BUG & BOM ! 憂いのCHAMPION Hop Step Paradise 8
「晴明!どこにおるのだ晴明、意地悪しないで出てきてくれ、晴明!」 叫びながら走っていく。 着崩れた単に裸足のまま、しかも烏帽子も被らぬ姿という博雅は泣きながら朱雀大路を駆け抜けていた。こんなところを誰かに見られようものなら忽ち気触れと噂を立てられ、殿上人としての信頼もなにも全て崩れてしまうだろう。 この時代、不測の事態で落としただけであろうと烏帽子を被らぬ姿を見られれば降格されることも当たり前だったのだから、今の博雅などいくらその身分が高いとはいえ一溜まりもないのは確かだった。 そう言えば漫画版岡野晴明は烏帽子なしで内裏を歩いていたから、あれはとんでもないことだと言えるわけだ。そこまでに到達してしまった晴明の運命やいかに。…十一巻が発売されるまで大人しく待っている身は辛い。 いやいまはともかく"うちの"博雅のことなので話を戻そう。 博雅は走っていた。 とにかく滅茶苦茶に走っていた。 晴明がいないことが不安でいても立ってもいられず塗り籠を出た彼は、そのまま屋敷を飛び出し無我夢中で走り出してしまったのだった。屋敷にいる彼を外で見つけられるはずもないのに、とにかく泣きながら走る彼には正常な思考能力が欠落した状態なのでどうにもならない。ただただ恋しい晴明を求めその名を呼び続けているのである。 ん?恋しい? 多少進展してるじゃないか。 じゃなくて。 「どこにいるのだ…どこにいるのだ晴明、俺を残してどこに…どこに行ってしまったのだ、晴明…」 ポロポロと涙を零した博雅は、羅生門を背に真っ直ぐ朱雀門目掛けて走っている。 朱雀門…それを超えれば大内裏へ突入することになる。そりゃ夜間だし門は閉ざされているがまずいことに変わりはない。門前には警護のものがいるし、このままでは叩き切られても文句は言えないだろう。なにせ鬼か魔物かという有様なのだ、どう考えても不利である。 しかしどうして晴明邸を出発して、この向きを爆走してるのか不思議で仕方ない。迷子が思いも寄らぬ方角で発見されるようなものなのだろうがそれにしても器用だ。 と、感心している場合ではない。これは本当にまずい、洒落にならない。 一刻も早く式たちに見つけて欲しいところだが、このジェットコースターストーリーがそう簡単に片付くはずがないのは皆さんもうお気付きだろう。 そんな訳で前方から一台の牛車がやってくるのが見える。網代車だ。その車は正面の朱雀門から出て来た訳ではない。美福門方向からきたものが朱雀大路を下ってくるところである。条坊図が頭に入っていない方は、羅生門を背中、正面を大内裏として右側から曲がってきたと思っていただければいいだろう。その方角からすると土御門方面からきたことも考えられるから晴明の手によるものか?という期待も込められるがそうはいかない。この車はその手前、陽明門から忍び出たものであったのだ。 忍び出た。 今の刻限は亥の刻を僅かに過ぎたというところである。大体二十二時を回ったあたりだが、これは電気のない平安時代で考えれば真夜中と言ってもいいような時間だ。これから出掛けるとなれば随分遅い道行きである。 こういう車は大抵、身分あるものの夜這か物の怪のものと相場は決まっている。しかし都の怨霊を一手に引き受けたような大内裏から出てきたとあっては、これは妖しの仕業ではなく"夜這"の方が当てはまるだろう。果たしてその車には、六人もの従者が付き従いみなこざっぱりと身奇麗ななりをしている上に騎乗した侍も含まれているのだからドンピシャというところだ。…ドンピシャ…誰が考えたのかよく考えると変な言葉である。 さて、その牛車を認めた博雅はやってきた方角から考え晴明のものかと思った。思いはしたが彼の乗る車に従者など付いたためしがないことも思い出していた。錯乱している割には冷静と言えるが、走る足取りに変わりがなかったことでやはり"運の尽き"は彼の頭上に燦然と輝いているだろう。 「晴明ではないのか…では晴明は…どこに…」 悲しくて悲しくて、博雅は大きな目からはらはらと涙を零しながら疾走している。前方の牛車はその異様な光景に気付いたのか、車軸の軋む跡もピタリと止んでその"妖し"の動向を探っているようにもみえた。 さて、確かに混乱しているが"鬼の道行き"ではなく博雅なので、なにも成平の牛車のように弾き飛ばすこともなく避けて走ることにした。目的は晴明ただ一人なのだ、こんな牛車に用はない。 が。 「止まれっ」 抜刀した侍が博雅に誰何する。そりゃ当たり前だ、返答次第では即刻叩き切られるぞ。 「止まらぬか」 「止まるのはよいが、この車は晴明のものではないだろう」 「せいめいぃ?」 いかつい顔の侍は走ることをやめない博雅の正面へと駆け付けた。松明を持った従者が震えながら従ったため、彼の顔も博雅の顔もそこでどうにか見極められることとなった。 「ひっ博雅様!」 「おお、紀平」 刀を構えたままの侍は右兵衛に勤める部下であり、博雅にとっては笛吹き仲間でもあった。 「なんと、なんとなされました」 「晴明がおらぬのだ。お主、晴明の行方を知らぬか」 「晴明と申されますと、陰陽師の安倍殿のことにございますか」 「そうだ。先ほどまでおったのに、突然消えてしもうたのだ」 突然消えたのはお前だ!晴明が聞いていたら間違いなくそう叫んだだろう。 「私は存じ上げませぬが…おお、博雅様それどころではござりませぬ。その出で立ち、よからぬものに見つかればあらぬ噂を立てられまするぞ」 「しかし俺は…晴明が…」 ベソベソと泣き咽ぶ博雅はその場で足踏みをしている。何かきっかけがあればまた走り出す勢いに紀平は困り果てた。 実は、彼の後ろに控える牛車にはとんでもない人物が乗っている。どれくらいとんでもないかと言うと… 「これ、先ほどより博雅という名が聞こえているようですが」 静かな声が響く。深い、優しげな声音に博雅の眉が下がった。 「そこに博雅がいるのですか」 「主上っ!」 あーあ 「蜜虫、あれを」 「博雅様っ!」 常葉が示す方向に確かに博雅の姿を認めた蜜虫が飛んでいこうとする。だが、その手を捕らえ止めたのもやはり常葉であった。 「御覧なさい。なにやらあの牛車に乗り込むご様子」 「まあ、殿というお方がありながらなんとふしだらな」 この期に及んで"殿一番"の姿勢は誉めるべきか呆れるべきか。 「いま、私たちが出て行けばこの身の説明もままなりませぬ。どうやらあの車のものに博雅様を害そうという気配はないようですから、ここは暫し様子を見ましょう」 「しかし常葉、博雅様はハシリドコロを」 「お命の危機であらば、あれほど走ることは出来ぬでしょう」 お説ご尤も。 「あの車がどこへ行くかを見届けて、それから殿にご報告申し上げることにしては?」 「そうね。そう致しましょう」 会話は冷静だがその表情もまた冷静だ。状況で考えれば大慌てで化粧崩れも甚だしいところだがさすがは式。二人は無表情のままこのやり取りをしていたのだからやはり気味が悪い。 いや、いまはそんなことを言っている場合ではない。 いままさに博雅が乗り込まんとしている牛車の中にいる人物。それは彼が叫んだ通り、都で一番、いや、国で一番偉い人。博雅にとっては八つも年下の叔父。 今上、村上天皇に他ならない。 やだよーもー。 村上天皇は昨年即位したばかりの新米くんだ。 後に"一苦しいニ"と言われる、雅なことにはその才を遺憾なく発揮したが政治的なことはみな右大臣藤原師輔に握られた結構カワイソウな人である。 その可哀想な人には可哀想な趣味があった。琵琶である。 彼は醍醐天皇より譲り受けた琵琶の玄象をこよなく愛する、言わば博雅と同属の人間だ。政に口出しできない分、撥を裁く手に力をこめ日夜新曲と子作りに励むだけの最早侘び寂びの世界に住んでいる人なのだ。 その侘び寂びがこんな夜中にどこへ行くのか。 同じ疑問を感じた博雅が口を開きそうなので聞いてみよう。 「主上は何処へ参られますのか」 「今更隠し立てしても仕方ありませんね。これより鴨川へ参るところでした」 「鴨川?そこに晴明がおりますか」 「晴明?安倍晴明が鴨川にいるのですか」 「分かりませぬ。私には分からぬのです。晴明がどこにいるのか、皆目見当もつかぬのですっ」 わっと泣き伏せた博雅に村上天皇−成明は困り果てたように首を傾げた。 いくら博雅が醍醐天皇の孫であってもいまはしがない"博雅"だ。従四位の彼がこれほど端かに、同じ牛車の中に乗り込むのは無茶以外のなにものでもない。しかしあの姿で取り乱すところを目の当たりにした成明に彼をそのまま捨て置くことなどできようはずもなく、優しい声で名を呼びかけ紀平の助けを借り車の中へと誘ったのだ。 いま、牛車は鴨川を目指し進んでいる。 「屋敷にはおらぬのですか」 「はい」 「暫く陰陽寮にも顔を見せぬと陰陽頭が嘆いていましたが…どこかの寺にでも詣でているか、それとも山中に篭りでもしたのか」 泣きべそ博雅の頬に指を伸ばしその涙を拭ってやる。 成明は、とにかく博雅が可愛くて仕方なかった。彼が年上である事実は確かなのだが、その純真無垢な心根は宮中に渦巻く陰謀、策謀の類からは大きく離れ、純粋に楽を楽しむことのみに明け暮れる彼に限りない安堵と信頼を寄せていたのだ。 さて、成明の容貌を想像するにドジョウヒゲのようなものが生えたおっさんが一般的だとは思う。けれどここではまだ二十二になったばかりの青年なので、ちょっと注釈をつけておきたい。 背は博雅よりいくらか低い程度。ただし骨格は彼より華奢である。顔色は当然日に焼けない分白く不健康に見えるがこれといった病を患ったことはない。先に述べた通り琵琶を好み、博雅の吹く笛もこよなく愛している楽人で、自分の"お飾り的状況"をよく理解した物静かで本当は頭のいい青年でもある。 顔つきはやや丸みを帯びた柔らかなもので、二重の瞼が笑うとよりくっきり見える、女たちが放ってはおかない愛らしい表情を見せる"好物件"だった。 二人は公務のない時に、暫し人払いをした清涼殿の一室で互いの手を誉めあう中である。 "手"とは即ち指の生えたそれではなくて、笛や琵琶を操るその技術のことだ。 晴明が聞けば"そんなの知らないぞ!"と怒りで体が一回り大きくなりそうだが、宮中では肩身の狭い"二重苦、三重苦"の二人としては、とても大切な欠かせぬ時間であったのだから可哀想だと思って多目に見てやっていただきたい。 さて、その目の中に入れても多分痛くはないがまず入りはしない博雅が泣いている。しかも裸足で単に烏帽子もないという、常軌を逸した姿なのだ。成明が案じないはずはない。 「博雅は晴明との親交篤いとは聞き及んでいましたが…なにがありました」 「今宵は…今宵は晴明の屋敷にて酒などいただいておりました」 自分の肩に掛けていた単を博雅の体に掛けてやる。なんだかいい雰囲気に見えるが鼻たれ博雅では絵にならないことこの上ない。 「姫の元へ参ったのですね」 「いいえ。晴明と過ごしておりました」 「晴明と?」 あら。 あらららら。 ちょっと博雅さん?やばいんじゃないの? 「確か安倍邸にてお住まいなのでしたね?博雅の奥方は」 「いえ、妻はこの博雅だと申すのです。晴明も、俊宏も、みな…みな私を妻だと…」 ちょっとちょっと! 「それでもよい…もうそれでもよいのに…晴明がおらぬのです。捨てられたのです、私は。あれに捨てられたのです、おかみぃぃぃぃぃっ」 あーあ、言っちゃった。 しーらないっと。
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