BUG & BOM ! バカにつける薬と恋のPit-a-Pat Peep-Show 3 「もう辛抱堪らん。蜜虫、これ蜜虫」 パンパン、と手を打つと、普段の白い顔を薄っすら青くした蜜虫がフラフラと歩み出てきた。主に体力を奪われきったのだろう、足取りは屏風絵の式綾女よりも頼りない。 「お呼びでございますか」 「待ちくたびれた。博雅を迎えに行くぞ」 「お迎えに?ですが博雅さまはお待ちくださるようにと」 「冗談じゃない、これ以上待っていたら俺は翁になってしまうぞ」 「はあ、では車の用意を」 我が殿が翁に…その図を少し想像して蜜虫はやはりクラリときた。恐ろしい。この人の年経た姿など考えられない。この先時の帝が何代移り変わろうとも彼だけはそのままな気さえする。歯も抜けず、髪も抜けず…この性格も改まらず。 牛車の支度を整えながら蜜虫は泣いた。涙は出ないが彼女は大粒のそれが頬を伝うのを確かに感じていたのだ。なにがどうなろうと私は主にお使えすると決めたのだ、強く正しく生きていこう。 健気な決意も知らず暢気な足音が聞こえてきたのはそれからすぐのことだった。 博雅の屋敷の側まで来ると、晴明はいま一度蜜虫を彼の元に送った。 ほどなく戻った彼女は薄く微笑む口元を少しばかり曲げている。怒っているのだ。 「いかがした」 「はい。博雅様は家人の皆様に引き続きお小言を申し述べられているご様子」 「あいつも仕方ないやつだな。どこの世界に自分の家来に文句を言われる殿上人がおるというのだ」 「それが、一つ気になることがございます」 「なんだ、申してみよ」 「はい。お話の中に殿のお名が幾度も出てまいります」 「なに?どういうことだ」 「細かなことは分かりませぬ。しかしどうやら博雅様は、殿のお屋敷へ参られることをお止めされているのではないようでござります」 「おかしいではないか、止められてもおらぬのになぜ来ぬ」 「はい。…はあ、それは…」 「歯切れが悪いな、申せ」 「ではお許しをいただきまして。博雅様は、御自ら殿とお会いすることを拒まれておられるようでございます」 「なにっ」 「ですから、細かなことは分かりかねます。ですが私にはそのように窺えましてこざいます」 深く頭を下げる蜜虫を呆然と見る。 ここに来るまで晴明は、どうせ自分の元へ通うのを家のものに止められているのだろうと思っていた。彼の家来たちはみな晴明を怪しみ、友好を深めることを由とはしない。特に俊宏の態度は顕著で、いつぞやは嫌味すら言われたことがある。身分的に考えれば晴明の方が上なのだが、彼は"うちの殿様日本一コンテスト"があれば間違いなく上位に食い込む博雅フリークなのでそれも仕方ないといえばそうなのかもしれない。 だが晴明には余裕があった。 自分は彼に好かれている、その絶対の自信が晴明の態度を作り上げていたのだ。だから俊宏はいつも彼の小バカにしたような笑みに苦いものを感じていたと思う。 「とっ俊宏辺りがそう申しているのであろう?はは、蜜虫、お前は少し慌てものだな。いま名を間違えていたことに気付いておるか」 「恐れながら晴明様、私の言い間違えでも殿のお聞き違えでもございません。博雅様が申しておられたのです。"俺は晴明の屋敷には行かぬぞ"と」 「博雅が…俺の博雅がそんな…そのようなことを…」 いつ殿のものに?とはさすがに言えない蜜虫だが、蒼褪めて行く顔に憐憫と怒りが込み上げてくる。式の怒りは恐ろしい、なんといっても妖しものの一部なのだから。 普段温和で感情を持たない分、主人を傷付けるものに対する反応は素早い。そうでなければ何かと敵の多い晴明を守ることなど出来ないのだから。 蜜虫は肩を震わせ晴明の命を待った。彼が一言命じれば彼女はたとえ博雅であってもその手にかける覚悟がある。勿論、そんなことをして晴明が喜ぶとは思わぬし、その後に存在しようとも思わない。彼女に取り、晴明は唯一絶対の主人であり、この世にあるための全てなのだ。 「なぜ…なぜ急にそのようなことを言い出したのか。俺がなにか気に障らぬことをしたのだろうか。いや、いやいや、それなら博雅は申したはずだ。あれは俺が少しからかうだけでプウと頬を膨らまし、それは愛らしい顔で怒るではないか。俺はそれを見るのが楽しくてついいつもからかいすぎるが、それにしてもあいつは必ず許してくれるぞ。晴明であれば仕方ないと、必ず笑ってくれるのだ」 そうだ、あの笑顔がまたかわゆいのだ。照れて眉の下を掻く仕草も愛らしい。すまなかったと声を掛けると、今度は俺がからかってやるぞと出来もしないことを言って寄越す。期待していると答えれば、それ、またそのように俺をバカにしてと今度は涙目になるのだ。 ブツブツといい始めた主人に蜜虫は詰めていた息を吐き出した。 怒りが、すうっと体から抜けていく。 そうだ、晴明の言う通り博雅は彼のことを心から思っている。思う、というものの本質が晴明とは幾分違うがそれでも彼のような真っ直ぐにして実直な漢は自らの心を早々簡単に違えたりすることは出来ない。夕刻には来ると返事をした彼がその夜急に行きたくないと言い出すなど、なにか余程の事態が起きたからに相違ない。そうだそうだそうに決まった。 所詮は晴明の作り出した式である。バイオリズムや思考パターンは似てきてしまうものなのだろう。 主との相違点である立ち直りの速さで蜜虫は再度頭を下げた。 「殿、ここは一つ、殿ご自身にて真相を明らかになされてはいかがでしょう」 「なに、俺がか」 「はい。博雅様は母屋におられます」 「しかし俺はこの屋敷のものにひどく疎まれておるのだ。易々と中には入れまいよ」 「では私に憑かれては」 「蜜虫に?」 「はい」 藤色の重ねを隙なく着こなした蜜虫を見遣る。どこから見ても美しい女だ。なよやかで嗜み深そうな姫であるから、確かにこれなら警戒するものもないだろう。 「だがこんな夜更けに女が一人参ったとあらば、それもまた妖しかろう」 「恋するものは一途。行く道に命を賭すほどのなにがあろうと、固く結ばれるその瞬間(とき)のため、千の夜をも駆け抜けるのでございます」 もらった。 晴明は今の台詞を心のネタ帳に書き付けた。好きな相手に月をくれてやることも出来ると、いつか博雅に語ったこともあったが実はあれも蜜虫の言葉をそのままパクっただけだった。博雅に焦がれる晴明に、彼女は酌をしながら言ったのだ。 "なにも求められぬ博雅様といえど、お空の月を美しく思う心は誰より強うございましょう。ですからその月を差し上げると殿が申し上げれば、きっと彼の方は頷かれまする。さすればその月はもう博雅様のもの。美しき月と博雅様は、きっと殿のものとなりましょうや" ナイスな彼女を晴明は心の中で"恋する吟遊詩人"と名付け重宝している。 「そうか、ではお前の言う通りにしてみるか」 「きっと博雅様をお連れくださりませ」 濡れ縁に腹ばいで、常世どころか完璧にイッてしまった主の姿など見たくはない。 蜜虫は目を閉じ、主の唱える呪言に耳を傾けた。 ゆっくりと、身のうちに何かが入り込む気配。 そして。 「よし、それではこれより"博雅奪取計画"を実行する」 美しい唐衣を身に纏った女人がすっくと立ち上がる。姿も声も蜜虫であるが、その体から発散する"やる気成分"は間違いなく晴明のものだ。 彼女は…いや彼は、しずしずと牛車を離れると博雅邸へと近付いていった
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