BUG & BOM !  憂いのCHAMPION Hop Step Paradise  13


 

 

 

 

安倍家の寝殿にありえない人物が座している。

この国で尤も尊く偉い人、今上村上天皇その人だ。

彼はいま、目の前に横たえられた大切な人を見下ろし、ただただ悲しみの涙に暮れその細い肩を震わせていた。

平安時代は男の涙も武器になった。

雅を生きる殿上人は、権力争いや恋の駆け引きに涙を使用することが多々あり、その効果は絶大であったといえる。従四位下の源博雅などは本当にただ泣いていることが多いので論外だが、いまこの時の帝を誰かが見れば間違いなくどんな悪政でも聞き入れてしまったことだろう。

だが、彼が泣いているのは政治的策略でも強情な姫を入内させるためのテクニックでもない。彼に取っては楽を語るのにこれ以上の人物はいないという大切な臣であり、血の繋がりも確かにある甥、博雅の身の上に起きた不運を嘆いてのことだった。蒼褪めたその顔を見下ろし、溢れてくる涙を止めようもなく嗚咽を漏らす様を見て蜜虫は出ない涙も零れるかと思ったほどだ。

蜜虫の隣には常葉が座し、同じように博雅を見ているがこちらはじっと動かず博雅の体の上を這う男の指先を眺めている。その指は単を合わせ終えると薄い袿を被せ愛しげにその胸を撫でていた。

 「どうじゃ」

 「はい。落ち着きましてございまする」

 「そうか。よかった」

溢れる涙もそのままに、眠る博雅を見詰める成明はそっと伸ばした手で博雅の頬を撫でた。晴明の目がギラリと光る。

 「しかしなぜかようなことに。晴明、そなたはなんと惨いことをしたのだ」

 「ですから、私は博雅様を裏切ることなどしておりませぬ。我が祭神、泰山府君にかけ御誓い申し上げまする」

 「では博雅を打ち捨ていずこに姿を隠していたのか。これほどまでに思いを掛けられ、どうして悲しませるようなことが出来るのだ。大路を幽鬼のような有様で走らせ、穢れを知らぬ博雅をそこまで追い詰めるなど…帝としてではなく、人としてそなたを許すことは出来ぬ」

口惜しそうに唇を噛まれたところで晴明に非はないのだが、言い返しようもない。

非はない、と言っても微塵もないかと問われればそうはいかないのだ。事の発端は進展しない主人を思って彼の式が暴走した結果なのだからそれを止められなかった彼には確かに責任があるだろう。だが博雅の脳内で勝手に展開した"晴明に捨てられちゃったの"という本来あり得ない事態は確かに彼の責任範囲を飛び越えているのだ。しかもそんな結論に達していたことを彼は成明の口から初めて聞かされたのだから博雅に取り成しようもない。

 「博雅様が酒に酔われ、ご気分が優れぬと申されますので薬の処方を致しておりました。出来たものを携え戻りましたが、僅か四半刻の間に屋敷を抜け出、かような仕儀と相成りましてございまする」

 「しかし博雅はそなたの足が遠退き始めたと」

 「ありえませぬ。この晴明、たとえ都を捨て去る時が来ようとも博雅様だけは手放すことはありませぬ」

言い切った。しかも帝を前に都なんか二の次!と言ったのだ、普通であればその瞬間に首が飛んでもおかしくはない台詞だ。

 「まことか」

 「はい」

 「博雅を悲しませるようなことはないと言い切るか」

 「はい」

 「二度とかようなことにならぬと、博雅をそなたの妻とし生涯をただ一人の為に捧げると誓うか」

 「誓いまする」

 

…誓われちゃいましたよ、博雅くん。

 

 「では、私はもうなにも言わぬ。博雅がそなたを信ずると言うのであれば、ただ心安くあるように祈るばかり」

 「これは私の理性であり、人であるための全てでございます。なくせばこの晴明、生きていくことなど叶いませぬ」

 「その言葉、忘れぬぞ」

 「はい」

深く、晴明が手をついた。

この瞬間"源博雅と安倍晴明の婚儀"は帝公認となってしまったようである。

勿論極秘中の極秘ではあるけれど。

 

 「目を覚ますまで側についていたいところだがそれも叶わぬ。晴明、博雅のこと、しかと頼みおくぞ」

 「かしこまりましてございまする」

 「博雅が目を覚ましたならば共に参内なさい。宮中でのことなど、出来うることは力添えをいたすゆえ」

 「勿体無きお言葉、晴明、しかと胸に刻みましてございます」

晴明と同様、蜜虫と常葉も頭を下げる。

平伏したままの彼らの前を、成明が静かに去っていく。その気配が遠ざかるまで大人しく伏せていた晴明だが、ひょいと顔を上げた時には般若の如き面相となっていた。

 「ぬぅわぁぁぁにが"人として許すことが出来ぬ"だ、人の妻に気安く触れる間男の分際でっ」

 「殿、お声が大きうございます」

 「ふん。あんなヘナチョコに遅れを取る晴明ではないわ。しかし蜜虫、元はといえばお前が蒔いた種なのだぞ。少しは反省しなさい」

 「申し訳ございませぬ…」

 「大方、妙な処方の所為で思わぬ作用を引き起こしたのであろう。目が覚めれば静まっておるであろうが…かわいそうに、素足で走り回ったものだから、ほれ見よ」

ひょいと捲くった小袖のうちに揃えられた博雅の足の裏は細かい傷で痛んでいる。

 「蜜虫、練薬を…いや、よい。常葉、お前はもう下がりなさい。蜜虫は角盥の支度をし、整えたらもう戻ってもよい。下命あるまで二人は参上せぬように」

 「殿…」

謹慎処分の通告だ。

気の毒だが確かに彼女の招いたこと、全ては忠誠が引き起こしたことだが止むを得まい。しょんぼり下がる蜜虫には可哀想だが、式の束ねとして働く彼女だからこそ仕置きも必要なことなのだ。晴明とて主思いの彼女の気持ちを理解しているだけに辛い措置だが仕方ない。反省した頃にまた呼び寄せてやるからなと、小さくなる背中に無言で語りかけ目を伏せた。

それにしても博雅にも困ったものだ。

今回は不幸中の幸いだったと言えるがそれでもバレたのは帝である。男同士で、皇孫で、貴族の中でも特にその身分の高い天皇のお気に入りが陰陽師如きの妻だなどと知られてしまっては朝廷の威信に関わるし、源家、そして博雅に姫を与えた右大臣家にとっても一大スキャンダルとして失脚の憂き目にあうことは間違いない事態なのだ。

今更なにを言っても遅いし目の覚めた博雅に聞かせたところで覚えているかどうかも怪しい。だから晴明は頭を抱えるのだが一度あることは二度あり、二度あることは三度ある。

さらに"仏の顔も三度"なのだ、このトップシークレットは張本人である博雅から露呈するような気がしてならない。それが危惧で終わればよいが、なにせ純真バカの博雅なのだ、油断はならない。

 「相手があの男となると特に博雅の注意力は散漫になるからな…」

そこがまた気に食わないのだ。

可愛い博雅をカワイイと言っていいのは自分だけだし、懐かれるのも自分ひとりでなければ気がすまないし許せない。先ほども夫の前だというのに眠る博雅の頬を撫でたりして神経を逆撫でしてくれたのだ、宣戦布告と取れないこともない。

いやいまはとにかく博雅が無事取り戻せたことを喜ぶべきなのだろうが、考えれば考えるほど今後のことが気になるばかりだ。本気で座敷牢でも作り閉じ込めたい気分の晴明だった。

 「しかし…一応は殿上人の嗜みもある博雅が、泣きながら夜の大路を素足で疾走するなど…しかも俺の名を呼ばわりながら…」

むふふ。

晴明の口から品のない笑いが漏れる。聞く者がないから構わないが、それにしたって気味が悪いので止めて欲しい。

まあね、気持ちは分かりますよ。だって博雅が"晴明大好き"と言ったも同然な訳だから、浮かれて踊りだしたくなるのも分からないじゃない。

でも。

むひむひと笑っていた晴明の肩がいきなり落ちる。カクン、と落とした両肩が寂しげに揺らぎ、眠る博雅の傍らにパタリと倒れ込んだ。

 「目が覚めれば…覚えておらぬのであろう」


晴明が作った惚れ薬でさえもその効果は保って五日ほどだ。この五日の間にしたい放題しておけば、正気に戻ったあともなんとなくそんな気分が残っているし情も移ってなし崩しにもなる。また飽きればそのままフェードアウトできる道もあると言う、実に都合のいいものだが所詮は薬。人の心を長く操れるほどの効果はないのだ。

博雅の飲んだ滅茶苦茶な薬は、単に錯乱状態を引き起こしただけのことだろう。でなければ"烏帽子男"の博雅が成明の言う通り幽鬼さながらの出で立ちで走り回るはずなどないのだ。まして、自分を"好き"だなどと…"妻になった"などと言うはずがない。分かっている。

 「存外俺は間抜けで惨めな男であったのだな…」

自分で言って自分で落ち込んだ。涙が滲んだがそれだけは零すまいとツーンとする鼻を啜り上げ堪える。…カワイソーなせーちゃん。

 「こうして…側におることは、本来辛いだけのことなのかも知れぬな」

好きなのに、恋としての進展は望めない。好かれているのにそれは果てしない"好意"であって決して晴明の傾ける想いとは重ならぬものなのだ。

幼いと恨めばいいのか。惨いと罵ればいいのか。

清いと言えばそれまでの、白すぎるほどに無垢な博雅に懸想してしまったのだ。初めから分かりきっていたことであったと諦めるよりないことも、彼には承知し尽くされた事実であるのだから遣り切れない。

「離れればよいのか」

呟いてみる。

 「お前など、人の気持ちの分からぬやつよと見限ればよいのか」

横顔を恨めしく睨みつけ、答えのない思い人に問い掛ける。

 「こんないい男を袖にして、源博雅は大馬鹿野郎だって都中に言いふらしてやるんだからなぁぁぁ」

冗談にしようとしても、一度湧き上がった思いは消せなかった。突然出家したくなるやつの気持ちが分かってしまう。人とは脆いものなのだなぁ、と再認識したところで惨めさが増すだけだ。

晴明は、深い深い溜息をついた。

夜はゆっくりと更けていく。




                                      続く →