BUG & BOM !  憂いのCHAMPION Hop Step Paradise  5

 

 

 

 

 

 

 「ああっ晴明、向こうにも!」

 「なに!ああああ、これはまた気前よくやってくれたな」

思わず几帳の影からフラフラと出てしまった蜜虫の前には、彼女の主とその妻が賑やかに騒いでいる場面が広がっている。

博雅の手には先日縁の下で生まれた子犬が抱えられ、その足元にも二匹の子犬を従えている。一方晴明の方は、孫廂の板の上を小さな尻尾を振りたて歩く子犬の後を追っていた。

手には懐紙を握っていて、花の形のように濡れたところを拭っている。

 「お前が悪いのだぞ。子犬の下の世話は母親がするものだ。それをみだりに刺激したりするから」

 「しかし博雅、狗のふぐりの愛らしきことといったらないではないか」

 「そうか?俺はどちらかと言えば猫の方がふうわりしていて可愛らしいと…いや、どちらにせよふぐりはふぐり、触るものではない」

 「お前が触らせてくれぬから」

 「なにか申したか?」

手にした子犬を足元に戻す。縁の下から這い出た母犬が三匹の我が子を確かめるように匂いを嗅いでいるので、ふらふらと廂を彷徨っている子犬もその中に加えてやった。

 「しかし困った、雨や泥なら俊宏も諦めようが、よもや狗の小便を浴びせられた衣を始末せよとは言えぬな」

 「案ずるなと申したろう。いま蜜虫を呼ぶから、お前は俺の衣でも着ておけよ」

 「すまない」

ポン、と晴明が手を打ち鳴らしたことで漸く我に返った蜜虫は慌てて几帳の影に薬草を放ると手をついて"これに"と答える。

 「博雅に替えの衣を支度してくれ。狗の小便だ、汚いことはないが臭うては困る。清め、なにかよい香なども焚き染めておくように」

 「かしこまりました」

何事もなかったのように下がる蜜虫だが、手には素早く抱え直した薬草がある。

腑に落ちぬものを感じながらとぼとぼと歩きつつ考え、晴明の身の回りのものを収めた一室に来ると傾げていた首が元に戻り表情も常の彼女のものへと戻った。

つまり、薄く微笑んだ穏やかなものである。

 「お二人は…狗と戯れておいででしたのね」

つまりこうだ。

母屋に来たところで、先ごろ生まれた狗の子たちが歩き始めたのかチョロチョロ庭に出ていた。それを見つけた博雅が大喜びで近付くと、その中の一匹を抱きあげる。しかし彼は大雑把で、少しがさつなところもある。目が開いて間もなくの子犬を強く抱き締め晴明に窘められた。だが子犬を抱えた博雅の様子に、自分たちの子供を重ねた晴明はすっかり"パパ"の気分で彼の抱える子犬にちょっかいを出し、ついでに"触りたいなー"という願望も込め子犬のふぐりを突っついた。まだ自らはうまく排泄できない彼らは母親から与えられる刺激で生理現象をもよおすのだ、結果、博雅が抱えたままの状態で気持ちよくショワワァと、そのような事態を辿っていた。

納得した蜜虫は薬草を脇へ置くと、晴明の衣一式を取り出し櫃に納め寝殿へと戻っていく。母親の胸で乳を飲む子犬を幸せそうに眺める博雅を嬉しげに見る晴明、という、彼女にとっては非常にガックリする光景を認めながら更衣の為に安倍家の妻を呼ばわった。

 

白い狩衣を着せつけると、博雅は大はしゃぎで晴明の元へと駆け戻る。お揃いだ、と彼が言えば、対する晴明は目尻を下げて頷いた。実に微笑ましくまた幸せの一ページといった心和むシーンであったが、犬の小便に濡れた衣を抱える蜜虫はどうにも納得がいかずまたにわかに腹立たしくもなってきた。

欲しい欲しいと喚いては、もう半月も彼女や俊宏を困らせているのは晴明だ。博雅の気持ちが確かに"好き"だというものであるのは分かっているのだから、多少強引にでも我が物としてしまえばよい。いつものように。

それをしないのは彼が心から博雅を思っているからだということも分かっている。分かってはいるがあの純真無垢な彼が自らその気になるのを待っていては、先に寿命が来てしまうかも知れない。冗談抜きに。

博雅であれば、初めは拒み泣きもしよう。けれど続けていればそのうち納得し…いや納得しないまでも"まあよいか"といつも通りの自己完結をするに違いない。なにせ悩みの続かない漢だ、案ずるより生むが易し。いっそ大勝負に出てみればいい。

こうして塗り籠があるのに。

いつでも支度は整っているのに。

ツーンと鼻を刺す臭いに眉を寄せながら蜜虫は本格的に腹立たしくなってきた。

 「殿、酒などの支度を致しましょうか」

 「おお、そうしてくれ」

 「見よ晴明、眠ってしまうぞ。だが口はまだ乳を含んで…おおなんと愛らしい、口はもぐもぐ動いておる」

 「がばいいなぁぁぁぁ」

自分の口もモグモグさせながら小声で囁く博雅に、完全に下がった目尻と伸びきった鼻の下で答える晴明。

蜜虫のデコに浮かんだ怒りマークがピッという音とともに切れた。

仕草だけは静やかに退出していく蜜虫が、心に決めたことを晴明が知ればさすがに止めに入ったろう。こと博雅に関してとことん甘い晴明は、どれほどの欲望に身を焼かれようと彼を傷付けることだけは出来ないのだ。それなら。

 「おやさしい殿の為、ここは私が鬼となって…」

いやほら、蜜虫さん。

存在自体は違うといっても、あなた一応"神"ってついてる訳だし。

ちょっと、落ち着いてほしい…なー、なんて…

 

 

 

その直後、地の底から響く"ひひひひひぃぃぃ"という笑いは、悲しいかな博雅に夢中の晴明の耳には入らなかった。ちなみにその笑いが水木しげる漫画に多用されるタイプの文字だったのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 「蟷螂、蟷螂よ、これへ」

 「はい」

 「お前、殿のお側にて…いえ、やめておきましょう。けれど困ったわ、百足ではまたいつ這い回るか知れぬし…」

酒の支度は整えた。

平安時代の酒は、今の日本酒のイメージである"無色透明"一本槍なものとは違い十数種類が作られていた。製造過程で様々な工夫を凝らすのだが、中でも変わっているのは"黒い酒"であろう。灰を混入するのだ。炊飯器に炭を入れて炊くこともあるが、灰入りの酒を飲んだ後は口が黒くなるのだろうか…酒好きであれば一度は体験してみたいそれが、今日蜜虫が用意した酒であった。

透明でも、白酒でもいけない。本当は甘いもので味覚を狂わせたかったが、残念ながら博雅がそれを好まない。かといって辛いものでは今度は晴明が喜ばない。

出てくる酒を拒みはしない二人であったが、一応それなりの好みがあるのだ。

そしてこの計画を遂行するためにも今宵の酒は黒酒(くろき)でなくてはならないので、彼女は丁寧にそれを燗にし、見栄えのよい肴も用意した。

更に本日のメイン。蜜虫が選び出した薬草の数々は既に形を変え…つまり、酒や肴に混入され出番を待ちかねている。そう、黒酒でなくてはならなかった理由はズバリ"少しくらい色が変わっても分からない"からである。

因みに他の酒は所望されてもすぐには支度出来ないという弁解の為に、屋敷にある酒という酒は全て蜜虫の腹に収まっている。恐ろしい酒豪だ。

さて彼女の計画とはこうである。

博雅は蜜虫の酌を受け、ほろほろと酒を飲む。勧められ肴を口に運ぶ。晴明との会話も弾み、自然飲み進むのも早くなり、飲めば飲むほど"水"のようになっていくであろう。酒には強い博雅も、度を越せば当然正体をなくす。そして更にその酒に仕込まれた薬の作用が、彼を大胆に解放していくに違いない。

晴明より酔いつぶれるのは早い彼だが、それでもそんなことを待っていては一番鶏が鳴いてしまう。だから卑怯であるのは承知の上で、蜜虫はこの計画を推し進めることにしたのだ。

さてここで問題なのは晴明への酌である。

蜜虫としてはマンツーマンで博雅を酔わせることに専念したい。なにより薬入りの瓶子を分けたのだから、それを違えては元も子もない。晴明だけが益々その気になったのでは、博雅の怯えが強まるという本末転倒な結果を迎えてしまうことになる。

だが蟷螂ではいつ鎌を振りたて瓶子を叩き割るか知れないし、百足では這い回り博雅を怯えさせるだろう。ああ本当に、最近の殿はどうしてあのようにクセのあるものを用いられるのかしら、と、人のことは決して言えない蜜虫が溜息をつく。

「いっそ俊宏様をお連れすればよかったかしら」

「なにをぶつぶつ仰っているの?」

声に振り向くとそこに立っているのは常葉であった。牛車の始末が終わったところなのか、たすき掛けの袖を整えている。

 「まあ、まだ戻っていなかったの」

 「それが殿から何の沙汰もないものだから。近頃は前にも増して参代なされなくなったでしょう、陰陽寮よりの御使者が出仕を急かされるもので私の使いも多くなっているの」

 「そう。そうでしたわね」

キラリ、と蜜虫の目が光る。

 「蜜虫、あなたなにやら企んでおられるの?」

 「ええ。殿の御為にならんと、今の私は鬼と変じておりますのよ」

 「殿の御為?それでは私もお力添えを」

 「ありがとう。やはりこの屋にはあなたが必要だわ、常葉」

 「なにを仰るの。あなたこそ殿の随身として尤も相応しい方よ」

ニッコリ

 「それでなにをなさると?」

 「私、今宵こそは殿に本懐を遂げていただくことに致しましたの」

 「本懐?それでは博雅様に…」

 「妻となっていただきますわ」

 「素敵。ついに殿も一花咲かせられるのね」

 「ええその通りよ。そのためにも私たちが力を合わせ、今宵、母屋の塗り籠を極楽浄土にさせ申し上げるのです」

ウットリ

 「ああ、頬を染めた博雅様に、殿の優美な指先が触れられ…」

 「常葉、はしたないことを」

 「まあ蜜虫、あなたこそ…」

お互い、悪よのぉ。

 

 

式二人が笑うその声は、やはり晴明の耳には届いていなかった。彼は眠っている子犬をいつまでも見続けている博雅を穴の開くほどに見詰めていたからだ。健気と言えば健気だが、

やはり鬱陶しいことこの上ない。

 

 

 

衣擦れの音が、安倍邸の寝殿に響く。




                                      続く →