BUG & BOM ! バカにつける薬と恋のPit-a-Pat Peep-Show 15 なんだか分からない。 「晴明?帰るのか」 「おお、帰るぞ」 なにがどうなったのか分からない。 「俊宏は?」 「徒歩だ。蜜虫はお前のところの貫之がともに付いておる。後ろにおるよ」 なんだ?なぜ俺は帰るのだ?帰るってどこへ帰るんだろう、いつ帰ることになったのだろう。俊宏は外か、声を掛けてみようか、でも晴明が俺を抱えて離さぬしなぜか深く聞いてはいけない気がする。 分からない。 牛車の中で博雅は、昨日と同じように晴明に抱きかかえられた状態だった。 目が覚めたらこうなっていて、それまでの経緯がまったく分からずただ目を丸くするばかりであった。 牛車は既に山を降り、辺りも夕暮れを迎えている。夕べはよく眠れなかった所為かこれほどの変化や振動をものともせず眠りこけていたが…さて、なにがどうなったかと晴明に正したところでまたはぐらかされるのがオチかと口を開くことも出来ない。 けれどいつまでも黙っているのもおかしなものだし、疑問を問うことくらい許されるだろう。あれほどの危機を結果的に逃げ出していた自分に引け目のある博雅は、出来る限りの優しい声で晴明に呼びかけた。 「のう晴明、この車はどこに向かっておるのだ?」 「うちだ」 「うち?土御門か」 「ああ」 「なぜ?」 「……………」 「晴明?」 「お前はなにも案ずることはないぞ。この晴明が側におるゆえな」 「そうか。それは心強いことだ」 「うむ」 会話が途切れる。 ゴトゴトと進む車輪の音を聞きながら、博雅は別の角度から話すことにした。 「蜜虫殿との婚儀はどうなったのかな」 「その話は源家より周囲に伝えられることとなっている。それも案ずることはないぞ」 「俺はどうするのだ?お前の家に通うのか」 「そうなるな」 「では変わりなく、晴明と酒を飲むことができるのか」 「そうだ」 「俊宏が許したのか」 「許しというか…まあ認めることとなった」 「あの口うるさい俊宏が、よく許してくれたなぁ」 「それはお前、博雅が俺のまことの伴侶であると突きつけられれば、認めぬ訳にもいくまいよ。主に先立たれた屋敷の惨めさは、家令の要として勤めるものなら避けねばならぬ大事であるし」 「…お前の言うことはよく分からぬ」 「なに、博雅は俺とともにおる。これまでのように一人でこっそり訪ねることもなく、堂々と我が屋敷に留め置くことが公認になったということさ」 「めでたい話だ」 「おう。めでたいぞ」 また途切れる。けれど博雅にはもうそれ以上言葉がなかった。 家人一同が良い顔をせぬ晴明宅への訪問を許されたのだ。抜け出すような真似をせずとも出かけられるのはいいことだし、酔ってフラフラな足取りで自宅に戻る必要もなくなったとあらばこれまで以上に楽しい酒が飲める。 好きな晴明を悪し様に言われ心苦しい思いをすることもないし、誰の目も憚らず好きなだけともにいることが出来る。 いいこと尽くしではないか。 「晴明」 「なんだ」 「俺は喜んでもいいのか」 「喜ばしいことだと思うなら、素直に喜べばいい」 「お前は嬉しいか」 「嬉しいぞ」 そこで初めて、博雅は顔を上げ晴明の瞳を見詰めた。キラキラと輝いた冬の北斗星のようなそれになんだかウットリした心地になる。 「嬉しいか」 「ああ。嬉しい」 ギュッと抱き締める腕に力が篭る。それはとても気持ちのいいもので博雅のウットリ感を更に増し、彼の腕を晴明の体に回させた。 「俺も嬉しいぞ」 微笑む博雅に晴明はツーンと鼻の奥が痛くなる。 ああ、かわいい…まこと博雅はかわいい。今宵こそはこのかわゆい恋人を存分に我が物と出来るのだと思うと、晴明の目頭はどんどん熱くなってくる。 「晴明、なぜ泣くのだ」 「嬉しいからだ」 「俺とともにおるのは嬉しいか。それで泣くのか」 「ああ。それで泣くのだ。それほどのこと、と人は言うかも知れぬが、俺にとっては生まれ出でてこの方、これほどまでに喜ばしいことはない」 「俺を思うてくれるのだな。ありがたいぞ」 「博雅」 「晴明」 んんーっ、と。 晴明が唇を突き出す。一瞬キョトンとした博雅だが、おお、今の会話はそういうムードを作るものだったのか!と気付いた途端モジモジし始める。 恥ずかしい。とにかく博雅はそういったこと全てが恥ずかしくて仕方ないのだ。唇に触れ合うのはなにやら暖かで悪くはない。だがそういうことをこうして互いの顔が見えるところで交わすことには抵抗がある。それにっ! おこちゃまだって知っているのだ。今朝方、山の中で晴明がしようとしたこと。あれは間違いなくアレだ。初冠の済んだ夜、八重と清子がしどろもどろになりながら説明してくれたアレに違いない。 十四で妻に張り手を食らわされた博雅は、以降女はいいとして"妻"は怖いものだという擦り込みが果たされてしまった。故に"夫婦間"で行われることも決してよい印象としてはなくなってしまっている。 どのようなことであっても人前で素肌を晒すなど恥ずかしいことだ。ましてその、契り交わすなどというのはほれ、好いた方であれば余計に恥ずかしいではないか。 この物語の博雅は今年で三十路を迎える。だから"恥ずかしい"とか言ってしまえることは本来ちょっとコワイことだが仕方ない。なぜなら彼が博雅だから。 晴明に出会うまでは頭に止まった蝶を指差し"見てみよ俊宏、てふてふがこの博雅に"などと言っていたようなウルトラバカ…訂正、スーパーピュアな漢だったのだから! さて、博雅の思案中も晴明の唇はムニッと突き出されている。困った、これに応えていいものか、いつぞやのように触れ合わせて、それで自分は本当にいいのか。 眉の寄ってしまった博雅を薄目で見ていた晴明は早くも苛々し始めている。 ここまで来てまだなにを躊躇うか。嬉しいと言ったくせに出し惜しみか?もうお前は我が物、今せぬとて今宵は容赦せぬぞ。 と、野獣さながらな勢いでジリジリしているのだ。 そんなことに気付きもしない博雅は、ふと自分の腕の所在に気付く。晴明の背に回されたそれは確かに彼を抱き締めている。安心したように体全てを預けている。 なんだか分からないけど。 状況は全く分からないが、それでもこうして同じ車の中にいて。 家令にも認められ、逃げ隠れもせずともに過ごすことを許された。 晴明のことは好きだ。 とてもとても好きだと思う。 彼といると楽しい。彼といると嬉しい。心が軽くて、また逢いたいと思っている。 いつでも逢いたいと願っている。 「晴明」 名を呼んだら、微かに目を開いて博雅を見た。 大切だと思う彼が目の前にいる。 だから。 「いかがなされました晴明殿っ、車を停めよ、停めよ、なにやらおありのようだっ」 ゴトン、と停まった牛車の御簾を、俊宏が上げてもいいかと尋ねてくる。 博雅は返事のしようがなかった。 困り果てたまま泣き崩れる晴明の背中をそっと掌で擦ってやる。 そっと、そっと擦り続けて、彼が泣き止むのをただ待っていた。 こんなに泣いて…もうせぬ方がよいだろうか。 あら… うまくいったと…思ったんですけど…
|