BUG & BOM ! バカにつける薬と恋のPit-a-Pat Peep-Show 2 「なあ俊宏、俺はいつまでこうしておればよいのだ?」 「博雅様のお心が決まるまででございます」 冷たく言い切られ源博雅は深く、ふかーく項垂れた。 無理もない、彼の前には家人の中でも年が近いことで重用している俊宏が座し、右隣には乳母の八重がこれまた怖い顔で睨んでいる。左を向けば家令頭の貫之がいるし、後ろを振り向けば古参女房の清子がいる。 この清子という女房がまた大きな体をしていて怖いのだ。 博雅は世の中に怖いものがいくつかある。まずは何をおいてもこの清子の存在であろう。彼女は腹から声を出して喋るので、寝起きに聞くとどれほどの眠気も吹き飛ばす勢いがある。そしてグズグズしていようものならその巨体に物言わせ、彼を塗り籠の中から蹴りだすのだ。唯一楽を奏じている時だけ自由にさせてくれるが、それも参内や大切な用の前には通用しない。だから博雅は彼女が湯治に行くなどと聞くと嬉しくて仕方がないのだ。 つい先日も八重と二人で出かけたいと話していたのを聞きつけて、かなりの路銀を持たせ送り出したばかりなのだ。それがもう帰参した上その恩をすっかり忘れ果てたような顔で彼を睨んでいるのだから堪らない。 困った。 困ったことになった。 困ったことなのは確かなのだが、自分にはどうにも出来ないことなのでそれも困ったことの一つだ。 こんなに困っているのにどうしてうちの者たちはみな、こんなに恐ろしげな顔で睨むのだろう。俺はこういう顔をされると、子供の頃を思い出して居たたまれなくなるのだ。 そう、あれはまだ彼が諸王として後宮に暮らしていた頃のこと。 彼は祖父である醍醐天皇が渡ってくるという知らせを受け、それは楽しみに待っていた。はしゃいで跳ね回って今か今かと待ちわびるうち、いつしか縁に出て、濡れ縁に出て、気が付いた時は褥の上に寝かされ母や女房が泣き伏せているという不思議な事態になっていた。 落ちたのだ。博雅は。 子供の頃は絶対に成長しないだろうと言われたほど体の小さかった博雅が、うさぎのように飛び跳ねた次の瞬間見守る女たちの前から忽然と姿を消した。彼は、そのまま固い地面へと叩きつけられ気を失っていたのだ。 目覚めたことを一通り喜んだ女たちは、次に凄まじい目で博雅を叱った。 ただでさえ博雅の身は危ういのだ。これ以上のマイナスイメージはなんとしても避けなければならない。その後にやってくる主上にも、決して話してはいけませんときつく叱られ博雅は頷いた。 頷いたが喋った。 『さきほど、ここから落ちましてございます』 醍醐天皇は大きな溜息をつくと博雅の"打ち付けて痛む"という尻の辺りを擦ってくれた。擦りながら"お前は十まで生きられるのか"と、かなり本気で呟いた。 その時の面子に八重も清子も入っているのだ、三つ子の魂どころの話ではない。 以来、博雅は大勢の人間に囲まれ叱られるということが怖くてならない。晴明とともに出くわす鬼より身近にいるものの方が触れ合う機会は多いのだ。 逆らっては自分のためにならないことをよく知っている博雅は、首を竦めて嵐が過ぎ去るのを待つことにした。ニ刻以上前にやってきた蜜虫は、家人には聞こえぬ頭に直接響く声で話し掛けてきたので、博雅もそれには答えておいたのだが果たしてあの晴明が大人しくしているだろうか。 彼は晴明の、自分に対する異常なまでの恋慕を知らずにいる。 好かれているのは承知しているし、博雅とて晴明のことは好ましく思っているのは確かだ。 つい先日、なんとなくそんな雰囲気になって唇を触れ合わせてしまった。それが特別な相手に対して行うものだという認識は博雅にもきちんとあったので、その時は嬉しいような恥ずかしいようなモジモジした気持ちになって柄にもなく俯き晴明の目を楽しませたものだ。勿論、晴明に"楽しむ"などという情緒ある思いを噛み締めている余裕などなかったが。 彼はこの日の日記に"我が人生に悔いなし"としたためている。 二人の思いがどう食い違おうと、とにかく仲睦まじく過ごしているのは確実だ。 博雅が身分違いの陰陽師の屋敷に足繁く通っているのは既に知られたことであったし、帝をして"晴明を射んとせばまず博雅を射よ"と言わしめたほどだ。そのことわざも杜甫の言葉から生まれたものなので、この時代に確立していたかは知らないけれどまあ気にせず、ともかく晴明と博雅の関係は小路をうろつく狗さえ知っていることと評判だった。 さて、そこで話は漸く初めに戻るのだが、博雅がこうして屋敷に監禁されているのには訳がある。いや、訳もなく監禁されていたらそれはそれで問題だが、とにかく彼を怖い顔で睨んでいる者たちにはそれなりの理由があるということだ。 博雅は今年三十路に手が届く。子供の頃は心配された体格も今では上背も伸び健康的に見える程度には出来ている。顔は、これはもう都人からすればにっちもさっちもいかないほど凹凸が激しく、目の大きさは零れんばかりだし鼻筋は高いというモテない要素を多分に含んだものだが二目と見られない訳ではないので我慢できる範疇にあるだろう。尤も晴明から言わせれば"そんなところもらびゅーん"なんだろうが。 生まれの高貴さとその後の生活ぶりも、彼が都で高い地位についたままであることを証明していた。 とにかく楽の申し子と言われる博雅はレストランの弾き語りのような存在で、あちこちの宴から引っ張りダコの人気者だ。彼と自分の娘をどうにかまとめたいと思う父親どもが多いのも納得できる"高物件"だった。 ところが博雅の興味ときたら楽器にしか注がれないし、それ以外を上げろといわれれば迷わず晴明と酒を酌み交わすことと答えてしまう。これではいかな政略結婚好きの都人といえど手の施しようがなかった。だから家人はひた隠しに隠し、"我が家の殿はいま、密かに思う姫がおられますので…"と苦しい嘘で切り抜けていた。いずれよき日を選んでって、そりゃいつ来るんだい?と自分の胸に問い掛けながら、密かに訪ねる使者を帰すときのあの痛みを知れ!と、本気で怒鳴りたくなることも一度や二度ではなかったのだ。 しかし。 しかしだ。 ここで博雅を囲む家人たちは考えた。 うちの殿には色恋を説くなどもう無理なのは分かりきっている。そんな話を持ち出したところで半刻もしないうちに眠気で潤ませた瞳を指で擦られたりして、挙句"もうよいか?"なんて甘えた声を出され逃げられるのが落ちだしそんな仕草を見せられたら勘弁してしまうに決まっている。 では、ではどうすればいいのか。 俊宏は考える。八重も清子も考える。貫之は考えすぎで頭髪が薄くなっていく。と本人は言うがかなり前から薄いのでこれは頷いてやれないが。 ピン 電球が、俊宏の頭上で光る。…電球?さすがのエジソンも生まれていないぞ。 「殿がダメなら、まずあちらにしっかりしていただけばいいんです」 あちら。 博雅は深い溜息をついた。 「ですから、もう何度も申し上げておりますように博雅様は安倍殿にこう仰られればいいのです。それだけのことなのですよ」 俊宏の用意したシナリオはこうだ。 博雅が結婚しないのは、訪ねて行って適当に遊べる場所があるからだ。先方が受け入れるから未だに子犬のようなところのある主人は喜んで遊びに行って、よからぬことに巻き込まれついでに特注の袍を台無しにする。 それならいっそ、その遊ぶ先を潰してしまえばいいのではないか?馬の骨に適当な飼い葉を与え、一家としての体裁を持たせれば博雅とてそうそう訪ねて行くことは出来まい。そして正しい夫婦の姿を見れば、自分もその気になるやも知れぬ。 彼が自分の膝を打ち、それを聞いた一同が深く頷いたのは言うまでもないことだった。 急ごしらえの企みは驚くほど早く整っていく。貫之の姪に当たる姫が丁度年頃だし身分的にも問題がない。この姫、少し変わったところがあり物事にあまり頓着しないというからこれはもう取って付けたようなラッキーチャンスだ。 姫の側には通ってから説明すればいいし、あわよくばしなくても構わない。晴明が気に入ればそれでなんの問題もなく誰の手も汚れない。全て打ち合わせが済んだところで彼らは意気揚揚と博雅の元へ出向いた。 今まさに出かけようとしていた彼の元へ。 「とても気立ての良い、それは美しい姫が晴明殿の噂を聞きつけ大変に興味を持っている。うちの家令頭の姪だから余計な心配もいらないし、どうだろう一つ会ってはみぬか、と」 それだけでいいのです! 最後の方は口調に脅しが入っている。博雅にとって俊宏は、清子の次に怖いものだ。普段は気の聞く随身だが、こと博雅のこととなるとその口喧しさは彼女と対等に張れるほどで、彼のような朴訥で口下手な人間からすれば勝てるはずもないものなのだ。 因みにその次に怖いのが焼いた魚の目だ。白く濁ってどこを見ているのか分からない。 どこかを見ていたらよけい怖いでしょう!いつだったか俊宏に怒鳴られたことを思い出し、また一つ溜息が零れる。 「だけどな、どうして俺が晴明の縁談をあいつに持ち込まねばならんのだ」 「ご友人でしょう。晴明殿とて妻の一人や二人いたところでちっともおかしくないのに、いつまでもお一人でいるのはおかしいです」 「それはそうかもしれんが、かといってなぜ俺が世話を焼かねばならない」 「順序です」 「順序?なんだそれは」 「ものには順序があるということに気付いたのです。ですから晴明殿にはなんとしても妻を迎えていただきますよ」 「お前は俺の家令だよな?それが晴明の婚儀の世話までするとは…」 「順序ですから」 「しかし俺は嫌だよ。晴明には晴明の考えがあってのことだろう。あいつが承諾しないのは身に染みて分かっている」 「…なにを身に染みるほどお分かりになっているのです?」 「それは、…」 言えないさ。口付けたなんて。 それは嬉しそうに笑っていたからなんて。自分が好かれているからなんて。 「なぜそこで赤くなるのです?」 ずい、と家人たちが間を詰める。ここが彼らの一番に心配しているところなのだ。 坊主の間には小姓という男色の相手が存在する。それなら似たような術者である陰陽師もそちらに偏ったものが多いのではないか?自分の考えにぞっとしたのか、彼らは同時に身を震わせ、こうなったら是可否でも晴明に妻をあてがおうと決意したのだ。 うちの殿を。純粋で穢れのない殿をあんな馬の骨にくれてやるものかっ! ただならぬ気配に博雅はたじろぐ。どうしよう、何か妙案はないものか。この場を抜け出すうまい口実など…なにか… 「殿、殿は由緒正しいお血筋の殿上人なのですよ。間違いなどあってはならぬのです」 「間違いとは…俊宏、それ以上近付くな」 目の前一寸ほどに迫る家令の肩を押しながら、博雅はまた溜息を漏らした。 晴明は、きっとあの濡れ縁で自分を待っていることだろう。 今宵は望月を肴に心行くまで飲もうと決めていたのにこの事態。 ああ、どうにかしてくれエルセーヌ。 博雅の願いも虚しく、夜は刻々と過ぎていく |