BUG & BOM !  バカにつける薬と恋のPit-a-Pat Peep-Show 1

 

 

 

 

 

 

月が出ている。

まあるく黄色いそれは恋を語るのは不似合いの姿をしている。

月はしっとり乳白色か、朧に霞んだものがいい。こんな風に煌々と、景気よく光られては気の利いた歌の一つも詠めやしない。もう少し考えて昇って来いと文句を言ったところで罰は当たらないだろう。

自宅の北の対の濡れ縁に、だらしなく腹ばいに寝そべっている漢は投げ出した指で杯を取ると、そのままの姿で唇を突き出し注がれている酒を啜った。

決して人には見せられない姿である。

いや、彼のこのような姿など見たいものはないだろう。

漢は陰陽師だ。都を守護する要として、帝の覚えもめでたい天下無敵の術師である。

白すぎる顔に鋭い眼差し、どれほどの美姫でも敵わぬほどに美しく赤い唇は常にあるかなしの微笑を湛え見る者の心を捕らえる。捕らえられれば戻ることが出来なくなるし、また惹かれ焦がれる思いが恐ろしくもなり、彼を求めることは自らの命を投げ出すことと同じである。

そこまで評されるどこか得体の知れない人物。

それがこの陰陽師を表す、都人の一致した思いであった。

 

この漢、名を安倍晴明という。

年の分からぬ顔立ちだが、多分三十路を過ぎた程度であろう。公私共に充実した生活ぶりが窺える、粋も艶もある姿だった。

白い狩衣を着ている。

夏も冬も白一色で、真冬の雪の降る中に立っていられると見ている方が寒くなる。だからそれは彼の謀った嫌がらせなのかもしれないか定かではない。

彼は人に興味がない。だから嫌がらせする理由もないのだが、訪ねて来るものをいろいろ驚かしては遊んでいることもあり、やはり何かの意趣が含まれていると考えるのも自然に思える。

とにかく掴み所がないのだ、晴明という漢には。

ものを話せば竹を割ったような、歯に衣着せぬ物言いなので敬遠されることも多々ある。嫌なものは嫌だし気が向かないものはなにをどうしたところで興味などもてぬ。

それが"名誉"や"財"に関することならなおさらで、彼に仕事を頼む時にまず持ち出すのは

"いかにその妖しが奇妙であるか"という点であり、決して後ほど支払う報奨のことを口にしてはいけない。

彼は自らのことを棚上げして、果てしなく下品なことを嫌う雅な面も持ち合わせていた。

 

さて、その誰もが恐れる稀代の陰陽師がこうもヒマそうに酒を飲んでいるのにも訳がある。

彼は今夜、大切な友人と望月を愛でながら酒を飲む約束をしていた。

源博雅である。

醍醐天皇の皇子である克明親王の第一皇子として生まれた彼は、政治的背景の中で臣下に下り今は源姓を得ているが、身分で言えば晴明とは天と地ほどの開きがある、いとやんごとない殿上人の一人だった。

その彼と晴明が出会ったのは…それはまた別の話として、とにかく二人は友として親交を深める日々を送るいわば"仲良さん"なのである。

今朝、晴明の元に一匹の鯛が届けられた。尾頭付きのそれは見事な鯛で、晴明は受け取った瞬間使役する式神を博雅の元へと飛ばした。

式神とは本来、人形に切り抜いた紙や板で作られた人形などを用い呼び出す鬼神のことを示す言葉であったが、晴明はそこらの花や蟲などを身の回りの世話をさせる式として利用している。その時送ったのは簀で鎌を振り上げ我が物顔で歩く蟷螂であった。

夕刻には到着すると返事を寄越した博雅をウキウキと待つ様はそれだけでだらしない。

整った造作が崩れるだけに、決して口答えなどせず、何より感情の起伏を表に出せない式でさえ眉を顰めるその面は本当に見るものがなくてよかったと胸を撫で下ろすしかないだろう。

さて、とにかく晴明はその返事が届いてから、温かく降り注ぐ日の光に向かい"早く暮れろ、早く暮れろ"と呪詛のように繰り返した。現代風に言うなら遠足を心待ちにする子供のようなものだ、簀でジタバタと足を踏み鳴らすに至って彼のワクワク度は容易に知れるがやはり式たちにとって決して見たくはない光景でしかないのは変わらぬこととして、最早"日が暮れろ"という思いは安部家全体に共通する願いとして罪もないお天道様にぶつけられることとなった。

 

ところが。

 

 「遅い」

 

晴明が呟いてから、時は既に一刻を過ぎている。

日は暮れるどころか薄暗さを感じるようになり、あれよあれよという間に夜の静けさに包まれてしまう。博雅からの沙汰はない。

苛々と爪を噛んだり、首を伸ばして彼の気配を探ってみたりとしているうちはまだよかったが、元来堪え性とは言い難い彼は忽ち飽きて簀の上でバタバタ手足を振り回し焦がれる者の名を叫んでみた。…それでも来ないものは来ない。

そのうち今来るか、この瞬間にも来るかと、几帳の影に身を潜め"ワッ"と飛び出す準備を始めた辺りで式は自ら晴明の前に進み出た。

今日、彼の世話をしているのは蜜虫だ。彼女は藤の花より作られた式で、常に優しい花の香りを漂わせなよやかな動作で見る者の心を和ませる美女だった。

式は主の命令がなければ何も出来ない。だから彼女は自分を博雅の元へ送って欲しいと頼むつもりでじっと彼の瞳を見詰めた。

晴明も、ここまで待たされて意地になればまだ見所もあるのだろう。けれど彼に取り博雅は唯一絶対の存在だった。だからもし、何事かが起きてここへの到着が遅れているとしたらという"タテマエ"のもと、彼女を大慌てで使いに出した。

 

戻ってきた蜜虫は、常と変わらぬ微笑で手をつくとこう言った。

 「博雅さまにおかれましては、大変申し訳ないが今しばらく待っていて欲しいとの仰せにございました」

 「待っていろと?なにをしておるのだ、あれは」

 「はい。お屋敷にて四方を家人の皆様に囲まれなにやらお叱りを受けておられました」

 「叱られている?なんだ、また何かしでかしたのか」

 「そのようなご様子ではござりませんでしたが…ただ、とても困ったことになった、と」

 「困ったこと?まったく、それならそうと俺を呼べばいいではないか」

晴明様を呼んで、事が大きくなるのを防がれたのでは…とは、決して言わない蜜虫だ。彼女は聡明な女だった。いや式にしておくのは勿体無い。特に、彼の。

 

それから晴明は東の対に用意していた酒宴の支度をそのまま北に運び、今に至る。

月は完全に中天へと昇り、温めた酒も冷め切ってから随分経つ。

長い指を折りなにやら数え始めたところで、蜜虫はその美しく整えられた眉をひそと顰めた。現実逃避を始めたらしい。

人間らしい姿を彼が見せることには大いに賛成する。彼女の主人は孤独を愛すると言えば聞こえはいいが、どこか突き放した冷たさを他者に与えてしまいがちだ。だから彼のこういう姿に安心するのも確かだけど、度が過ぎればやはり困る。何より怖い。

あの様子では博雅が屋敷を抜け出てくるのは至難の業だろう。彼は"二重苦"の人なのだ、家人の目をくらまし見事この屋に辿り着くのは三日過ぎても無理だと思われる。

どうしましょう。

微笑を湛えたままの唇の端が、微かに下がっているのを気付くものはない。数え終えた晴明は、今度は腹ばいのまま床板に指先で文字を書いているのだ。

 "ひろまさ ら びゅーん"

意味が分からない。

ついでにこの時代に"―"は存在しない。それはまあ気付かないことにして、らびゅーんとはなにか、蜜虫は首を傾げて考えた。ら、びゅーん。

 

 「博雅…ひろまさ…ひーろーまーさー、あいらっびゅーん」

 

ふっ

 

 「ん?はて、蜜虫、どこに行ったのだ?おかしいな、今までここにおったはず」

ええ、いました。彼女はあなたの傍らで、健気にも主のためになることを賢明に思案していました。ですからその緊張の糸が切れたのでしょう、これ以上ないほどぷっつりと。

 「まったく、式にまでつれなくされるとは…俺がなにをしたというのだ…」

腹ばいのまま呟かれても、哀れのあの字も浮かびはしないがとにかく彼は自分の世界で悲劇のヒロインを気取りだした。こうなるともう手がつけられない。

 

そして手がつけられないものが、ここにもう一人存在する。

                                  続く →

 

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