BUG & BOM ! バカにつける薬と恋のPit-a-Pat Peep-Show 17 暫しトリップした俊宏の意識が戻っても、その現状はちっとも改善されていなかった。 博雅は赤い顔のまま彼の袂を引っつかみ、なんとか答えを得ようと必死になっているらしい。目尻には涙が滲んでいる。 嗜みとかそういうこと以前に、博雅という男は閨の話を恥ずかしがった。 話す方も必死である。大体、貴族などと言ってもそちら方面の話にはひどく敏感でまた品がないほど夢中になるのが普通だ。放っておいても誰かしらからの話として伝え聞くし、性教育などというのは屋敷の奥深くに暮らす姫君が、いかに夫を長く通わせるかという戦略の一つとして行われていたものであって、本来通う側の博雅には取り立てて必要のないものであったはずだ。 しかし八重は心配だった。元服するその夜に、こそっと尋ねてみたところ博雅の反応は案の定壊滅的状態を示していた。 "おややはいずこより参られましょうか" その問い掛けに博雅は答えた。 "知っておるぞ。明け六つに東の空に向け三度手を叩き、おややを下さいと八百の神にお願いするとその宵に珠のようなおややが届けられるのだ" 犯人は貫之だ。 子供の疑問として彼が尋ねてきたとき、妙に気恥ずかしい思いでそう答えていたのだ。 家令頭はその後散々に叱られたが、では誰が教えるかとなるとみな尻込みをし顔色を窺うばかりだった。 仕方なしに教育係を引き受けた八重も、まさかあからさまに話すのも恥ずかしく適当に誤魔化してしまったのだ。 結果、博雅は殿上人として内裏へ参内するようになり、宿直の役を仰せつかった初めての夜にそれらの実態を理解した。 その時のことは俊宏も覚えている。母とともに仕えている屋敷の年若い主である博雅が泣きながら牛車を降りてきた。清子に支えられ訳を正されると彼はおいおい泣きながら告白したのだ。 白塗りのお顔を舐めるのは嫌だ。 宮中の夜は下世話な話で溢れている。 その後どれほど、顔など舐めなくてもいいのだと教えたところで頑として頷かなくなってしまった。よほど堪えたらしい。 あの時の博雅を知っているだけに俊宏としても"お上手ですよ"などとは口が裂けても言えるはずもない。あれから彼が知り得る限り博雅がどこかへ通ったという事実もないのだから、当然"房事"の知識も実践されぬ下世話なものばかりであったと思われる。 その博雅の口から"房事がままならぬ男か"と尋ねられたのだ。 答えられるはずもない。 「お前を俺の一の家来として尋ねる。恥もかき捨てるゆえ、正直に答えてくれ」 「は、いえそれは、あわわっ」 逃げたい。けれどしっかと掴まれた袂はビクともせず、また泣きべその主を捨てる訳にもいかぬ。 二人のことを認めてしまったのだ。 当然、こういった話も出てくることは承知していた。避けては通れぬ事態なのだ。 だがそれはあくまで"家"というものを鑑みた時のことであって、よもや晴明との房事について尋ねられなにをどう答えればいいというのだ。 混乱と恐慌の中、俊宏は必死に呼吸を整えるため大きく息を吸いそれを静かに吐き出した。 「殿、博雅様、まずはお席にお戻りください」 「嫌だ。皆に聞かれては困る」 「しかしこのままというのも…」 ぴったり引っ付かれては話も出来ない。人払いはしてあるからと無理やり戻し、脇息をあてがうと先ほどよりは大分近くに座して安心するよう頷いてみせる。 博雅という主人に仕える上での心構えは、あくまで自分が大人になる、これのみである。 実際俊宏は彼より四つ年下だが、心は常に父の如く構えていなければならない。 さあ、もうなにがきても大丈夫だ!というところで、俊宏は哀れにも首を竦めてじっと見詰めてくる博雅を促した。 「私も心を決めました。殿が晴明殿とともにおられると決められたなら、同じ道を歩んで参ります」 「そうか。お前もついに分かってくれたか。人はみななぜか晴明を厭うが、あの漢の素晴らしさは深く知らねば得ることは出来ない。時には意地の悪いことも言うが、必ず俺を守り、導いてもくれるよい漢なのだよ。決して手放せぬ奴なのだ」 「博雅様がそこまで仰せになるのでしたら、俊宏とて疑うことはいたしません」 「そうか。なんだ、突然物分りがようなったな」 それもこれも晴明の"口八丁手八丁"の成せる技だ。彼の舌は二枚が更に八枚ずつくらいに割れている。………気持ち悪っ! 「殿の御為とこのお話も承りますが、その…なぜにその…房事がどうのというお話になられたのですか」 「うむ。お前には隠し立てせず話してしまうがな、俺は生まれてこの方どなたかを閨に訪ねたことなどないのだよ」 「………存じておりますよ。ええそりゃもう虚しいほどに存じております」 「その訪ねたことがないことが、ここにきて災いしたようなのだ」 「と、申されますと?」 「先ほどな、車の中でな、晴明がな…」 モジモジと恥らっている。 見目麗しい姫君であればなんとも可愛らしい光景だろうが、頬を染め畳に"のの字"を書いているのは博雅だ。なんだか哀しい気分になってくる。 「晴明が、その…唇をこう、んっ、と…な…向けてきたのよ」 「はあ」 想像したくない。ないがしてしまう自分の頭を思い切り殴りつけたい俊宏は代わりに自らの膝を指で抓りそのモヤモヤとした気分を誤魔化した。 「俺と晴明は、まあ…あれだ。そのようなことになっておるゆえ、今更照れることもないのだが、それでもやはり外にはお前たちもおったし軽々しくは運べぬであろう」 「…………はあ」 想像したくない。ないのにっ! ドキマギと顔を赤らめた博雅を思い浮かべてしまった俊宏は少し涙も浮かんでしまう。 彼は言った。『今更照れることでもない』と。 その言葉に含まれた意味はつまり"今更キスくらいでどーってことないけどさー"ということに他ならない。つまりキス以上のことにすら慣れている、と言ったも同然だ。 そのようなことになっている…その言葉に囚われた俊宏は、それでも幸せだという博雅のため涙だけは零すまいと必死に目を見開いて耐えていた。 「それでな、俺としては昼の光の中でそのようなことは恥ずかしいと思うのだが、晴明はそうではないらしくその時もこう、赤い唇をんっとしてな」 「それでっ」 「うむ。それで俺も晴明のことは好いておるからまあよいかと思い…よいかと…思い…」 上目遣いでチロチロ見る。じれったい、覚悟を決めたんだから早く言えっ!と思っている俊宏に、急に唇を尖らせた博雅はぷいと横を向く。 「いかがなさいました」 「俊宏、俺とて恥ずかしいと思うておるのだ。お前も随身なら随身らしく気を利かせ俺の言わんとすることくらい察してみてはどうだ」 「殿は、晴明殿にご自身の唇をお与えになられたのですねっ」 「ばっ、バカモノ!恥ずかしいことを大声で言うなっ」 言えっていったのはお前だ! 沸々と湧き上がる怒りを拳にのみ集中し、俊宏は懸命に堪えた。なんのこれしき、この後この二人に従うならばこの程度のことなど序の口に過ぎない。そんな気がする。 詰めていた息をふーっと吐き出し、冷静さを取り戻すため一から十までを数える。ゆっくりとそれを終えると、彼は再度落ち着いた面持ちで博雅を見据えた。 「それで、殿からそうなされた。それからどうなさったのです。あの時は急に晴明殿が泣かれたので気にはなっておりましたが」 「うむ、それがな、俺は何もしておらぬのだ。すこうしばかり唇を合わせたら、奴めいきなり泣き出したのだよ」 大方感動したんだろう。この初心な博雅からの口付けだ、まして家人とはいえ味方を得て晴れてともに添うことを勝ち取ったのだからその喜びは大きいだろう。 儚くなろうと、そう決意した心意気は俊宏としても大いに称えたいところであった。だから博雅が思うようなことではないと…思うのだが… ちら、と視線を上げると博雅はまた泣きそうな顔で唇を噛んでいる。 「殿、晴明殿は"博雅様"というそのものを求めてらっしゃるのだと思いますよ」 「どういうことだ?」 「ですから、殿の仰せになる房事云々などは関わりなく、ただただ殿のお側におられることを喜ばれたのではないでしょうか」 「しかしあれほど泣くのだぞ。俺の、その、そういったことがヘタだからではないのか?」 「そう言われたことがおありですか」 「いや、ない」 あるもんか。チューの二回で"お前はヘタだ!"と言われることもそうないだろう。職業にしているならともかく、純粋培養、天下無敵の恋愛経験ゼロ男相手にそこを嫌うなら付き合うことなど出来ようはずもない。 しかしまた俊宏は違う方へ意識をやった。 だって俊くん、よもやこの話の流れから"二人はチューのみの関係"だなんて思ってないもん!もっとすごいことしちゃってると思ってるんだからっ! 「晴明殿であらば、殿がいかようなご様子であられてもそのお心に変わりはないと思われますが…」 「だが気前のいいほど盛大に泣くのだ、何も思わぬということはあるまい」 「それはまあ、そうかも知れませんが」 「あれで晴明は俺と出会うまでは浮名を流しておる洒落者よ。その晴明が俺とこうしておるのだ、なにやら不満に思うたとて不思議はあるまい」 「仮にそうだとしても、殿に不満を抱かれるなら止めればいいのです」 「俊宏…」 しゅん、としてしまった博雅に、心底仕方ないという顔で口を開く。 「晴明殿のお気持ちはこの俊宏とて理解しております。ですがまこと、そのようなことで博雅様を嘆かれたとは思えませぬが」 「しかし、しかしな俊宏、俺はそういったことには不慣れなのだ。なにか無礼を働いたのかもしれん」 「それは確かに懸念ばかりとは申せませぬが…」 博雅に性的魅力を感じたことなどないので分からないが、少しシミュレーションしてみただけでも分かることはある。 マグロのように寝ている博雅相手に、あの陰陽師が満足するだろうか。 「ありえない…」 「うん?なんだ俊宏、思うことはみな言うてくれ」 またそんな子供みたいな目をして。クリクリと丸い目で見詰められ、俊宏は本気で困る。なんと言えばいいのか、納得するように話して聞かせるにはあまりに恥ずかしく情けない話だ。どこの世界に自分の主を男色の道に勧めあまつさえ極めさせようなどという家臣がいるのか。 「俊宏、俺は晴明と酒を飲むあの場所を失いたくはないのだよ」 じっ、と見詰められ俊宏は腹を括った。 「分かりました。それではその辺のことは、私と晴明殿にてお話しておきましょう」 博雅に教えようにも俊宏とて経験がないのだ。自分が妻を抱くようなことでいいのか推測も出来ず、しかもそれが晴明の好みに合うかといわれればまるで分からない。 それならいっそ、本人の望むところを聞き出しそれを博雅に当てはめた方が早いではないか。勿論それを実践するのは晴明だ、俊宏はただ、こうして悩んでいる博雅の意を伝え今後の物事を運び易くするための手助けをするだけのことなのだ。 ああ、なんでこんなことに… 俊宏の受難は続く。
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