BUG & BOM !  憂いのCHAMPION Hop Step Paradise  14


 

 

 

 

目が覚めた博雅は、自分がどこにいるのか分からず暫く天井を眺めていた。

 

 「晴明の…屋敷か」

呟いたことでやっと意識がはっきりしてきた。キョロキョロと視線を巡らせ周囲の様子を探ってみる…が、誰もいない。

 「晴明?晴明はおらぬのか」

よっこいしょ、と体を起こすとなぜだかひどく怠く感じられそれ以上動くのが億劫になり、そのまま暫くぼんやりしていた。

簾が下ろされて庭は見えない。明るい日差しが差していることは分かるが温もりも、吹く風も感じることが出来ず疎外感を覚えた。段々と寂しくなってくる。

 「晴明、どこにおる。返事をしてくれ」

声を張り上げ名前を呼んでも、いつもなら飛び出してくる彼の気配は微塵も感じられなかった。博雅の中に言葉に出来ぬ感情が溢れ始めた。

こんな気持ちをつい最近も感じたような気がする。

博雅は晴明の名前を声の限りに呼びながら彼を探していた。呼んでも呼んでも現れぬ彼に焦れ、不安で一杯になり泣いていた気がする。いつのことなのか、本当のことなのかさえも分からないがとにかく晴明の不在はとても悲しいことだということは確かだった。

褥を抜け、廂まで這っていくと簾を捲くり簀子に出る。案の定暖かな陽光が庭全体を明るく照らしていたがそこに目指す人物の姿は見つけられなかった。落胆する気持ちを抱え暫し恨めしくその庭を睨んでいたが、そのうち博雅はハタと気付いた。

 「なんだ、ここは母屋ではないか。いつもの北の対ではないぞ」

それなら晴明がいるのは北の対屋だ。あそこには仕事道具や大切な書物などが置いてある。きっとまた何かの調べものでもしているのだろう、自分は寝坊しすぎただけのことできっと晴明は付き合いきれぬと仕事を始めたに違いない。

柱に寄り掛かりながら重い体を立たせると、どうしてなのか足の裏が痛んだ。見ればそこには細かな傷があり、手当されたあとも残っている。首を傾げ考えたがいつ負ったものなのか一向に思い当たらず、いまは晴明を探しているということを思い返した彼はそのまま北の対に向け歩き始めた。

 

 

 「晴明、おるか」

声を掛けながら室内を覗く。いつも酒を飲む縁に彼の姿はなく、仕方なく覗いた奥の間にも誰の気配も感じなかった。

そこで博雅は漸く気付く。

屋敷全体に人のいる様子が全くない。それは常より感じていることではあったが、それでもここに来れば晴明はいた。少なくとも彼だけはいたのだ。このところは蜜虫や他の式の姿も頻繁に見ていた所為もあり、まるで無人の、静まり返った屋敷は彼を心細くしまた恐ろしくも感じさせた。

 「晴明…頼む晴明、出てきてくれ。意地悪をしないでここに来てくれ。晴明…」

昨夜の記憶は案の定殆ど残ってはいない博雅だが、それでも"晴明の不在"という事態は完全に恐怖心として捉えられるようになってしまった。早くも涙の滲む目で屋敷の中を徘徊する姿は哀れ以外のなにものでもない。

母屋に戻り、孫廂に出たところで博雅は狗の親子が遊んでいる姿を見つけた。そうだ、昨晩はあの狗とともに戯れた。その時には間違いなく晴明の姿もあり、二人睦まじく遊んだ記憶がある。晴明は出かけるなどと言ってはいなかったし、自分に怒っている様子などもなかった。久しぶりに彼と楽しく酒を飲んだことはこれほどハッキリ覚えているのに、ともに過ごした晴明がいない。なにも言わず消えてしまった。

この世に彼という人間などいなかったような気さえしてくる。それほどまでに晴明の存在を感じられる気配と言うものが一切消失しているのだ。

子犬が鼻を鳴らし博雅を見上げる。

涙が、溢れた。

 

 「博雅様」

 「…俊宏」

突然声を掛けられ顔を上げると、俊宏がやって来るところだった。彼はにこやかに微笑んでいたが博雅が泣いていることに気付くとさっと顔色を変え駆けつけてくる。

 「いかが致しました」

 「晴明が…おらぬのだ」

 「安倍殿は吉野へ参られましたが…ご存知なかったのですか」

 「知らぬ」

俊宏の眉が寄る。

 「今朝方屋敷へ参られ、火急のことだが故あって吉野へ行くことになった、博雅様はいまだお休みになられているので程よき頃迎えを出すようにと言伝を受けておりましたが」

 「知らぬ。俺は何も知らぬ。なにも言わずに消えてしまった。いなくなってしまったのだ」

 「消えたわけでもいなくなられた訳でもございませんよ。さあ、そのように泣かれずとも。俊宏がお迎えに参りましたから、まずはお屋敷に戻られますよう」

 「吉野へ行くと申したのだな。では俺も参る」

 「長くかかると仰っていました。殿にはお務めがおありでしょう、お寂しいとはお察しいたしますが安倍殿もあちらでは忙しくされるそうですから屋敷にてお待ちください」

 「嘘だ」

 「うそ?」

 「晴明は嘘をついておる」

 「なぜですか?それになにが嘘だと仰るのです」

 「嘘なのだ…晴明は俺に愛想を尽かしたに違いないのだ。だから出て行ったのだ、もう俺の顔など見たくもないと思っておるのだ!」

 「なにをまたやぶから棒に…」

俊宏にしてみれば"この世に赤い雨が降ろうとも、あのインチキ陰陽師が殿を諦めるはずがない!"と断言できるほどなのだ。しかも恋愛音痴どころか全く素人の博雅にそんなことを言われたって痛くも痒くもない。また何か妙なことを、くらいの認識でさっと博雅の体を抱き起こし控えさせていた舎人を呼びつけた。

 「殿の沓と袿を」

 「俊宏、俺はこのまま吉野へ参るぞ」

 「無理です。仮にどこかへお出ましになるとしても、そのようなお姿では庭に出ることも禁じますよ」

 「では着替える。それならよいか」

 「夕べは酒を過ごされ、庭に出られた際おみ足を傷められたそうですね。本日は屋敷にてご静養いただきます」

 「俊宏、晴明がおらぬのだ。故もなく俺は置いていかれたのだぞ!」

 「お仕事ですよ。博雅様、先ほどよりいかがされたのです。安倍殿は都の守りの要におられる方だと、常々ご自分で仰っているでしょう。お務めがお忙しいのも互いのことではありませぬか」

 「違う、違うぞ。あれは仕事があるなどとは言っていなかった」

 「ですから火急の件にて、と仰っていました。ハイもうここまで。続きは屋敷に戻りましたらゆっくり拝聴仕ります」

長年の躾により有無を言わせぬことにかけては俊宏に軍配が上がる。舎人から差し出された沓を履かせ、袿をその身に着せ掛けるとさっさと牛車まで連行した。

 「明日はご出仕にございます。安倍殿がご不在であれば尚のこと、お務めに励んでいただきますからね」

 「嫌だ。このまま吉野へ参る。俊宏、頼むからいうことを聞いてくれ」

 「ダメ」

ぷいと顔を背け簾を下ろしてしまう。子供の駄々を聴いているヒマはないのだ。

 

大きな車輪が微かな轍を残し安倍邸を後にする。

門が、音もなく静かに――――閉じた。

 

 

 

 

 

 

稀代の陰陽師、安倍晴明は内臓を吐き出すかのような大きな溜息をまた一つ零す。

 「ひろましゃあ…」

彼の周囲は彼が書き綴った見えない"の"の字で埋め尽くされている。ここまでウジウジされるとカビも生えるのを躊躇うようだ。じめーっとした空気の中にひんやり冷たい風が吹いて不気味な秘境を作り出している。

好きなら好きでいいだろう!とは思うのだが、晴明ほどの恋の達人になると逆に初心な博雅をどう扱えばいいのか持て余してしまうものなのだろう。まして彼が晴明を、自分の意志で"好き"と思うはずはないとも知っているので虚しいばかりだ。

だが。

賢明な読者のみなさんには既にお気付きだろうが、どうやら惚れ薬は思わぬ効果を発揮している模様である。あの博雅が晴明恋しさに泣いているのだ、薬も切れた今になって。

まどろっこしい?

まどろっこしいでしょう。

でも仕方ない、それが博雅であり晴明だから。

はふぅぅぅ

また一つ溜息が増える。じめーっと、ひんやりーが増えていく。鬱陶しいなぁ、男ならドンといけばいいだろう!と叱咤激励したいところだがやっぱりそれも"博雅相手"という最大最高のネックがあるので踏み切れない。散々やりたい放題をしてきた晴明だが、ここにきて真剣に考えてしまったのだ。

博雅は自分を好きだと言う。でもそれは恋ではなく友情だ。紛うことなき純然たる"友"としての好意であり、晴明が望むものなど微塵も含まれてはいないのだ。

と、晴明は思い込んでいる。

まあ半分どころか七十パーセントくらいは当たっているのだが、昨日までの九十九パーセントに比べれば目覚しい進歩を遂げたと言えるだろう。寝たきりの赤ん坊が立って歩くくらいにはなったのだから。…しかし寝たきりの赤ん坊と言う表現はちょっとアレだ。

さて、みなさんがもう一つ気になっているであろうことを明かしておかねばならない。晴明の居所のことだ。

彼は夜明けを待って蜻蛉一人を伴うと牛車に乗り込み博雅の屋敷へ向かった。そこで夜なべして袍を繕っていた俊宏に"吉野へ行く"と言い残しそのままここへやってきたのである。

どこへ?

ここへ。

 

 「晴明…お主、まことにここに逗留せんと申すか」

 「都を離れる訳には参りませんから」

 「しかし、ここであればお主の屋敷も目と鼻の先ではないか。なにゆえ我が家に滞在せねばならぬ」

 「博雅一人を残していくなど出来ようはずもないからに決まっているからです」

 「はて、なにゆえ博雅の名が出て参る?ははあ、やはりそうか。だからまろが、己の館にて他人の新婚生活を送られるなど堪えられぬことではないのかと申したではないか。今更その様に拗ねたところでどうとも出来ぬぞ」

 「うるさい」

 「うるさい?はれ、まろに向かいその様に乱暴な口を利くとは」

 「煩いものは煩いのだ。下がってくださらぬのなら北の方に御注進申し上げてもよいのですよ、これまでの、右大臣様のいろいろのこと…」

ひっと声を上げた男が小走りに走り去る。磨き上げられた簀子が立てる音は恐るべき速さで小さくなっていった。余程恐ろしかったのだろう。

晴明は、人気の絶えた西の対の一室で物憂げに俯いた。端から見ればなんとも艶めかしくそそられる光景ではあったが、その頭の中には博雅のことしかない。

ここは右大臣、藤原師輔の屋敷"九条殿"である。晴明や博雅の暮す館も寝殿造りではあるが平等院鳳凰堂などの本格的寝殿とは異なるものだ。けれどこの師輔の屋敷は内裏からは程遠い九条に位置する一町(16,000平方メートル/東京ドームのグラウンドのみの面積で13,000平方メートル)を要した邸宅であり、またこの屋敷に住まう彼自身も『九条殿』と呼ばれていた。因みに博雅の屋敷は現在四位ということで二分の一町、晴明になると四分の一町と身分によって規制があった。光源氏の造った六条院は四町という設定だが六万四千平方メートルと言えば日本人らしく東京ドームに換算して敷地全ての丸々一個半もある。羨ましいぞ、光源氏!

そう言えば、映画ではこの師輔が"左大臣"とされているが、これは一応架空のストーリーですよーという意味なのだろうか。いややたらと疑問の多い物語だね。

まあいいや、ってことで話を進めるが晴明がこれでは進めようがない。

彼は博雅の屋敷を出ると真っ直ぐ九条殿を訪ねていた。人の迷惑も考えない早朝奇襲攻撃のようなものだが師輔には断わることの出来ないあれこれがあるので、晴明の言うがままこの一室を明け渡してやったのだ。師輔のあれこれ…知りたいような知りたくないような微妙な話ばかりであるが、本編とは関わりがないので放っておこう。

放っておいて、進めようがない物語をなんとか進めようと思ったら今度は予定文字数を越えていたので今回はここまで。

 

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…ってまだアップしないんだけどね。




                                      続く →