ。二度と目覚めぬような冷たさで、このように…冷たい体で…」 包まれていた温もりは、いまそれとは逆に彼に縋り付いている。振り切られる恐怖に怯え、ただ必死に彼を求めている。泣いている。 「博雅…お前は、分かっておらぬよ…」 「分からずは晴明の方だっ」 「いや、お前だ」 言い募ろうとする博雅の腕を掴み、引き寄せる。彼がなにかを言おうと開きかけた唇を塞ぐため、晴明は己の紅く、薄い唇を彼のそれと重ね合わせた。 抵抗は、すぐには起こらなかった。 |
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