BUG & BOM ! 憂いのCHAMPION Hop Step Paradise 9 鴨川に向かう牛車の中で、いまをときめく天皇、成明はこれ以上ないほど首を傾げていた。彼の腕にはすがり付いて泣く博雅が抱えられている。 「泣かずに訳を話してみなさい」 そう言って背を撫でてやるより他にない。彼には博雅が叫んだことの意味がなに一つ分からないのだ。 成明はつい先ごろ、師輔より自分に縁ある姫を博雅の妻として差し上げたと報告を受けていた。本人から打ち明けられなかった事実に実はちょっぴり傷付いてもいたが、師輔から聞かされることが順序としては正しいし波風も立たぬことから素直にそれに祝いの言葉などを送っておいた。 聞けば気の毒な姫である。幼い頃より鬼を見ては、何かと恨まれることの多い師輔の側にいることは辛いだろう。だから"師輔縁"ではなくとも、かの姫君のことは表立って噂せぬよう、それとなく計らってやっている成明だ。 さて、その姫と博雅の仲睦まじい様子は彼の耳にも届いている。なんでも毎日必ず晴明邸にて夜を過ごしているとか、後宮に出向くことが仕事である成明からすれば羨ましいほどの夫婦の姿といえよう。晴明もそこのところは分かっているのか、自宅で新婚生活を送られているというのに親しい友人のため心を砕いているらしい。身分を越え人と接することの出来る博雅とともに、彼らに対する認識はよりよいものとなっていた。 ここまでの話に不審な点はない。いや、いくら見鬼といえど他人であり、まして下位である晴明の元に預けおくのはいささかか乱暴な気はしたがそれを口に出す成明ではないのでそこもクリアしておこう。 ともかく博雅が妻を迎えたことに対し驚く者は多々いたが、みな一様に祝福していたのは確かなのだ。ところがここに来ての爆弾発言とも取れる博雅自身の言葉に、成明の眉が寄るのも当然のことといえよう。 きしきしと軋む音を立て進む牛車の中で、成明は泣きべそ博雅の背を優しく擦ってやっていた。…ほんっと、甘え上手。 「今宵は…俊宏に屋敷を追い出され、晴明の元に参ったのです。私は酒が飲みたいだけなのに、またも晴明にしつこく迫られるのかと思うと憂鬱でなりませんでしたが、それでもあれのことは決して嫌いではありませぬので土御門へと参ったのです」 「よく分からぬが…博雅は晴明を好いておるのですね」 「はい。己の心をよく理解していない私が悪いのですが、それでも晴明のことは好きなのです。とても好いておったのです。それに今宵、漸く気付いたというのに…晴明は…」 「…博雅よ、泣かずに話してください。私にはどうも通じてこないのですよ」 頭上に"はてなマーク"を浮かべた成明が噛んで含めるように訴えかける。 一つ補足。帝であれば自分のことは"朕"と述べるべきところであるが、彼は博雅の前ではそうは言わない。彼が奥ゆかしいのか?違う、なんかヘンだから書きたくないだけだ。 脱線終了。 「博雅の妻は師輔の娘御ですね?」 「いいえ」 「…娘ではないとしても、右大臣家に縁のある姫なのでしょう?」 「いいえ。私は妻など迎えてはおりませぬ。私自身が妻なのです」 「…………………はて……」 はて、としか言い様がない。 「主上の申されまするは蜜虫のこと。あれは晴明の式であり、私にとってもよき友でございまする」 「式。式神のことですか」 「はい」 「あなたは式神と婚儀を取り計らったと言うのですか」 「いいえ。ですから、私は結婚などしてはおらぬのです。強いて申し上げるのであれば、晴明の妻となったのです」 べそべそ。 「…なにやら…眩暈が…」 目元を押さえ成明は考える。 博雅は結婚などしていないという。そして妻だと言われる姫は晴明の式であるとも言うのだ。理解の範囲を越えた話に情報処理速度が追いつかない。 「話を、順を追ってして下さい」 再び滲む博雅の目元を拭ってやりながら、成明は今度こそ理解しようと耳をそばだてる。 そして博雅は語り始めた。 「それでは、全てが晴明と、あなたの随身の仕組んだことであると言うのですね」 「はい」 白状しちゃいました。 「つまり、蜜虫は人目を晦ます偽の妻であり、博雅自身が晴明の妻になった、と」 「私はただ、晴明とともに酒など酌み交わす仲を壊されたくはなかったのです。ですがあれは、晴明は、私のことを心より思うておると申しました。妻としたいと、それは熱の篭った目で私を見、そして求めたのでございます」 「どことなく…そのような空気を感じる者ではありましたが…」 いやだせーちゃん、あなた男色家に見られてたらしいよ。 「それで、博雅もそれでよいと、そういうことになったのですね」 「晴明は優しい男です。今宵はこれまでとは違い、それは優しく、私の心をほぐしてくれました。二人で狗と戯れ、それは幸せなひと時を過ごしたのでございます」 間違いではない。 ただ、別に博雅は"オッケー"を出した訳ではない。狗と遊び、気分よく酒を飲むことになったのだ。晴明としても寛いだ博雅を見るのが久しぶりのことだったので、今宵くらいは二人楽しく酒を飲むのも悪くはないと思っただけのことなのだ。 ところがそこに飲まされた正体不明の薬が最早これ以上ないほどに効いてしまった。恐らくハシリドコロの幻覚作用がおかしな具合に働いたのだろう。前後の繋がりを留めたまま、多少の惚れ薬成分も効をそうして"晴明大好き!"という心持を植え付けてしまったに違いない。 理由が分かればなんと言うこともないが、そのような流れを一切知らぬ成明はただただ泣きじゃくる博雅を哀れに思った。 「肩身の狭い思いを強いられていたのですね」 「私は…私は晴明とともにおりたいのです。ただそれだけなのです」 「分かりますよ。あなたは純真な人です」 確かに。バカとも言うが。 「しかしそれほどに思い合うた二人がなぜかようなことに」 「分かりませぬ。晴明は"待っていよ"と申しましたが、待てど暮らせど戻りませぬ」 「それほどに帰らぬとは…よもや心変わり…」 こら待て成明。"今宵"って言っただろう、博雅の"待てど暮らせど"はただか四半刻ほどもなかったんだぞ!因みに一刻は二時間、四半刻だと三十分程度とお考え頂きたい。 「私には、心の内を誰に伝えることも出来ぬ痛みはよく分かります。さぞや辛かったのでしょうね」 「私は…私はこれよりどうすればよいのか…一人でどうすれば…」 「泣かないで下さい。あなたには私がいますよ、博雅」 「おかみぃぃ」 上等な絹の衣に博雅の鼻水が付着する。嫌だ。 泣き咽ぶ博雅の背を擦ってやりながら成明は考えた。晴明とは勿論面識ある彼だがあのいかにも人を食った顔つきは噂通り食えぬ奴だということを知らしめている。しかし都に比類なき才能の持ち主であることも確かなので、帝として晴明を失うこともまた難しい事実ではあった。まして彼のバックに付いているのは師輔だ。迂闊に罷免になどできようはずがない。 しかし。しかしだ。 これほどまでに博雅を悲しませるなら、呼び立てて訳を聞き、如何様にも叱り付けねば気が済まぬではないか。一途に信じ、身を預けようとした博雅を裏切った罪は重い。 彼ほどの身分のものが、夜更けの大路を裸同然の姿で走り抜けたのだ。どれほど強い思いを傾けられているか気付かぬ虚けでもなかろうに。 それとも。成明の眉間に皺が寄る。それともこれが晴明の手なのか。ここまで自分に狂わせておいて、あっさり袖にするのが目的なのか。考えられないことではない、彼の浮名は成明とて重々承知したことなのだ。 皇孫博雅に恥をかかせ、重用する自分を笑いものにしようというのか?よもや師輔が絡んでいるのではあるまいな。疑いだすときりがないが、悪い考えは留まるところを知らぬ。やはり彼も鬱憤は溜まっているのだ、お飾りだって反撃のチャンスは常に窺っているんだコンチクショウ! 「博雅、さあもう泣かずに。私もともに知恵を絞りましょう」 「主上が…私にお力添えを?」 「出来うることはなんなりと申しなさい。さあ、顔を拭いて」 「おがびぃ」 洟垂れ博雅の顔を単で拭いてやる。あーあ、それだって晴明の狩衣なら五着は仕立てられるほどのものなのに。 びーむ、と鼻をかんで若干スッキリした博雅が漸く身を起こし辺りを見回す。 「ここは?」 「鴨川に向かっているのですが…そろそろ到着するでしょう」 成明の言葉通り、牛車は鴨川のほとりに出て停車した。そう言えば鴨川ははじめ賀茂川と言うのが下鴨辺りで高野川と合流しその名を変えるがどうしてだろう。まあいいか。でも"鴨川"って書くとシーワールドみたいなんだよなぁ。それもどうでもいいか。 「なぜ鴨川においでになられたのですか」 「ここで玄象を弾くためです」 「このような刻限にこちらまで?お忍びとは申されましても、供の数も少なくはありませぬか」 「案じてくださるのですね。優しい人よ」 「主上は主上にあらせられまする」 どっちが年上だかわかりゃしない。 ともかく、悲しみに暮れる博雅のため、成明は心をこめて玄象を弾じることにした。美しい楽の音は心を癒す。少しでもこの可愛い人が癒されるように、成明の手は常以上に切なく、愛(かな)しく玄象を鳴り響かせていった。 その頃。 「博雅様は殿をお忘れになられたのかしら」 「よもやそのようなことはありませんでしょう。…と、申したいところではありますが…」 上空に浮遊している蜜虫と常葉はうーんと額に指を当て考えている。眼下には一台の牛車が停まり、中から美しい琵琶の音が辺り一面を潤わせていた。ついでにその音に酔いしれ、感極まった博雅が盛大に鼻を啜り上げる音も混じっているが彼女らはそれを無意識に聞かぬことにしていた。だってせっかくの音が台無しだからね。 「あのように一つの車に仲睦まじく…」 「蜜虫、ともにおられるは帝にあらせられますよ。はしたなき考えは捨てませぬと」 「ええ、ええそれは承知いたしております。ですが…ですが私、口惜しくて」 「それは私も感ずるところですわ」 頷きあう二人の女。琵琶はまだ哀切の曲を奏でている。 「ここは一つ、殿のお出ましを願いましょうか」 「そうですわね。博雅様のまことの伴侶は誰であるかをご理解いただかねばなりませんわ。常葉、殿をお連れ申上げて」 「承知いたしました」 ふわり、と女が一人消える。後に残った蜜虫は、藤色の重ねを風に靡かせ悲しく牛車を見下ろしている。 「殿のご寵愛を一身に浴びる御身でありながら…博雅様、この蜜虫、博雅様をいまこそお恨み申上げまする」 無表情で呟かれると本当に怖い。祟り殺されそうな勢いだが彼女は本当に悲しんでいるのだ。でもね。 この騒動の全てはアナタが仕組んだことを発端としてるんだってこと。 すっかりサッパリ忘れちゃってるのも、そりゃどうかと思いますけどねぇ。
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